定子2
この登花殿は一つの城であり、国であり、世といってもよい。それが、そなたの知っている通り、この後宮には十二あるのです。その一つを主上から賜り、住まうと言うことは統べる義務があるの。
そして私とともにここに住まうそなた達は私の身体と言っても過言ではないのです。わかる?」
「はい。」
「使者からも話しがあったであろうが、そなたを召し上げたのは父母の希望もあるが何より私の希望であったから。」
「えっ」
「意外かや?清原の娘」
清原の娘。定子からこの呼び名で呼ばれるのは初めてだ。身体にぴりっと緊張が走る。
「我が母の出はしっておるであろうの」
「はい、もちろんでございます」
定子の母は才女として名高い高階貴子だ。その知識は漢学にも及び、殿方が舌を巻くほど。
「そなたの知識は外の世界では生かしきれぬものだと感じたことはないか」
定子の問いがするりと心の隙間に忍び込むように聞こえた。
「…」
「あるようね。そうでしょう。漢学は殿方のもの。ただ、流行というものがこの宮中にはある。」
その言葉に反応した宰相君が控えめな衣ずれの音をたてながら動き几帳の周囲を見渡す。
「宮様…?」
「宰相、右衛門そなた達もよくおきき。
父君は母を娶るときに思い付いていたはずだ。殿方の知識にも精通し、なおかつ女性としての感性で機知に富んだ発言のできる後宮を作ることを。
今までにない女子の姿に殿方は興味をそそられるに違いない。それは主上とて同じ。同じ知識をもち、同じ話が出来る。しかし、殿方のものに手を出すからには、それを賢しいと感じさせない雰囲気と女性ならではの感性が必要なのじゃ」
慣習を破る。それは賭けである。失敗すれば定子は寵を失うことになりかねない。
それは、中関白家が凋落することを意味する。
「宮様、それに何故私が…他にも漢学に通じた方はおられるでしょう」
「さあ、どうであろうの。探して見ればそうかもしれぬ。しかしそなたの出は他の誰でも持てるものではないし、なにより父の計画においてそなたの身分は重要なのだ。」
「身分?」
「そう、此処にいる宰相や右衛門を始め上臈の者達は家柄も知識も問題ない者が揃っておる。漢学も多少はできる。しかし上臈の者達だけでは流行りはつくれぬ。その下の者まで色を浸透させねば」
右衛門がめずらしく、はらりと扇を開いて口元にそえた。
「宮様は肥後にその先達になれと…?」
「そうじゃ。なんじゃ右衛門、私がただただ暇を持て余して肥後を呼んでいたとでも思うてか?」
「はい、間違い、ではありますまい?」
「む…ばれておったか。」
「宮様」
仕方なかろうと定子は膨れる。
笑い話しにしている三者を余所に、かなり重大な話しだと肥後は冷や汗をかいた。
後宮の人気は妃嬪の寵と切っても切り離せない。そして妃嬪の役目が日継の皇子を産む事である以上、政治的に意味を持つことは誰もが知っているのだ。
宮は自分に政すら変える後宮の雰囲気を作れという。中関白家の賭けの軸になれと。
眩しさばかりではない…。
宮中の光りの中に垣間見えた影に肥後は肌が粟立った。
「私は当たり前のように漢学を学び親しんで育ったしかし皆は違う。私が当たり前に投げかけた質問に右往左往する始末じゃ。これではつまらぬ」
肥後の思いを知ってか知らずか、定子はなお続ける。
「私もそなたももちろん皆も楽しいに違いないと楽観しておったのだが…しかし、なかなか辛い役割であったようだの」
「宮様…」
最後の一言ににじんだ優しい響きに、肥後は、暇を出されるのだろうと、どこか他人のことのように聞いた。
「今の登花殿の律を決めるのは私。そなたを私がここに置くと決めたからには皆には理解してもらう。そなたを誹謗中傷するということは、私を侮辱するのと同じこと」
凛とした声に、伏せていた顔をはっと上げると定子は扇も構えずこちらを見据えていた。
「ひいては中関白家を、今上を誹謗中傷するということ」
突然、几帳の影から甘やかな声がし、灯火が揺れる。夜風に複雑に焚き占められた香が匂った。