葛城神
「葛城神」
右衛門の声がする。
「いるのだから返事なさい葛城神。」
「…。」
「肥後」
まったく、頑固なという響きがあった。
「…はい」
「宮様がお呼びです。さっさと伺候なさい」
仕方なくした返事に予想通りの言葉が返って来た。
「姿を整えてから参りますから…」
「そういって後一刻はお待たせする気でしょ。何を言っても引っ張ってこいとの仰せです。髪は必要だと思ったらこちらで整えなさいと。どうせしっかり衣着ているのは解っているわ。こちらに参って間もないお前が、こんなにも宮様から催促を受けるのは宮様がお前を気に入っているから。これ以上ご期待に背くようなことをするなら、私の局から叩き出して差し上げてよ?さ、行きましょう」
右衛門に連れられ渋々、廊を渡る。扇だけは辛うじて手に持てた。これがなくてはあのきらきらしい場所にはとてもいられない。
「宮様。肥後が参りました」
右衛門は登花殿の主、中宮定子の座に近づき、告げる。
寛いだ体勢でしかし若干退屈していた定子はおや、と言う顔をして瞳を輝かせた。
「そう、早かったわね、珍しいこと。どんな術を使ったのじゃ右衛門。」
脅しです。
肥後が聞いていたら答えるだろうと思いながら右衛門は微笑んだ。
「どこに?早う、こちらへ」
部屋の最奥。床より高くした畳みを敷き、四方に灯をして後ろには屏風。几帳で区切ったその空間には定子の気に入った上臈の女房しかいない。
そして、定子のいる最奥に行くには、その前に並み居る上臈以外の女房の間を通らなくてはならないのだ。
前を歩く右衛門は全く気にもせず明るく周りに笑いながら歩くが、彼女に向けられている視線と自分への視線にはそれこそ天と地ほどの差があった。
これなら餓鬼のほうがよほど可愛いとさえ思える。
何故またあの者ばかり…という露骨な言葉も聞こえるが、扇に手が伸びそうになるのは堪えた。この場で、扇で顔を覆ったりした日には高貴なつもりか何様かと散々な言われかたをする。もはや初日に経験済みだ。
父は従五位の肥後守。曾祖父からの名の知れた歌詠みの家というだけで地位が高い家柄でないのは自分が一番よく分かっている。
使いが来て出仕しろと言われた時はなんと運が良いのがとも思ったりしたがこうなると運が悪かったのかもしれない。
「肥後」
この宮で一番優美な声が自分を呼んだ。
いつの間にかこの宮、登花殿の主の前に着いていた。
「近う」
色目は控えめだが艶のある最上の絹の衣を纏い、後ろには見事な細工の屏風。
しかしそんなものよりも艶めかしいのはそこだけ新月の夜空のように黒く長く流れる髪であり、灯火に照らされる顔は薄化粧にも関わらず抜けるように白く、唐渡りの磁器のよう。花びらのようなくちびるは恋をした乙女のような桜桃色である。
今を時めく中宮、藤原定子はこれもまた見事な一品である扇を片手に玩びながら黒曜石のような瞳を輝かせてこちらを見ていた。
「肥後、仰せに従いただ今参じました」