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第24話 面子と、実利

 卓の中央に置かれた白紙は、まだ一字も載せていなかった。


 失効の罠は崩れた。条約は手順を踏んで卓に着く。それは決まった。けれど、決まったのはそこまでだった。これから、何を更新するのか――その中身は、まだどこにもない。


 ファルクは、ふたたび痩せた手を組んだ。


「では、条件を一つずつ」

 彼は静かに切り出した。「我が国が更新に応じる代わりに、改めていただきたい条が、三つある。――オズワルド」


 オズワルドが、半年前と同じ三本の指を立てた。


「一つ。国境を越える毛織物の関税を、現行の三分の一に。一つ。北の係争地、二つの村の徴税権を、ヴェルダンへ。一つ。調印は、ヴェルダンの宮廷で」


 ガルムの顔が、また強張った。彼は三つとも呑めぬと知っている。けれど、なぜ呑めぬのか、どれが本命でどれが捨て駒かまでは、読めていない。


(三つとも、卓に並べ直してきた。けれど、置き方が違う)


 レオノーラは内心で、指を一本ずつ数えた。調印の地は、もう脅しの重みを失っている。卓はすでにフリーセンで開いた。残るは関税と、二つの村。そのどちらかが本命だ。


 *


 ファルクは、レオノーラを見た。


「貴公が仲介に立つというなら、伺おう。この三条、どこから崩す」

 それは試問だった。彼女がどこを本命と読むか、その一点で彼女の手腕を量る目だった。


(手で人を量る男。――では、量らせましょう)


「調印の地は、外します」

 レオノーラは即座に言った。「卓はすでにフリーセンに着きました。今さら王宮へ場所を移す理は、ヴェルダンにもございません。これは、重しでしょう」


 ファルクの目が、わずかに動いた。否定はしなかった。


「残る二つ。関税と、二つの村」

 彼女は続けた。「このうち、ヴェルダンが本当に欲しいのは――関税です」


 卓に、間が落ちた。


「ほう」

 ファルクは薄く言った。「なぜ、そう読む」


「二つの村の徴税権は、額にすれば小さい。村二つの税では、ヴェルダンの蔵は潤いません。けれど面子は、大きい。長年の係争地を獲った、という形が残る。――つまり、村は面子の条です」

 レオノーラは指を折った。「関税は、逆です。毛織物の往来は年々増えている。三分の一にすれば、ヴェルダンの商人が手にする利は、年を追って膨らむ。これは、実利の条です」


 ファルクは答えなかった。けれど、組んだ手の指が、ごく浅く動いた。図星を、内側で確かめる手つきだった。


「ヴェルダンが本気で取りに来たのは、利の出る関税。村は、関税を呑ませるための重しか、あるいは――関税を退けられたとき、せめて面子だけは持ち帰るための、二の手」


「面白い見立てだ」

 ファルクの声に、初めて温度らしきものがにじんだ。「だが、見立てが当たったところで、貴公に何ができる。我が国は関税を欲し、貴国は関税を呑めぬ。欲しいものが、真正面でぶつかっている」


「ぶつかっておりません」


 レオノーラは、静かに言った。


「ヴェルダンが欲しいのは、実利。リーゼンが守りたいのは――いま、卓の向こうのお顔を見れば、面子です」


 ガルムが、思わず居住まいを正した。図星だった。王国が何より恐れているのは、強国に屈したと、諸国に知られることだった。


(片方は実利、片方は面子。欲しいものが、そもそも違う。――ならば、纏まる)


 *


 レオノーラは、卓の白紙を引き寄せた。


「関税は、三分の一には下げられません。リーゼンの蔵が、保ちません」

 彼女はまずそう言った。「ですが、現行のまま据え置く、とも申しません。それでは、ヴェルダンが卓に着いた甲斐がない」


「では、どうする」

 ファルクの目が、紙の上の彼女の手を追った。


「毛織物の関税を、二段に分けます」

 レオノーラは筆を取った。「織り上げた反物――完成品は、現行のまま。けれど、染める前の生地、織りかけの中間品については、現行の半分とする」


 オズワルドが、わずかに身を乗り出した。


「ヴェルダンの強みは、染めと仕立てです。中間品を安く仕入れ、ヴェルダンで染め上げ、仕立てて売る。生地の関税が下がれば、ヴェルダンの商人の利は、年ごとに膨らむ。――三分の一には届かずとも、利の出る道は、ひらきます」

 彼女は筆を止めた。「リーゼンの織り手も、完成品の関税が守られる限り、損はしません。下げるのは、ヴェルダンが加工して付加するぶんの、その入口だけ」


 卓が、静かになった。


 ファルクは、紙の上の二行を、長く見ていた。三分の一の関税で得られる利と、中間品半額で年々膨らむ利。どちらが、ヴェルダンの蔵に厚いか。彼は策士の頭で、それを瞬時に量っていた。


(実利は、こちらのほうが、おそらく厚い。彼はそれを、もう計算している)


「……村は」

 ファルクが、低く言った。実利の道が見えたいま、彼の関心は、面子の条へ移っていた。「二つの村は、どうする」


 *


「二つの村の徴税権は、リーゼンには渡せません」

 レオノーラは、今度はガルムのほうを見ずに言った。彼の顔色を見れば、答えは分かっていた。


「ですが、ヴェルダンに面子を持ち帰っていただく道は、ございます」

 彼女は筆を、ふたたび紙に置いた。


 間があった。


 ガルムも、オズワルドも、ファルクも、その筆先を見ている。


 間。


「では、こう書きましょう」


 間。


「『二つの村の慣習と祭礼については、両国がこれを尊重し、ヴェルダンの古き縁を、改めて確かめるものとする』」


 彼女は、ひと息で書いた。


「徴税権は、動きません。村は、これまでどおりリーゼンの治めるところ。一字も変わりません」

 レオノーラは顔を上げた。「ですが、ヴェルダンには『古き縁を確かめた』という一文が残ります。二つの村に、かつてヴェルダンとの縁があったことは、史実でございましょう。それを、両国が公に認める。――頭を下げて獲るのではない。古い縁が、改めて確かめられた。そう読めます」


 ファルクの指が、止まった。


「税は、一銭も動かぬ」

 彼は確かめるように言った。「だが、ヴェルダンは、係争地に縁を認められた、と」


「左様です」

 レオノーラは答えた。「実利は関税で。面子は、この一文で。――どちらも、別々のものを持って帰っていただく」


 卓に、北の風が、もう一度だけ通った。


 *


 ファルクは、しばらく動かなかった。


 彼は痩せた指で、卓の縁を一度、撫でた。それから、紙の上の二つの書き換えを、もう一度、目で追った。中間品半額で膨らむ実利。係争地の縁を認める一文。どちらも、ヴェルダンが手で量れば、確かに利のある形だった。そして、リーゼンも、何一つ致命を呑んでいない。


(彼は、いま、損得を勘定している。怒りではなく、勘定で動く男)


 ガルムが、口を挟みかけた。「しかし、係争地に縁を認めるなど、王国の威信が――」


「外務卿どの」

 ファルクが、静かに遮った。「税は、動かぬ。村は、貴国のものだ。それで、なお不服か」


 ガルムが、黙った。


 ファルクは、レオノーラへ向き直った。


「貴公は」

 彼は言った。声に、怒りはなかった。あるのは、長く卓を見てきた者が、初めて真正面から相手を認める、乾いた静けさだった。「我が国が関税を欲し、貴国が面子を守りたいと――欲しいものが違うことを、最初から見ていたな」


「左様です」


「だから、ぶつけず、交換した」

 ファルクは、ごく浅く頷いた。「実利を一方へ、面子をもう一方へ。同じ卓で、双方が別々のものを持って帰る。――脅しでも、譲歩でもない。組み替えだ」


 彼は、痩せた手を、ふたたび卓の上で組み直した。今度は、握りを解いたままの、ゆるい組み方だった。


「私は、生まれで人を量らぬ。手で量る」

 ファルクは、目を細めた。「貴公の手は――確かだ。城を出た娘が、なぜ城の外で卓を回せるのか、いま、分かった」


 それは、退いた者の言葉ではなかった。負けを認める言葉でもなかった。一人の策士が、卓の向こうに、初めて値する相手を見出した、その言葉だった。


「よろしい」

 ファルクは、静かに言った。「この二行で、ヴェルダンは更新に応じよう。本国へは、私が通す」


 彼は怒らなかった。声も荒らげなかった。ただ、彼女への評価を、内側で一段、上げた。その目には、いずれまた、この卓の向こうで相まみえる――そんな、遠い余地が残っていた。


「では、こちらを清書いたします」

 レオノーラは、二枚の紙を、静かに揃えた。


(実利と、面子。別々の紐を、同じ結び目だと思い込んでいただけ。――解けば、二つに分かれる)


 ファルクは、立ち上がりかけて、ふと卓の白紙の残りを見た。


「貴公の卓は、これで仕舞いか」

 彼は問うた。「私は退く。だが――その紙に載るのは、ヴェルダンの条だけではあるまい」


 レオノーラは、揃えた紙から目を上げなかった。


(あとは、署名を残すのみ。――けれど、この方の言うとおり)


 彼女の視線は、卓の向こう、南の席で青ざめているガルムへ、ごく短く向けられた。ヴェルダンとの卓は、整った。けれど、その同じ卓に着いている王国の側に、まだ片づいていないものが、一つ。


(卓を整えても、片づかぬものが、王宮の側に残っている)


 白紙は、まだ半分、空いていた。


 面子と、実利。欲しいものが違うのなら、ぶつける必要はありません。実利を一方へ、面子をもう一方へ。一行ずつ、別々に持って帰っていただく。レオノーラの母譲りの手が、いちばん奥の卓で、静かに二つの紐をほどきました。

 ファルクは退きました。けれど、彼が最後に残した問い――その紙に載るのは、ヴェルダンの条だけではない。次話、卓に残った最後のひとつが、姿を見せます。

 お読みくださり、ありがとうございます。ブックマークと評価が、次の一行を書く励みになります。


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