第一章 白色の世界6
どういうことだ?家族、結婚した相手にしか名前を言えないという決まりがある宗教の敬虔な信者か?それともこいつにとって俺は名乗るに値しない人間と判断されたのか?
……なんか腹立つな。理由がどうであれ、相手が名乗りでたら名乗り返すのが社会の常識だろ。何なんだこいつはァ。……違うか。
俺は軽く肩をすくめ、礼儀正しく、微笑みながら、
「差し支えなければ理由を聞いてもよろしいでしょうか?」
漢は腕を組み、眉間にしわを寄せ、渋い表情で、
「ああ、問題ない。俺が涼盛……君に名を明かさなかったのには明確な理由がある。それは俺が記憶喪失になっているからだ」
愕然とした俺は思わず口を開けてしまった。こいつの表情と口調から嘘というものは一ミリも感じ取れない。嘘の反対、つまり本当のことだ。記憶喪失なんてのはフィクションの世界にしかないものだと思っていたんだがな。まあ俺も自分の名を思い出せない程ではないが軽い記憶喪失になっている……らしい。
漢は組んでいた腕をほどき、片手で顎先を触る。じょりじょりと顎髭と指の摩擦音が俺の耳に入る。そして、
「冗談を言っていると思うだろ?だが違う。本当に何も思い出せないのだ。己の名前、年齢、生い立ち、長所短所、好物……全てが俺の頭から湮滅している。おそらく十数年積み上げてきたであろう俺の記憶が水の泡となってしまった。君には分からないだろうこの煩悶する俺の辛さを。そして怖さ……怖いんだ。全てが怖い……。俺は早く記憶を取り戻してこのクソみたいな世界から逃げ出したい……」
全身が多数の腹をすかした肉食獣に睨まれた小さい草食獣のように戦慄いている漢は自分を抱きしめる。震えが止まる気配は一抹もない。
俺は周囲にいる者に威圧感を与える漢が参っているのを見て少し狼狽えたが、直ぐに冷静になれた。この漢と違って俺は自分の情報を持っている。覚えていないのは俺がこの世界にどうやってきたかくらいだ。あ、斉ヶ原のこともか。となると俺もかなり忘れていることになるな。だが、この漢と比べたら比べるのも烏滸がましい程マシだ。天と地……いや、地球の核と冥王星の差ぐらい離れているだろう。自分が何者かが分からないということの恐ろしさは計り知れない。少しでもこの漢が安堵出来るように力になるべきだろ俺。狼狽えている暇なんかねぇんだよ。
俺は自分の右頬を右手で叩き、漢に向かって、
「大丈夫だ!絶対記憶を取り戻せるって!そしてここにいる人達皆で協力してこの世界から脱出しよう!いけるさ!」
「……!?」
漢は声は出さなかったが、己を抱きしめていた両腕を軽く上げ、鳩が豆鉄砲を食ったような表情で驚いた。
らしくないことを大声で言っちまった……恥ずかしいな。 今後、穴があったら入りたいということわざを使うには今の俺と同じ気持ちじゃないと使えないという決まりを設けよう、うん。




