- 5 - 岩屋
1日目
高速神戸>>山陽明石>>明石港>>岩屋港【桜、楓花、カメリア、ひまわりの現在地】
早朝、6時53分、淡路ジェノバラインの船は防波堤をかすめるようにして岩屋港に滑り込んだ。
曇天の海は銀色に光り、穏やかな波間に朝の光が差し込む。
対岸の明石港からは、十五分にも満たない短い船旅だった。
港を包む風はまだ肌寒く、潮の匂いが頬を撫でる。
視界の半分には明石海峡大橋の巨大な橋脚。海峡をまたいで本州へと伸びている。朝靄をまとったその姿は、まるで海を守る城門のようだった。
淡路島側にはいくつかの桟橋と港の施設が見える。その岸壁には数十隻の漁船が静かに並び、青や赤の塗装は潮風に褪せていた。
「うわ……港って、なんか懐かしい感じするなあ」
ひまわりは目を輝かせ、手で船の錨や波しぶきをなぞるようにして言った。
港町の朝の空気を全身で楽しんでいる。
山と海の間にひしめく家やビル、その手前には海岸沿いの岸壁がのび、大小さまざまな漁船が所狭しと停泊している。
島の漁港ではよく見る光景だが、何度見ても郷愁な感動がある。
桜、楓花、カメリア、ひまわり――四人は並んで、岩屋の町を海岸沿いに歩き始めた。
淡路島を訪れたことは皆あったが、友人同士で来るのは初めてだ。そのせいか、旅の高揚感が自然と胸に広がっていた。
「うん。たしかに、時間が、ゆっくり流れてるみたいね」
桜は微笑む。
海とは反対側、山側には、潮の香りを含んだ細い路地が、瓦屋根の家々の間を縫うように伸びている。
港町特有の空気が、そこには漂っていた。
戸口に置かれた魚箱や網のそばに、家々が肩を寄せ合って並んでいる。
「潮と魚の匂いがするね」
カメリアは視線を細めた。長身の体は静かに立ち、青い瞳に朝の光が反射している。
たしかに漁港とその町に漂う独特の雰囲気だ。
「朝やしな。これから町も目覚めるんやろな」
ひまわりが小声で言い、海岸近くの通りの雰囲気を楽しむ。
「これが絵島だね」
さっそくカメリアが、この岩屋の観光スポットを見つけた。
「岩の断面。層の傾きが面白い。波と時間が、この島を作ったんだね」
彼女は指先で空気を切るようにして、海岸にある砂岩の層からなる小島を指し、淡々と観察する。
桜も立ち止まり、少し声を張った。
「うん。国生み神話に登場するオノコロ島の伝承地のひとつよ。伊邪那岐と伊邪那美、つまり国生みの神さまにゆかりのある場所ね」
「オノコロ島? ……なにそれ、よくわからへんけど」
ひまわりは首を傾げ、絵島のむき出しの岩肌を見つめた。
よく見ると、島の上には小さな鳥居が立っている。
好奇心で目が輝き、思わず小さく笑みを零した。
楓花は、絵島につながる小さな橋を見てつぶやいた。
「渡れるな」
「じゃあ、渡ってみようか」
桜は嬉しそうに応じた。
四人は橋の手前まで歩き、絵島に近づいた。
橋の手前には西行の詩歌が紹介されており、古くから旅人の目を引いた島であることがわかる。
――ただ、どうも橋は渡れないようだったが。
残念がる三人をなだめるように、カメリアは地形学者のように説明する。
「この島は三千五百万年前の砂岩層だよ。昔は陸続きだったけど、長い時間をかけて波や風に削られ、今の形になったみたいだね」
「へぇ……そういえば、この近くの神社、昔は洞窟に祀られてた時代もあるんやって。さっき案内板に書いてあった」
ひまわりは絵島の岩肌や足元の砂利に目を向け、その場に漂うひんやりとした気配を肌で感じていた。
見上げると、島の上には小さな鳥居もある。
「本当に、神とかに関係してたんとちゃう? パワースポットや」
「そうかも」
楓花は短く答えたが、内心では神や仏を信じているわけではなかった。
ただ、こういう場所には独特の雰囲気がある――それだけは否定できないと思った。
絵島のすぐ近く、赤い鳥居が海風に揺れる小さな社がある。
恵比寿神社だ。祭神は蛭子命と事代主命。海の神さまと商売の神さまとして、港町の人々に親しまれてきた。
境内にはまだ誰の足跡もなく、砂利の上に朝露が光っている。
ちなみに蛭子命は、伊邪那岐と伊邪那美のあいだに生まれた最初の神とされる。生まれながらに不具であったため海へ流された、という神話が残っている。
漂着物をえびす神として祀る信仰や、「走り参り」で有名な西宮神社の“えべっさん”も、そうした海と結びついた信仰の流れに連なるものだ。
桜は御朱印帳をそっと取り出した。
「ここでは御朱印もいただけるの。早朝だから直書きは無理やけど、金文字の書置きがある。ちょっと珍しいや」
「うわ、ほんまや。金文字って、なんか特別感あるやん」
ひまわりは身を乗り出し、桜の手元を覗き込む。笑顔が周囲の空気を柔らかくした。
境内の奥には岩楠神社がひっそりと鎮座している。
赤い柱に囲まれた小さな拝殿、その奥の社は伊弉諾尊や蛭子神とゆかりがあり、かつて洞窟に祀られていたとされる。
「……洞窟から今ここへ。神というのも、ずいぶん長旅だったんだろうね」
楓花は腕時計を確認し、一礼してから小声で呟いた。
「そろそろバスの時間だな」
髪を低くまとめた後ろ姿には、冷静さと計算がにじんでいる。
参拝を終えた頃、港町の空はわずかに明るさを増し、遠くの海上に明石海峡大橋の橋脚がそびえていた。その巨大さは、近くで見ればなお圧倒的だ。
淡路ICのバス停へ向かうため、坂を上る。バス停は高速道路が通る丘の上にあった。
途中、淡路サービスエリアにも立ち寄る。
ここでは観覧車が大きく空を切り、橋と対岸の神戸の街並みを一望できる――はずだった。
「……あれ、動いてない」
ひまわりが残念そうに指差す。
桜は苦笑して肩をすくめた。
「早朝だからね。観覧車も、売店もまだ眠っている」
確かに、淡路や京阪神の土産物や地産品を扱う店はシャッターを下ろし、駐車場に面した屋台も静まり返っている。たこ焼きも、天ぷらも、海鮮焼きも、今は香りすら漂ってこない。
風は心地よく、展望台から見下ろす明石海峡は、雲間の光を受けて鈍い銀色に輝いていた。
その海の上に、本州と淡路島を結ぶ一筋の線――明石海峡大橋が浮かび上がる。
「橋はでっかいなあ。昔の人がみると、びっくりするだろうなあ」
ひまわりがため息交じりに言うと、カメリアが短く同意した。
「そうだね。海に橋を架ける発想自体は昔からあったんだろうけど……。この規模を現実にするのは、長い間、想像の外だったんだろうね」
カメリアは心のなかで想像を巡らせる。
——たしかに、発想そのものは古代からあった。
古代ローマでは、ライン川やドナウ川といった大河でさえ、舟橋によって一時的に対岸を結ぶことができていた。ただし、それは軍事目的の仮設橋にすぎず、恒久的な架橋は当時の技術では想像の域を出なかった。
だが、幅およそ四キロの明石海峡となると話は別だ。急な潮流と絶え間ない船舶交通を抱えるこの海域では、石や木といった素材では現実的な架橋は不可能だった。
それが現実味を帯びたのは、二十世紀に入り、鉄鋼の大量生産と工学的検証が進んでからである。
風洞実験や海洋工学解析を重ねた末、明石海峡大橋は一九九八年、ついに完成を見た。
次の目的地へ向かうバスの時刻が近づき、四人は名残惜しげに展望台を後にした。
バスの出発時刻は7時46分。淡路島を南へ進み、洲本を目指す。
ひまわりは小さく息を吐き、少し身を乗り出して海を振り返る。
「次はどんな景色が待ってるんやろ」
胸の内でわくわくを膨らませた。
他の三人も、同じような期待を胸に抱きながら、足取り軽く歩き出した。




