- 1 - こんぴらさん
三日目――。
有馬桜、真砂楓花、葺合カメリア、御影塚ひまわりの四人は、琴平の小さなゲストハウスで夜を明かした。
午前五時。薄明の光が、まだ夢の底に沈む町をかすかに照らしている。外で鳥が一声鳴いた。
桜と楓花はすでに起きていた。歯磨きの音がやみ、部屋の隅から小さな寝息だけが残る。
ひまわりが覗き込むと、毛布にくるまったカメリアがわずかに身じろぎした。
「……起きて。もう五時」
「……まだ夜」
「朝やん」
ひまわりが笑い、桜が淡々と告げる。
「今から、こんぴらさんに登るんよ」
その言葉に、カメリアは毛布を頭からかぶった。
普段の冷静さからは想像できぬほど、彼女は寝起きが悪い。
それでも二十分後、四人は宿を出た。
背中には重いバックパック。
温泉街の通りはまだ眠りの中で、足音だけが静かな街に響く。
提灯の赤は消え、朝の湿気が湯の香を運んでいた。
「こんぴらうどん 北店」の前でひまわりが立ち止まる。
暖簾は降りたまま。
桜が掲示を見て「開店は八時からやね」と言った。
誰も返さず、ただ笑った。
ひまわりの残念そうな顔を横目に、彼女たちは表参道を登り始めた。
両側に並ぶ土産店のシャッターは閉ざされ、軒先の風鈴が微かに鳴る。
看板の犬や狐が朝靄の中で眠っているように見えた。
これから向かう金刀比羅宮――親しみを込めて“こんぴらさん”と呼ばれる社は、海の神にして、医療や商売の守護神でもある。
「こんぴらさんって、階段すごいらしいね。何段あるん?」
「本宮まで七百八十五段」
カメリアが即答する。すっかり目が覚めたらしい。
「七百八十五!? 朝からそれは地獄やね」
「奥宮までは、さらに五百八十三段」
「……死ねるな」
ひまわりの嘆きをよそに、三人は笑いながら歩き続けた。
桜は、本当は奥宮まで行きたがっていた。
だが、次の列車の時間がそれを許さなかった。
「観光客の大部分は、奥宮まで参拝することはしない」
——そう、自分に言いきかせる。
最初の百段は軽かった。
だが二百、三百と進むうちに、背の荷がずしりと重くなる。
三百六十五段目。霧の向こうに朱塗りの大門が姿を現した。
楓花は腕時計の針を確認した。
大門の開門時刻に合わせ、ちょうど六時に到着している。
計算どおりだったことを確かめるように、彼女はわずかに微笑んだ。
それを桜は横目で見やり、何か言いたげな表情を浮かべる。
大門は、二層入母屋造瓦葺きで、江戸時代、初代高松藩主が寄進したものだ。
大門の額には「琴平山」の文字が掲げられていた。
門の両脇の提灯には、〇の中に「金」の文字。
――「丸金紋」と呼ばれる御神紋で、よく見ると「金」の古字が使われている。
門をくぐると、空気が変わる。
樹々の香りが濃くなり、静けさが肌を包んだ。
さらに登る途中――四百三十一段目、木陰に丸い目をした石像が鎮座していた。
「こんぴら狗」とある。
かつて主人の代わりに参拝した犬である。首に金とお守りを下げ、人々の手に導かれながら、ここまで辿りついたという。
それはイラストレーターがデザインした愛らしい「こんぴら狗」の銅像で、人に代わって「代参」を果たした往時の習わしを、静かに語っていた。
桜は像の前で、そっと頭を下げる。
旅の途中で出会うものすべてに、ほんの少しの敬意を払う――それが、彼女の癖だった。
五百段目――木馬舎。桜は単焦点レンズを通して、白馬の姿を静かに切り取っていた。
その後ろ姿を見つめながら、楓花が言う。
「電車は七時三十六分発ね」
「本殿まで、もう半分は越えたのね」
ひまわりが息を整える。
「……でも本殿が開くのは七時だよ」
カメリアが呟いた。
「えっ」
楓花は一瞬目を見開き、スマホを確認する。
「……しまった」
彼女の計算では、すでに参拝を終えて下山しかけている時刻だった。
本殿が七時開門という事実を、すっかり見落としていたのである。
桜が笑った。
「めずらしいね」
ひまわりが肩をすくめる。
「帰りは、いつものようにダッシュやね」
四人はペースを落とし、祓戸社、火雷社と順に参拝しながら進んだ。
石段を上るたび、朝の空気が薄くなり、息が合っていく。
旅も三日目、四人の歩幅はようやく一つのリズムを得ていた。
檜皮葺の屋根の賢木門をくぐり、本殿前の最後の一三三段――御前四段坂。
そして七百八十五段目、金刀比羅宮本殿。
空はすでに明るく、社殿の屋根に陽が差していた。
七時ちょうど、御扉が静かに開かれる。風が止み、蝉の声が遠のいた。
本殿は檜皮葺、大社関棟造。1878年に再建されたものである。
こんぴらさん――山岳信仰と修験道が溶け合った神仏習合の聖地で、かつては観音を本地仏とする金毘羅大権現を祀っていた。
明治の廃仏毀釈を経て、いまは国造りの神・大物主大神を祀る。
“こんぴらさん”は、海の守り神であり、薬・医療・商売にもご利益があるとされる。
四人は並んで手を合わせ、旅の安全と今日一日の晴れを祈った。
東の空から差す光が、桜の御朱印帳に反射する。朱印の「金刀比羅宮」の文字が、朝の光の中でかすかに滲んだ。
桜は帳面を閉じて深く息を吐いた。
その横で楓花が腕時計を見る。
「そろそろ行こう。時間がない」
視線を交わすだけで、四人は同時に動き出した。
本殿から見下ろす眺望には、讃岐富士の円い稜線と、その裾に広がる町並みがあった。
だが、それをゆっくり味わう余裕はない。七時三十六分発の列車に間に合わせるには、もう下らねばならなかった。
今度は、七百八十五段の石段を下る番だ。
下りは登りより速いが、背負った荷の重さが脚にのしかかる。風がバックパックのベルトを鳴らし、息が笑いに変わる。行きとは違い、雑談を交わしたり、周囲の風景を眺めたりする余裕は、もうなかった。
加美代飴の屋台を通りすぎると、老婦が小さく会釈した。
桜はそれに礼を返し、息を切らしながら笑う。
このあたりが、彼女の性格なのだろう。
大門をくぐりぬける。
表参道の店々がシャッターを開け始めるより早く、四人は町の平地に戻った。
朝の空気がようやく人の気配を取り戻す。
時計は7時30分過ぎ。
駅まではあとわずか。足は自然と早足に変わる。
JR琴平駅――洋風建築の、レトロな駅舎が朝日に浮かぶ。昨夜見たときとは違う表情を見せていたが、ゆっくり眺める暇もない。
ホームに駆け上がったとき、7時38発の列車の出発を告げる放送が響く。
息を弾ませながら、四人は顔を見合わせた。なんとか列車に間に合った。
旅は、まだ始まったばかりだった。




