- 9- 後楽園と岡山城
2日目
佐用>>上月>>津山>>新見>>備中高梁>>総社>>備中高松>>吉備津>>備前一宮>>岡山>>岡山駅前>>城下【桜、楓花、カメリア、ひまわりの現在地】
岡山電気軌道の車両が城下駅に着いたのは、17時28分。
路面電車は道路状況に左右されることもあるが、定刻どおりだった。
楓花は腕時計の針を確認し、静かに息をついた。
西の空はまだ明るい。
けれど、夏の太陽はすでに低く傾き、街の影を長く引き伸ばしている。
空は澄み、雲はほとんど見当たらなかった。
扉が開くと同時に、楓花が立ち上がった。
「急ごう。後楽園の入園、あと十五分だ」
その一言で、桜、カメリア、ひまわりの足並みが自然とそろう。
城下の電停を降り、地下道を抜ける。
視界が開けた瞬間、旭川の流れと、その向こうに黒塗りの天守が姿を現した。
岡山城――夕陽を背に受け、光を吸い込むように立つその姿。
桜が思わず足を止め、小さく息をのむ。
「思ってたより、ずっと綺麗やね」
からかいのない、素直な声だった。
蝉の鳴き声が、まるでその感想をかき消すかのように、最後の力で響き続けている。
四人は旭川沿いを駆け出した。
――JR姫新線で渡ったときに見た、あの旭川だ。
そのときは上流だったが、ここでは街の夕陽を映している。
橋の欄干の影が長く伸び、川面には夕陽を砕いた金色の波紋が揺れる。
湿った風が頬を撫で、少し遅れてひまわりの声が跳ねた。
「もうちょっとや! ほら見えてきたで!」
鶴見橋の先、日本三名園のひとつ――後楽園の正門が、夕暮れの中に浮かび上がる。
後楽園。岡山藩主・池田綱政が元禄年間に築いた大名庭園である。
旭川を隔て、岡山城の対岸に広がる中州。
かつては藩主の離宮として使われていた。
延養亭を中心に据え、池泉回遊式の構成で水と光を巡らせた庭。 江戸の美意識と武家の矜持が、静かに息づいている。
門をくぐった瞬間、世界の音量が一段落ちた。
外の喧騒は遠のき、耳に届くのは風が草を渡る音と、水のせせらぎだけになる。
「……静かやなぁ」
ひまわりの声さえ、少し遠慮がちだった。
桜は周囲を見回し、くすっと笑う。
「ねぇ楓花。さっきまでの勢い、どこ行ったの?」
だが楓花は立ち止まらない。
「感心している暇はない。最短ルートで回る」
感傷は、計画の外だと言わんばかりだった。
最初に訪れたのは延養亭。
岡山空襲で焼失したが、現在の建物は当時の実測図をもとに忠実に再建されたものだ。
静かな空気の底に、失われた時間そのものが眠っているようだった。
縁側に立ち、桜が沢の池を見渡す。
「……ねぇ、鏡みたいじゃない?」
池の水面は淡い金に染まり、空と地の境界を曖昧に溶かしている。
背後の唯心山――高さ六メートルの築山が影を落とし、白砂には雲の輪郭がそのまま映っていた。
カメリアが、少し間を置いて呟く。
「そうだね。静かすぎて、時間のほうが流れていくみたい」
その長い銀の髪が、夕暮れの庭園に不思議とよくなじんでいた。
池には、いくつかの蓮が咲いていた。
花弁の内側に残光が差し、灯をともしたように淡く輝いている。
「これが“一天四海”やっけ?」
ひまわりが説明板を覗き込み、首を傾げる。
「名前だけ聞いたら、めっちゃ偉そうやなぁ」
カメリアは小さく首を振った。
「世界を一望する、って意味。……水と空で、全部つながってる」
「なるほど」 と楓花が短く応じる。
「つまり、景色は固定じゃない。見る側が動く前提で作られているというわけですね」
桜がくすっと笑った。
「ふーん。じゃあ、立ち止まってたら置いてかれるってことやね」
四人はゆっくりと園内を進んだ。
沢の池に架かる木橋の上で、風が芝生を渡り、彼女たちの髪をすくい上げる。
延養亭の屋根が最後の光を弾き、水面が揺れるたび、金の粒が散った。
水、風、音、人。 どれも突出せず、静かにひとつの輪を成していた。
やがて空の金は薄れ、青に溶けていく。
「もうすぐ日が落ちるね」
誰ともなく、そんな声が漏れた。
池に映る岡山城の輪郭が、ゆっくりと夜の色を帯び始めた。
桜はカメラを構えかけて、指を止める。
「……まぁ、いっか」
この沈黙そのものを、覚えていたかった。
園を南へ抜けると、月見橋の灯がともり始めていた。
川面には街の光が散り、ひとつひとつが金の粒のように揺れる。
石垣の上に天守の黒が浮かび、振り返れば後楽園の緑が夜気に沈んでいた。
黒い下見板張りの外観から、岡山城は「烏城」と呼ばれてきた。
天守は四重六階を数え、当時としても大規模な建造物だった。不等辺五角形という、同時代の城郭の中でも珍しい天守台を持つその姿は、戦国の城の古い形式を今に伝えている。
明治時代の廃城令と、1945年6月29日の空襲によって、岡山城は多くの建物を失った。
岡山の市街地とともに焼失した天守は、街の象徴として惜しまれたが、その後、実測図をもとにコンクリート造りで再建されている。
月見櫓と西之丸西手櫓だけは、廃城令と空襲のいずれも免れ、現在もその姿を伝えている。
楓花は城から視線を切り、時計に目を落とした。
「時間やね」
そして、続ける。
「18時7分発は、厳しい。戻ろう」
「えー、せっかく来たのに!」
ひまわりが不満げに声を上げる。
桜は少し考えてから、にやっと笑った。
「せっかくやし……石垣の上から、天守だけ見ていこ?」
本丸まで登りたい、という気持ちが隠しきれない。
カメリアは静かにうなずいた。
「……時間、そんなにかからないと思う。たぶん」
楓花は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑う。
「わかった。一時間刻みの計画を崩す」
「よっしゃ!」 ひまわりが勢いよく腕をまくった。
四人は再び走り出す。
夜風が肌を刺し、街のざわめきが遠ざかっていく。
石垣を回り込み、月見櫓をかすめるように石段を登る。
廊下門を抜けた瞬間、黒い天守が、沈みかけた陽を受けて浮かび上がった。
「……お城って、こんな綺麗なんやな」
ひまわりが、ぽつりと呟く。
「行くよ」と 楓花が促す。
「本当に間に合わなくなる」
四人は石段を駆け下り、城下の電停へと急いだ。
18時13分発の路面電車が、静かに滑り込んでくる。
並んで腰を下ろすと、車窓に流れる街の灯りが、それぞれの横顔を照らした。
桜は目を閉じ、日本百名城のひとつを訪れた余韻に浸る。
ひまわりは小さく伸びをし、カメリアは黙って夜の街を見つめている。
楓花は窓に映る自分の顔を見て、わずかに口元を緩めた。
路面電車が岡山駅前に戻るころ、空はすっかり夜になっていた。
楓花が時計を確認する。
「定刻どおり。18時20分着」
だが次の目的地――倉敷行きの列車は、18時23分発。
一本遅らせた代償が、そのまま脚力として返ってくる。
四人は視線を交わし、息をそろえた。
「――走るよ!」
岡山の夜風が、再び彼女たちの背を押した。




