- 1 - 湊川神社
夏の早朝5時30分。
神戸の中心、湊川神社の境内にはまだ薄暗い空気が漂い、木々の葉が微かにざわめき、鳥の声だけが静かに響いていた。
有馬桜、真砂楓花、葺合カメリア、御影塚ひまわりの四人の女子高校生たちは、その静寂のなか、重めのバックパックを背負いながら、表神門をくぐり、参道をそろりと歩いていた。
長期の縦断旅行に備えた荷物は決して軽くはないが、背中には期待の色が滲んでいる。
ひまわりは目をこすりつつ、小さくため息をついた。
「はあ……朝早いなあ、ほんまに」
後ろでゆるく束ねた茶色の髪が揺れる。関西弁は静けさに不思議と溶け込み、彼女の柔らかく直感的な性格を表していた。
自然や温泉、食事の小さな感動を大事にするおっとり派で、仲間を和ませるムードメーカーでもある。
隣のカメリアは、銀色の長い髪をわずかに揺らしながら、澄んだ青い瞳を細めて微かに頷いた。
「眠そうだね、ひまちゃん」
そう言う彼女自身も、まだ早朝の時間帯に身体が慣れていないようだった。
その青い瞳の奥には、つねに鋭い観察眼が宿っている。
都会の只中にあっても、境内の楠や、樹齢およそ百五十年とされるオリーブの木へと、彼女の視線は自然と向かい、わずかな興味を示していた。
そのオリーブの木は、神戸の阿利襪園から移植されたもので、日本最古とされている。
だが今は、そうした関心を表に出すこともなく、他の三人の歩調に合わせている。
桜は黒髪のストレートロングをわずかに揺らしながら、境内を見上げた。
「湊川神社ってね、建てられたのは明治のはじめなんだよ。意外でしょ?」
ひまわりは首をかしげ、少し間を置いてから、ぽつりと呟く。
「けっこう大きい神社やろ? でも……新しいん?」
彼女は、神社の由緒書きをじっくり読んだ記憶などほとんどない。
ただ、“千年前に創建”だとか、“奈良時代に建立”だとか、そういう言葉は、なんとなく耳にしたことがある。
それに比べると、明治時代というのは――
「まだ百年ちょっと前やん」
神社のなかでは、ずいぶんと“新参者”なのではないか、と、ひまわりは勝手に想像する。
――もっとも、神社の由緒というものが、どこまで史実に基づいているのかなど、突き詰めて考え始めると、きりがないのだが。
桜はくすりと笑った。
「そうそう。でもね、もともとは南北朝時代の名将、楠木正成のお墓だったんだよ。このあたりで足利尊氏に敗れて自害したらしいんだ」
「正成に尊氏か……なんとなく習ったけど、覚えてないな」
「歴史ってそんなものだよ。知ってるつもりでも、知らないことっていっぱいあるんだよね」
ひまわりのつぶやきに、桜が応じた。
境内には大きな楠の古木が枝を広げ、鳥の声と石畳を踏む足音だけが響く。参道には石碑や灯篭が並び、拝殿の威厳ある姿が視線を引きつけた。
楓花が低めの声で注意する。
「このままゆっくり回っていると、列車の出発に間に合わなくなるよ」
黒髪のミニボブを低くまとめた楓花は、手首のスケルトン腕時計にちらりと目を落とし、スマホの画面を指先で軽くなぞった。列車の接続時間を、頭の中で正確に組み立てているのだ。
鈍く銀灰色の細いスクエアの眼鏡が、朝の光を淡く返す。
桜は話題を変え、カメリアに目を向けた。
「ここにはね、水戸光圀が建てた正成のお墓もあるんだよ」
「神社に墓があるのは珍しいわね」
カメリアが応じた。英国育ちでもある彼女だが、日本の神社についても、どうやら一通り知っているらしい。
その知識量が「一通り」などで済まないことは、他の三人も知っている。
「本来ならお墓って神社には入れないんだよ。死をケガレって考えるからね。でも、ここは例外なんだ」
「なるほど……日本の神道は柔軟なのね。たしかに、天満宮は道真、東照宮は家康を、死後、神として祀っている。それと同じ考えなのかな」
桜は軽く頷き、少し微笑んだ。
ひまわりは首をかしげ、ぽつりと呟く。
「へえ、そうなんや……」
桜は軽く肩をすくめ、話題を切り替える。
「ねえ、みんな。今回の旅の目的、覚えてるよね?」
ひまわりがにっこり笑いながら答える。
「もちろんやで、文化財や観光資源の調査やねん。学校の特別課題――」
桜は静かに笑って頷き、付け加えた。
「そうそう。全国の一宮と世界遺産を巡ること。それと、現存12天守もね」
ひまわりは思わず口を開いた。
「え、12天守って、お城も行くんやった?」
高校の特別課題は「全国一宮と世界遺産をめぐるフィールドワーク」であったはずが、いつの間にか、城巡りという桜の趣味が追加されていた。
楓花が、淡々と補足する。
「移動は鉄道が中心。北海道から鹿児島まで、青春18きっぷで縦断する予定よ。必要に応じて、船やバスも使う」
ここで、楓花の趣味も、特別課題の一部に加わることになる。もちろん、誰もそれをとがめようとはしなかった。
青春18きっぷに縛られれば、特急列車は使えず、時間のロスが大きくなるのは明らかだ。
だが楓花にとっては、その不便さこそが、「ぜひやってみたい」理由なのかもしれない。
ひまわりが小さな声で問う。
「旅番組で見たけど、沖縄にモノレールあるやろ……でも行かへんの?」
沖縄が入っていないことに気づいたからだ。
桜は一瞬だけ考え、すぐに首を横に振った。
「船で行くだけで日数、だいぶ食っちゃうよね。飛行機でひとっ飛び、っていうのは……今回の旅っぽくないかな」
それから、少しだけ目を細める。
「小笠原まで含めようなんて言い出したら……夏休みが何日あっても足りない」
カメリアが、静かに結論を添えた。
「そうだね。小笠原へは船しかない。片道で24時間かかる。しかも1週間に1便しかない。……今回は、現実的じゃないね」
鉄道を軸に旅程を組む以上、沖縄や小笠原は地理的に別枠となる。世界遺産ではあるが、今回は後日の楽しみに取っておくほかないようだった。
楓花は少し目を光らせ、仲間に注意を促す。
「旅はハードよ。乗り継ぎも計算済み。無駄な時間は許されない」
ひまわりは冗談めいた声で笑った。
「鬼やな、ほんまにやろ」
桜は微笑み、からかうように肩をすくめる。
「だから楓花さんの計画って、ほんと頼りになるんだよね」
それを聞いて、楓花が反論する。
「大筋を決めているのは桜だから、文句はそっちに言って」
ちなみに、「湊川神社」という社名は、近くを流れる湊川に由来している。
歴史に詳しい人なら、この名を聞いて、湊川の合戦を思い浮かべるだろう。
九州から東上した足利尊氏の軍と、これを迎え撃った新田義貞・楠木正成の軍が激突した戦いである。
結果は周知のとおり、楠木正成はここで最後まで戦い抜き、自害した。
正成を祀る神社は、しばしば親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれるが、この湊川神社も例外ではない。
なお、「湊川神社」という正式名称が定まる以前、この社は単に「楠社」と呼ばれていたという。
この日、湊川神社で旅の安全を祈った四人は、神戸駅へ歩き出す。バスで淡路の伊弉諾神社や播磨の伊和神社を回る予定。
青春18きっぷの有効期間は翌日から。今日は、無駄なく日数を使うため、バスでしか行けない一宮を回る段取りだ。
朝の光が街に差し込み、四人の背中と大きなバックパックが柔らかく照らされた。
桜は軽やかに笑い、ひまわりはうなずき、楓花は観察者の眼差しを光らせ、カメリアは静かに景色を受け止める。
今日から始まる、日本列島縦断の冒険に、胸が高鳴る朝だった。




