第伍話『鏡の奥にひそむもの』
「やっと……きたね……」
少女の姿をしたそれは一言、そう言い佇んでいる。
その部屋は――まるで、誰かの“記憶の底”だった。
畳は腐り、障子は黒く染まり、空気は淀んだ水のように肌に貼りつく。
奥に立てかけられた古びた鏡が、まるで穴のように開いていた。
少女……人の形をした何かが、その前に立っている。
髪は濡れ、肌は白く、目元は……空洞だった。
鏡に映るそれは、笑っていた。
人の顔で笑いながら、自分のものではない表情で笑っていた。
「この部屋……何か、違う……」
結がぼそりと呟く。
「違うんじゃない、“壊れてる”んだ」
修はスマホを手に構える。反応は最大値。画面が真っ赤に染まり、警告の文字が点滅する。
「にゃ……にゃああ……(違う、こいつ一体じゃない!もっといる!底に、いっぱい!)」
ノクスが毛を逆立てて、背を丸めた。
「雨城君……」
結が声を震わせた。
――鏡の中で、“何か”が動いた。
それは、水のように揺れながら、次々と形を変えていく。
女、子ども、男、老婆……声にならない叫びが、ガラスの向こうから流れ込んでくる。
『みず……くるしい……』
『たすけてって、いったのに……』
『ここにいた……いたのに……』
『みてくれなかった……!』
『……あのひと、しらんぷりして……』
『笑ってた……わらって、見下ろしてた……』
圧倒的な数の声。
全て――水害で死んだ者達の怨念。
見捨てられた。忘れられた。閉じ込められた。
助けを呼ぶ声は、届かなかった。
彼らは、生きたまま濁流に飲まれた。
家ごと崩れ、壁に押し潰され、目を見開いたまま土の中で息絶えた。
だけど、それでも「助けて」が止められなかった。
「助けて」欲しかった……
その記憶だけが――鏡の中で、永遠に繰り返されていた。
「やばい……ここ、“地縛霊の巣”だ……!」
修が低く呟いた。
「にゃうっ!(霊が集まって、“核”を作ってる!意識を共有して、混ざってる!)」
愛菜が耳を押さえる。
「だめ……声が、頭に入ってくる……っ」
『君は、見たね? あの時。』
『でも、目をそらした。無かった事にした。』
『そうやって、ボクらを捨てたんだ――』
「違うっ! ボクは……助けたかった……!」
『だったら、なぜ逃げたの?』
足元の畳がぐずりと崩れ、黒い手が愛菜の足を掴む。
「うわあっ!」
「愛菜!戻って来い!!飲まれるな!!」
修が飛びつくが、その腕にも冷たい手が巻きつく。
それは子供の手だった。
だが――皮膚が剥がれ、骨が見え、内側から水が滴っている。
『苦しかったよ……冷たかった……暗かった……』
『なのに、助けてくれなかった……っ!』
『なんで、私達だけ……! なんで……“お前達”だけ、生きてるの!?』
鏡が割れた。
その瞬間、全員の視界が反転した。
○○○○○
――気がつけば、全員“水の底”にいた。
息が出来ない。
視界は濁り、空気は冷たく、沈んだまま浮かばない。
目の前に、次々と“顔”が浮かんでくる。
涙を流す女。
子どもを抱き締める母親。
目を塞ぐ少女。
何かを呟く男。
その誰もが、眼球を失い、口から泥を吐いていた。
『ここが、わたし達の“居場所”』
『みんな、ずっとここにいる』
『苦しいね? 怖いね? でも、ここが……本当の世界だよ』
『いっしょに、沈もう?』
怨念達の声が、思念となって心に直接入り込む。
心の弱い場所を掴み、えぐり、ひっかき、壊してくる。
「……ここが、あの子達の記憶……?」
結が、ぼそりと呟く。
「違う……」
修が、かすれ声で言う。
「これは、“忘れられた者達の世界”……」
「生きた証も、死んだ理由も、誰にも知られず、“無かった事”にされた者達の、怒りと悲しみの世界……!」
その中心に、いた。
ひときわ濃い怨霊が――顔のない女の霊が、宙に浮いていた。
胸からぶら下がる小さなカギ。
それは、避難小屋の倉庫の鍵だった。
「お前……あのとき、閉じ込められた……?」
記憶に何者かの記憶が上書きされ、まるで自分の記憶として修は口ずさんだ。
修が言うと、霊はゆっくりと笑った。
唇が裂け、首が曲がり、目のない顔で笑った。
『たすけてって、いったんだよ』
『でも、だれも、こなかったの』
『いいでしょ? いっしょにいて? 今度は、だれも逃がさない』
『今度は、わたしが――“閉じ込める”』
その瞬間、あたりの水が沸騰したように泡立ち、黒い手が無数に伸びる!
「……やるしかねえ!」
修がスマホを構える。
ばあちゃん特製の霊封アプリが、激しく点滅する。
「“記録されし者よ、時を越え、ここに還れ”――ッ!」
赤い光が水底に走る。
叫び声。
無数の声が混ざり合い、苦しみ、叫び、崩れていく。
『やだ……ここに、いたいのに……っ!』
『忘れないでよ……! ここで……死んだ事……っ!』
――水が引いた。
気がつけば、全員が、もとの和室に倒れていた。
砕けた鏡の前で、静かに息をつく。
「……終わった、のか……?」
誰かが呟く。
だが、修は黙っていた。
鏡の破片の奥に、まだ一つ、小さな“顔”が映っていた。
ぐちゃぐちゃに濡れた、笑っている“誰かの顔”。
次回予告
第陸話『招かれざる微笑み』
扉の向こうに立っていたのは…
水が囁く。
「すべては“あの人”から始まった」と。
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