第十七話 書記長、ヨーロッパ制覇を決断する
■昭和二十三年(1948年)2月
ソ連 モスクワ 最高司令部
昨年、日本が核実験に成功し、その後アメリカが日本に対して核攻撃を行ったという事実は、偉大なる指導者ヨシフ・スターリンの心胆を寒からしめた。
しかも日本はアメリカが放った50発以上の核爆弾を無傷で防ぎ切ったという。その点については詳しい情報がなく眉唾物とも思っていたが、少なくとも今のソ連には核爆弾もなく、それを防ぐ術も無いのは事実である。
スターリンは仕方なく、ヤルタ会談の合意を反故にして日本と条約を再締結し友好関係を維持する道を選択した。
いずれソ連も核爆弾を持てるだろう。あくまで日本との友好維持は時間稼ぎに過ぎない。もちろん日本が敵対しなければ友好を維持するのは吝かでもないが。苛烈な性格で知られるスターリンであったが、彼はまた必要であれば待つことも出来る男だった。
スターリンは、とにかく今は現状維持で国力を蓄える時期だと認識していた。しかし大きな情勢変化が彼の考えを変えることになる。それは日本が核攻撃の報復としてアメリカ本土へ侵攻したことだった。
緊急に招集された司令部会議の場で、スターリンは状況報告を求めた。
「資本主義者共がアラスカを失ったというのは本当かね?」
「はい偉大なる同志書記長。アメリカはわずか2日でアラスカ全土を失いました。アメリカ国内の協力者にも事実確認がとれております。アメリカ政府はまだ正式発表しておりませんが、国内ではすでにパニックも発生しております」
内務人民委員部議長のセルゲイ・クルグロフが立ち上がって報告する。往時の権力を失いつつあるラヴレンチー・ベリヤの後を継いでNKVDを掌握したクルグロフであったが、前任者にいつ寝首を掻かれるかも分からない。わずかでも隙を見せる訳にはいかなかった。
「資本主義者は何の抵抗もできなかったのかね?日本に対して何がしかの損害は与えられたのか?」
「はい、戦闘は一方的であったようです。アメリカは日本に対してなんら損害を与えておりません。侵攻船団に対してアメリカ太平洋艦隊が攻撃を行いましたが大型空母10隻、戦艦3隻を含む艦隊すべてを失いました。核攻撃も実施したようですが、こちらも失敗しております」
ソ連はアメリカ国内に組織を張り巡らしており、その手は政府や軍の上層部にまで及んでいる。このため諜報組織を統括するNKVDは、アメリカの国内については公式発表や報道されている情報よりさらに精度の高い情報を収集することが出来ていた。
だが日本国内については3年前に諜報組織が完全に壊滅してから未だに回復できていない。日本の核開発を察知できなかった点もふくめ全ての責任は当然ながら前任者のベリヤにある。これが彼の失脚理由の一つでもあった。
「陸上の戦闘もアンカレッジ周辺以外は小規模なものしか発生しておりません。アラスカの少数民族が日本に協力し日本の作戦行動が非常にスムーズに進んだためです。日本は協力の対価として彼らに土地の返還を約束しております」
「ふむ。日本は本当に土地を返還してやるつもりかね?」
「もちろん交渉のための口約束でしょう。なお我が国にも少数民族が多数おりますので、すでにその把握と隔離に向けて動いております」
スターリンの考えを先読みしてクルグロフは答えた。このぐらい出来なければスターリンの下では働けない。
「よかろう。我が国内ついての処置は速やかに進めるように」
スターリンは満足げにうなずく。それを見てクルグロフは内心で安堵のため息をついた。
「同志モロトフ、日本から今回の件で我が国になにか言ってきているのか?」
次いでスターリンは、外交を担当するヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委に尋ねた。
「彼らが核実験を行った時と同様に、作戦開始前に大使より事前通達がありました。今回の件はあくまでアメリカへの報復行動であるため理解して欲しい、我が国に対しては一切迷惑はかけないと申しております。観戦武官の同行を希望しましたが、こちらは丁寧に拒否されました」
「……よかろう。引き続き日本とは友好関係の維持につとめよ。資本主義者共の本土防衛計画はどうなっている?」
「はい同志書記長。アメリカは西海岸からの疎開を進めるとともに、国内に総動員をかけております。州兵に加えてヨーロッパ軍も帰還させる模様です。これに志願兵も加えて最終的に2000万人態勢の防衛計画となっております。アメリカの国力から見て根こそぎ動員といって良いでしょう」
「それは我が国にとって良いニュースだな」
クルグロフの答えに、これまで無表情で報告を聞いていたスターリンが初めて笑った。
ドイツ降伏後もアメリカは引き続きヨーロッパに軍を配置していた。目的は完全にソ連に対抗するものであり、その戦力は200万人にも及んでいる。
だがアラスカが陥落し本土への日本軍の侵攻が現実味を帯びてきたため、各所から不満の声が上がりはじめた。
「本土が危機に晒されているのに、どうして遠いヨーロッパに軍隊を置いたままにしておくのか」
「ヨーロッパは自分たちで身の安全を守ればよいではないか」
国民や議員の不満に加え、陸軍も本土防衛に兵力が不足していたため、アメリカはこの精鋭戦力をヨーロッパから本土に戻すことを決断した。すでに部隊の移動が開始されており、これに不安を感じた西ベルリン市民の脱出も始まっていた。
「つまりアメリカはヨーロッパの保護者であることを止める訳だ。ならば誰かが代わりにヨーロッパの民を庇護してやらねばなるまい。そうであろう?同志ヴァシレフスキー」
スターリンは陸軍参謀本部長のアレクサンドル・ヴァシレフスキーに顔を向けた。
「はい、偉大なる同志書記長!軍はすでにヨーロッパ全土の解放に向けた作戦計画を策定画済みであります。同志書記長がご下命次第、すぐに行動を開始することが可能です」
ヴァシレフスキー参謀長が勢い込んで答える。いまだ250万の兵力を東ヨーロッパ国境に貼り付けていたソ連軍は、アメリカ軍撤退の情報を掴むとすぐにその不在の状況を想定した作戦の検討を開始していた。
イギリスとフランスが動員を解除しドイツが軍を再建できていない現状で、最大の敵となるのがアメリカの駐ヨーロッパ軍であった。これが無くなればソ連軍をまともに止められる存在が居ないどころか、ヨーロッパ各国の軍をまとめる者もいなくなる。つまりソ連がヨーロッパ全土を制覇するチャンスは今を置いて他になかった。
「ヨーロッパ解放計画『セーヌ川への7日間作戦』の中心となるのは5個親衛軍250万および第1親衛戦車軍となります」
ヴァシレフスキーはあらかじめ用意していたスライドを投影した。そこには東ドイツ、ポーランドから西ドイツに向かう大きな矢印が描かれていた。助攻としてチェコ・オーストリアからも小さな矢印が西ドイツ南部に伸びている。
「まずライン川まで2日間で突破します。アメリカ軍が居ない状況では親衛軍を遮るものはおりません。そしてライン川を渡河後、5日間でセーヌ川河畔のパリに到達する予定です」
西ドイツを通り抜けた矢印は枝分かれし、オランダ・ベルギー・フランス国境に向かっている。中央の一番太い矢印はまっすぐフランスのパリに向かっていた。
「アメリカがヨーロッパ防衛のために核爆弾を使用する可能性はないのか?」
「その可能性は非常に低いと考えております。同盟国領土内であることと、まずは自国本土の防衛に1発でも使用したいと思われるからです」
「フランスが徹底抗戦する可能性は?」
「後ろ盾がなければフランス人共は抵抗する度胸もありません。ドイツに対してと同じくパリは無血開城となるでしょう。そしてドイツ、フランスを降せば他のヨーロッパ諸国も抵抗を諦めるでしょう」
「イギリスはどうする?」
「当面は放置いたします。攻めるにしろ守るにしろ、海を超える必要があります。無理をしてドイツと同じ轍を踏む必要もないと考えます」
スターリンは満足げにうなずいた。
「良いだろう。日本がアメリカ本土に上陸を開始したら計画を発動できるように準備をととのえろ」
「承知しました同志書記長。準備をすすめます」
「同志書記長、外務大臣として質問いたします。作戦の名目は如何いたしましょうか?」
外交を担当するヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員が質問を発した。
「我々はドイツ人の様な横暴な侵略者ではない。あくまで現地の人民の要請に応えて、これを保護するために行動するだけだ」
スターリンは皮肉気に笑う。
「宣戦の布告は行いますか?」
「いつも通り後で構わん。どうせ作戦が終われば気にするものなど誰も居やしなくなるのだからな」
つまり宣戦布告なしの奇襲攻撃をスターリンは指示していた。これを聞いたヴァシレフスキー参謀本部長の顔にホッとした表情が浮かぶ。既定路線であるためモロトフにも疑念や反論はなかった。
「最後に、日本への対応は如何しましょうか?事前通告はいたしますか?」
ここでスターリンは言葉を止めて少しだけ考えた。
さすがに日本とヨーロッパの両面で戦争をする事態は避けたかった。そもそもあのアメリカですら敵わないのだ。仮にソ連が今の日本と単独で戦争をしても勝てる目が見えない。
だがソ連はその日本と一応は友好な関係を築けている。幸い樺太を除けば直接国境も接していない。そうであるならば、あのエンペラーの不可思議な能力への対抗策ができるまでは、友好関係は維持すべきだろう。
「作戦開始の直前に大使を通して通達してよい。直前であれば仮に日本から情報が漏れてもドイツやフランスは対応できまい。日本に対しては害意はないと伝えよ。どうせなら友好国として観戦武官も招待してやろうではないか」
「承知しました。そのように取り計らいます」
スターリンは知らなかった。
すでに日本はソ連の人口希薄地帯も密かに着々と領土化を進めていることを。もしソ連が日本と敵対する道を選んだ場合には、瞬く間に日本軍がソ連領内に現れることを。そして日本は核兵器をソ連に使うことに全く躊躇がないことを。
つまりソ連とスターリンの命運は、実は首の皮一枚で繋がっている状態だった。
■昭和二十三年(1948年)2月
アメリカ ホワイトハウス オーバルルーム
「大統領!どうか考えを改めください!」
バーンズの後任となったジョージ・マーシャル国務長官と、政策企画本部長のジョージ・ケナンがトルーマン大統領に懇願している。彼らは本日決定されたヨーロッパ作戦司令部の解体と駐ヨーロッパ軍のアメリカ本土への帰還命令を撤回させようと直談判に訪れていた。
「大統領も私のレポートをお読みになり納得もされたでしょう!ソ連は信頼に値しません。相手を上回る力を見せつけている間は大人しくしていますが、それが無くなれば即座に動きます!駐ヨーロッパ軍の撤収はまちがいなくヨーロッパ全土を戦火に晒す事になります!」
ケナンが力説する。大戦前からモスクワに駐在しソ連をよく知る彼は、ドイツ降伏前後のソ連の動きを観察した『ロングテレグラム』と呼ばれる長文のレポートを送っている。
その内容を要約すれば先にケナンが言った通りの内容だが、これがトルーマン政権のこれまでの対ソ戦略の基本戦術となっていた。
「マーシャル君、ケナン君、それは私も大変よく理解している。だが忘れないで欲しい。我々が第一に守るべきは自国民の安全だ。ヨーロッパを守るためにアメリカ本土が危険に晒されるのは本末転倒でしかない」
「し、しかし……」
なおも食い下がろうとするケナンに、トルーマンは冷たく言い放った。
「これは決定事項だ。変更されることはない。分かったら下がりたまえ」
この一週間後、日本軍の本格的なアメリカ本土攻略が開始された。同時にソ連は西ドイツへの侵攻を開始した。
世界は再び大戦の波に飲み込まれた。