純情お姫様が悪役令嬢に至るまで
わたしには、だいすきな おにいさま がおります。
きんいろのかみのけは、おひさまみたいにキラキラしていて、いつもやさしいおにいさま。おにいさまは、とってもつよくて、かっこいいの。わたしも、はやくおにいさまみたいになりたいな。だから、まいあさ、お庭でおにいさまにおしえてもらったとおりに、ちいさなもっけんをふっています。おにいさまが「イゾルデはがんばりやさんだね」って、あたまをなでてくれるのが、わたしはいちばんうれしいのです。おにいさまの大きな手は、あったかくて、安心するにおいがします。
おにいさまは、ときどき、むずかしいお顔をしていることがあります。おとうさまに、なんだかとってもたいへんな「おうぞくきょういく」というのを、うけているんですって。わたしにはよくわからないけれど、おにいさまは、きっとこの国でいちばんえらい人になるんだとおもいます。だから、わたしは、おにいさまのじゃまにならないように、いい子でいようとおもいます。そして、いつか、おにいさまのおやくにたてるような、すてきなレディになるの。それが、わたしのゆめなのです。おにいさまが、わらってくれると、わたしもとってもうれしくなるの。
(イゾルデの成長と共に、徐々に文体が変化していく)
……そんな、キラキラとした夢を見ていたのは、一体いつのことだったかしら。
あの頃の私は、世界がこんなにも残酷で、信じていたものがこんなにも脆く崩れ去るなんて、想像もしていませんでしたわ。お菓子のように甘く、レースのように繊細な夢は、血と汗の匂いにまみれて、もう思い出すことすら難しい。あの頃に感じていた、陽だまりのような温かさも、今はもう、冷たい石畳の感触に上書きされてしまったかのようです。
お兄様、ジークフリートは、私の世界の太陽でした。幼い私の目には、彼の金色の髪は陽光そのものであり、その自信に満ち溢れた立ち居振る舞いは、まさに理想の王子様。剣術に優れ、いずれ国を背負って立つであろう次期国王候補。そして何よりも、妹である私に、時には厳しくも、常に温かい眼差しを向けてくれる、優しく、頼もしいお兄様でした。
「イゾルデ、剣とはただ振るうものではない。守るべきもののために、その刃はあるのだ」
初めて木剣を握った日、お兄様はそう言って、私の小さな手を優しく取ってくださった。その手の温もり、真剣な眼差し、そして、稽古の後に頭を撫でてくれた大きな手の感触。それら全てが、私の宝物でした。
「お兄様のようになりたい」
「お兄様に褒められたい」
その一心で、私は幼いながらも必死に剣の稽古に励みました。お兄様の言葉を素直に信じ、お兄様の背中を追いかけることが、私の喜びであり、生きる意味だったのですから。朝早く起きて、侍女に頼んで庭の隅で素振りをした。お兄様が見ていないところでも、少しでも追いつきたくて。その努力が、いつかお兄様の笑顔に繋がると信じて疑いませんでした。
しかし、変化の兆しは、ある時から静かに、しかし確実に現れ始めました。
父王が、お兄様に対して課す「王族教育」は、年を追うごとに苛烈さを増していたのです。
それは、単に帝王学を学ぶというだけではなく、精神的にも肉体的にも極限まで追い詰めるような、過酷な試練の連続だったと聞きます。父王は、かつて自身が経験した以上の厳しさで、お兄様を完璧な後継者として鍛え上げようとしていたのです。夜明け前から叩き起こされ、日がな一日、剣技、馬術、戦術論、歴史、法学、そして外交儀礼に至るまで、息つく暇もなく知識と技術を叩き込まれる。失敗すれば食事も満足に与えられず、時には父王自らが木剣を手に、お兄様を「指導」という名の折檻に処したという噂も耳にしました。
その期待は、いつしかお兄様の心を蝕む重圧となっていきました。父王の執務室からは、お兄様の押し殺したような嗚咽と、父王の雷のような叱責が、時折、厚い扉越しに漏れ聞こえてくることもありました。その度に、私の胸は氷のように冷たくなり、何もできない無力感に苛まれました。部屋に戻ったお兄様の顔は青白く、その瞳は虚ろで、まるで魂が抜け殻のようになっていることもありました。そんな時、お兄様の周囲の空気が、シンと冷たく張り詰めているように感じられたのです。
夜遅くまで書斎の灯りが消えぬお兄様の姿を、私は遠くから案じることしかできませんでした。以前のように、軽やかにお茶をお持ちすることも躊躇われました。お兄様のお部屋からは、時折、押し殺したような苦悶の声が聞こえてくることもありました。
それは、まるで見えざる何かと戦っているかのようで、私の胸を締め付けました。お兄様の顔から、徐々に笑顔が消えていきました。些細なことで声を荒らげるようになり、以前の彼からは考えられないような焦燥感や苛立ちが、その言動の端々に見え隠れするようになったのです。私は心配し、何度も声をかけました。
「お兄様、どうかなさったのですか? 何かお悩みがあるのでしたら、私に……」
しかし、お兄様は取り付く島もなく、「お前には関係ない」「余計な詮索はするな」と冷たく突き放すばかりでした。その瞳の奥には、以前のような澄んだ輝きはなく、深い疲労と、何かに怯えるような暗い影が揺らめいていました。まるで、美しい青空が、いつの間にか分厚い暗雲に覆われてしまったかのように、私には見えたのです。そして、時折、お兄様の言葉が、まるで誰か別の人間の声のように、低く、冷たく響くことがありました。それは、私の知らない、恐ろしい何かの声のようでした。
あの温かい手の感触も、いつしか遠い記憶の彼方へ消え去ろうとしていました。父王の期待という名の鎖が、お兄様をがんじがらめにしているように思えてなりませんでした。そして、その鎖は、やがて私にも絡みついてくることになるのです。
そして、運命の日が訪れます。いつものように、二人きりの剣の稽古の時間。ですが、その日のお兄様は、明らかに様子がおかしかった。瞳には血走り、その身からはピリピリとした殺気にも似た圧力が放たれています。それは、父王との「教育」を終えた直後だったのかもしれません。限界まで追い詰められた精神が、捌け口を求めていたのでしょう。そして、その矛先は、何の罪もない、一番身近で、一番無力な私に向けられたのです。
「イゾルデ、構えろ。今日はお前に、王族の厳しさを叩き込んでやる」
そう言ったお兄様の剣は、もはや「稽古」の範疇を遥かに超えていました。木剣が風を切り、私の小さな身体を容赦なく打ち据えます。肩に、腕に、足に、鋭い痛みが奔ります。防御する暇も与えられず、ただただ、吹き飛ばされ、石畳の硬い地面に叩きつけられる。息が詰まります。頭が真っ白になります。
「なぜだ、イゾルデ! もっとできるはずだ! その程度で、ヴァイスフリューゲルの名を汚すつもりか!」
お兄様の怒声が、痛みと共に私の鼓膜を震わせます。違う、これはいつものお兄様じゃない。何かがおかしい。父王の厳しい教育が、お兄様をこんな風に変えてしまったの? 恐怖と混乱の中、私は必死に訴えました。
「お兄様……痛いです……! ぐっ……うぅ……やめてください……! お願いですから……!」
ですが、お兄様の攻撃は止まりません。「これはお前のためだ! 王族たるもの、この程度の試練は乗り越えねば、民を守ることなどできん!」その言葉は、まるで父王の言葉を繰り返しているかのようで、もはや正当化のための虚しい響きしか持っていませんでした。私の涙も、懇願も、お兄様の耳には届かない。ただ、鈍い衝撃と、身体の奥底から響く骨の軋む音だけが、私を支配しました。打ち据えられるたびに、床に散らばる自分の髪の毛が視界の端に映り、自分がただの壊れやすい人形のように感じられました。そして、お兄様の顔が、一瞬、父王の厳しい表情と重なって見えたのです。それは、私にとって耐え難い恐怖でした。
稽古場の隅で、騎士や侍女たちが息を殺してその光景を見つめています。誰も、何も言いません。王子の「厳しい指導」に、口を挟める者などいなかったのですから。私は、信じていたお兄様からの容赦ない暴力と、誰にも助けを求められない絶望的な孤独感に、心の奥底から打ちひしがれました。純粋な敬愛は、その日、最初の大きな亀裂を生じ、血を流し始めたのです。
そして、その亀裂から、ゆっくりと何かが染み出し、私の世界の色を変えていきました。甘いお菓子も、美しいドレスも、もう何も感じません。ただ、痛みだけが、私の存在を教えてくれたのです。お兄様もまた、苦しんでいるのかもしれない。
でも、だからといって、私にその苦しみをぶつけるのは、あまりにも理不
尽ではありませんか。私の太陽だったお兄様は、もうどこにもいないのだと、この時、悟ってしまったのです。あの優しかったお兄様は、父王の手によって壊されてしまったのだと。そして、その壊れた破片が、今、私を傷つけているのだと。私の心も、お兄様と同じように、少しずつ、壊れていくのを感じました。世界から音が消え、色彩が褪せていくような、そんな感覚。ただ、目の前のお兄様の、苦悶とも怒りともつかない歪んだ表情だけが、やけに鮮明に見えました。
「稽古」という名の暴力は、それから日常と化した。日に日に激しさを増し、それはもはやお兄様のストレス発散の捌け口としか思えなかった。私の白い肌には、絶えず青黒い痣や生々しい傷跡が絶えることはなかった。打たれた場所が熱を持ち、夜も眠れないほどズキズキと痛む。**骨の芯まで響くような鈍い痛みが、私を現実へと引き戻す。ああ、また朝が来たのだと。そして、またあの時間が始まるのだと。**侍女たちは痛ましげな表情で薬を塗ってくれるが、それ以上のことはできない。彼女たちは、ただ怯え、同情の視線を向けるだけだった。彼女たちの顔は、いつしか皆同じ、能面のように無表情に見えるようになっていた。まるで、私の苦しみなど存在しないかのように。彼女たちの瞳に映る私は、きっと哀れな小鳥か何かだったのでしょうね。その無感動な瞳が、私には何よりも冷たく感じられた。まるで、私がもう人間ではないとでも言いたげに。
私は、必死に自分に言い聞かせた。「お兄様は、私に期待しているからこそ厳しくしてくださるのだ」「この試練を乗り越えれば、きっとまた昔の優しいお兄様に戻ってくれるかもしれない」そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだった。だが、心の奥底では、お兄様への恐怖と不信感が、まるで毒のようにじわじわと広がっていくのを止められなかった。鏡に映る自分の顔は、日に日に生気を失い、まるで亡霊のようだった。食事も喉を通らず、夜は悪夢にうなされた。**夢の中では、お兄様の顔が父王の顔と入れ替わり、私を嘲笑うのだ。そして、私は底なしの暗闇へと突き落とされる。**それでも、朝が来れば、またあの地獄が始まるのだ。
「もっと強くならなければ、お兄様の『期待』に応えられない」「強くなれば、この痛みも苦しみも終わるかもしれない」その強迫観念にも似た思いが、私を突き動かした。かつての純粋な「お兄様のようになりたい」という気持ちは、いつしか「この地獄から抜け出したい」「お兄様に認められたい(そして元に戻ってほしい)」という切実で歪んだ願いへと変質していった。そして、その願いは、さらに別の何かへと姿を変えようとしていた。それは、もっと暗く、もっと甘美な何か。
夜ごと、私は城の地下にある古い修練場へ忍び込んだ。誰にも知られず、ただひたすらに身体を鍛え、見様見真似で剣を振るう。そんな私に、ある夜、一人の老騎士が声をかけてきた。かつて父王の剣術指南役を務めたという、今は引退したグスタフ卿だった。彼は私の尋常ならざる気配に気づいたのか、あるいは単なる気まぐれか、黙って私の剣の稽古を見ていたが、やがて、ぽつりぽつりと助言をくれるようになった。「姫様、その踏み込みでは威力が半減いたしますぞ」「剣先がぶれております。もっと体幹を意識なされませ」彼の言葉はぶっきらぼうだったが、的確だった。私は、彼を新たな「師」と見なし、その教えを貪欲に吸収していった。彼だけが、今の私に正面から向き合ってくれる唯一の大人だった。彼は、私の瞳の奥にある闇に気づいていたのかもしれない。彼の深い皺の刻まれた顔は、まるで古木のようだったが、その瞳だけは鋭い光を失っていなかった。
最初は、古びた木剣を持ち上げることすら覚束なかった。素振りを繰り返せばすぐに息が上がり、全身の筋肉が悲鳴を上げる。限界まで身体を追い込み、胃の中のものを全て吐き出してしまうことも一度や二度ではなかった。酸っぱい胃液が喉を焼き、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。床に蹲り、嗚咽を漏らしながら、それでも私は木剣を握りしめた。「まだだ……まだ足りない……!」と、自分に言い聞かせながら。窓のない修練場には、私の荒い息遣いと、木剣が空を切る音、そして時折響く私の嘔吐く音だけが響き渡る。汗が滝のように流れ落ち、床の石畳に染みを作る。時にはバランスを崩して無様に転倒し、膝や肘を擦りむき、血が滲むこともあった。しかし、その度に私は血の滲む唇を舐め、獣のような目で立ち上がった。痛みは、私が生きている証だった。そして、この痛みを乗り越えるたびに、私は何か新しい力を得ているような気がした。世界が、少しずつ私の意のままに動き始めるような、そんな予感さえあった。グスタフ卿は、そんな私を黙って見守り、時には薬湯を差し入れてくれた。「無理はいけませぬぞ、姫様。しかし……その執念、見事なものですな」彼の言葉は、私の歪んだ努力を肯定してくれているようで、ほんの少しだけ、心が救われるような気がした。彼が差し入れてくれる薬湯は苦かったが、不思議と身体に染み渡った。それは、誰にも理解されない私の孤独な戦いを、彼だけが見ていてくれるという、ささやかな慰めだったのかもしれない。彼の存在は、暗闇の中に灯る小さな蝋燭のようだった。だが、その光も、私の心の闇を完全に照らし出すことはできなかった。
やがて、私の身体は徐々にその過酷な要求に応え始めた。無駄な贅肉は削ぎ落とされ、代わりにしなやかで強靭な筋肉がその細い四肢を覆い始める。剣の軌道は安定し、一撃の重みも増していく。私は、修練場の壁に吊るされた古びた革鎧を標的に、一心不乱に剣を叩き込んだ。ドスッ、ドスッと鈍い音が響き、革鎧は無残に引き裂かれていく。その破壊の音を聞きながら、私は奇妙な高揚感を覚えていた。まるで、自分の中に巣食う得体の知れない「何か」を、剣を通して吐き出しているかのように。革鎧が、まるで私を嘲笑うかように見えた。だから、私はそれが完全に沈黙するまで、何度も何度も剣を叩きつけた。手の皮が擦りむけ、血が滲んでも、私は構わなかった。それは、私を苦しめる全てのものを破壊する予行演習のようだった。お兄様を苦しめる何か、そして、私自身を縛り付ける何かを。剣を振るうたびに、私の頭の中で何かが弾け、黒い感情が渦を巻くのを感じた。それは恐ろしいと同時に、抗いがたい魅力を持っていた。
食事の時間も惜しみ、侍女が運んでくるパンと水を機械的に口に運び、再び修練場へと戻る。眠りは浅く、夢の中でも剣を振っていることがあった。お兄様の怒声と、木剣の風を切る音、そして私の悲鳴が、繰り返し繰り返し再生される悪夢。その狂気的なまでの集中力と持続力は、もはや執念と呼ぶしかなかった。私の精神は、強くなることへの渇望と、お兄様への歪んだ思いによって、ゆっくりと、しかし確実に変質していったのだ。かつては色彩豊かに見えた城の壁も、今はただ灰色の石塊にしか見えない。侍女たちの顔も、まるで能面のように無表情に見えることがあった。唯一、お兄様のことだけが、私の世界で鮮やかな色彩を放っていた。たとえそれが、血の色であったとしても。お兄様の苦悶の表情、怒りに歪む顔、それら全てが、私の目に焼き付いて離れない。そして、それを思い出すたびに、私の心は奇妙な熱を帯びるのだ。
「お兄様を本当に理解できるのは、この私だけ。お兄様を救えるのも、きっとこの私だけなのだ」独善的で排他的な思考が、私の中で静かに、しかし確実に育ち始めていた。お兄様を苦しみから解放できるのは、誰よりもお兄様を愛し、そして誰よりも強くなった私だけなのだと。他の誰にも、お兄様のその繊細で壊れやすい心に触れる資格などない。
そんなある日、宮廷の庭園で、お兄様が年若い伯爵令嬢と親しげに言葉を交わしているのを見かけた。その令嬢は、まるで砂糖菓子のように甘ったるく微笑み、お兄様もまた、ほんの僅かだが表情を和らげているように見えた。私の胸に、鋭い氷の棘が突き刺さったような痛みが走る。「……あの女狐め」無意識に漏れた呟きは、私自身も驚くほど冷たく、憎悪に満ちていた。まるで、美しい庭園に不快な害虫が紛れ込んだかのような、強烈な不快感。あの女の存在が、お兄様と私の間に見えない壁を作ろうとしている。許せない。お兄様の隣に立つのは、私であるべきなのに。あの女は、お兄様の苦しみを何も知らないくせに。その甘ったるい笑顔が、私にはひどく不快で、汚らわしいものに見えた。
数日後、その伯爵令嬢がお気に入りのドレスを何者かによってズタズタに切り裂かれるという事件が起きた。犯人は見つからなかったが、私が侍女からその話を聞いた時、口元に微かな笑みを浮かべていた。「あら、それはお気の毒に。でも、身の程をわきまえないから、そんな目に遭うのよ」その言葉は、誰に向けられたものでもなかったが、侍女は私の底知れない瞳を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。私にとって、それは取るに足らない「害虫駆除」であり、お兄様の傍に侍る資格のない者を排除するための、ささやかな「警告」のつもりだった。汚れたものが清められたような、ほんの少しの爽快感すら覚えた。世界が少しだけ、あるべき姿に近づいたような気がしたのだ。そうして、私は私だけの正義と、私だけの愛の形を、歪ながらも確かに育てていった。グスタフ卿だけは、そんな私の変化に気づいていたかもしれない。彼は何も言わなかったが、その瞳には深い憂いが浮かんでいたように思う。でも、もう止まれなかった。お兄様のためなら、私は何だってできる。どんな汚いことだって。この手がお兄様のために汚れるなら、それすらも喜びなのだから。私の心は、もう後戻りできないところまで来てしまっていた。
私の鍛錬は、もはや常軌を逸していた。食事や睡眠時間すら削り、来る日も来る日も、血反吐を吐くまで剣を振り続けた。私の身体は驚異的な速さで変化していった。無駄な肉は削ぎ落とされ、しなやかで強靭な筋肉がその細い四肢を覆う。かつての儚げな少女の面影は消え、代わりに、鋭い眼光と、どこか人間離れした雰囲気を纏うようになっていた。鏡に映る自分は、もはや以前の私ではなかった。知らない誰かが、そこに立っているかのようだった。だが、それでいい。これが、お兄様を「救う」ために必要な姿なのだから。この冷たく、鋭い瞳こそが、お兄様を守る盾となり、剣となるのだ。
「稽古」の場では、もはやお兄様の攻撃を一方的に受けるだけではなくなっていた。時には鋭い反撃を見舞い、お兄様を驚愕させることさえあった。お兄様は、私の異常な成長に戸惑い、苛立ち、さらに暴力をエスカレートさせようとしたが、もはや以前のようにはいかない。私の動きは予測不可能で、その瞳は底なしの闇を湛えていた。お兄様の剣筋が、スローモーションのように見えることさえあった。彼の呼吸、筋肉の微細な動き、全てが手に取るようにわかる。それは、私が彼を深く、深く見つめ続けてきたから。彼の全てを、私のものにするために。
そして、運命の日は再び訪れる。いつものように、お兄様との二人きりの「稽古」。お兄様の剣が、怒りと共に私を襲う。だが、その一撃は、空を切った。私は、まるで舞うようにそれをかわし、次の瞬間にはお兄様の懐深くに踏み込んでいた。
パキン、と乾いた音が修練場に響いた。私の木剣が、お兄様の剣を寸前で弾き返していたのだ。お兄様の目が見開かれ、信じられないといった表情が浮かぶ。
違う。違うのよ、お兄様。これは、始まりに過ぎない。私たちの、本当の物語の。
次の瞬間、私はお兄様の攻撃の隙を突き、その剣を持つ手首を強かに打ち据えた。ギリ、と骨が軋む音が微かに響く。
「ぐっ……!」
お兄様の顔が、初めて見る苦痛に歪んだ。その弱々しい表情を見た瞬間、私の口元が、自然と弧を描いた。それは、かつてお兄様が私に向けていた、あの残酷な笑みにどこか似ていたかもしれない。
ゾクゾクと、背筋を駆け上る、生まれて初めて感じる種類の歓喜。これだ。これが、私が求めていたもの。この感覚、この高揚感。お兄様を、私の手で支配できるという、絶対的な確信。ああ、なんて甘美なのだろう。このために、私は全てを捧げてきたのだ。この瞬間、私の世界は完全に反転した。かつて私を支配した痛みが、今や私が与える快楽へと変わったのだ。
「お兄様」
囁くような、しかしどこか嗜虐的な響きを帯びた声で、私はお兄様の名を呼んだ。私の紫水晶の瞳には、怯えと驚愕に彩られたお兄様の顔が、はっきりと映り込んでいた。ああ、なんて美しい表情。もっと見たい。もっと、あなたの全てを私のものにしたい。あなたの苦しみも、喜びも、全て私が受け止めてあげる。あなたの魂ごと、私が喰らってあげる。
「やっと……やっと、お兄様と本当の意味で向き合えますね。これからは、私があなたを『導いて』差し上げますわ。二人だけの、特別な時間の中で……永遠に」
もう、誰にも邪魔はさせない。お兄様は、私のもの。ただ一人、私のものなのだから──―。この壊れたお兄様を、私だけが愛せるのだから。この歪んだ愛こそが、私たちの真実。
その日を境に、お兄様は私との「稽古」を避けるようになった。いや、正しくは、私がお兄様を「狩る」ようになったのだ。城の中で兄を見つければ、私は嬉々として「稽古」を申し込み、逃げようとするお兄様を執拗に追い詰めた。もはや、かつての敬愛の面影はどこにもない。あるのは、歪んだ独占欲と、お兄様を自分の意のままにしたいという強烈な支配欲だけだった。
お兄様が私から逃げるたびに、私の心は奇妙な興奮に包まれた。それはまるで、追いかけっこのようで、最終的には必ず私が勝つのだ。だって、お兄様は私のものなのだから。逃げられるはずがない。お兄様が私を避けるのは、きっと私の強さに怯えているから。でも、大丈夫。私が、お兄様を『守って』あげる。他の誰にも触れさせないように。私だけが、お兄様の全てを理解し、受け止められるのだから。この愛は、誰にも邪魔させない。お兄様を苦しめるもの全てから、私が守ってあげる。たとえ、それがお兄様自身であったとしても。お兄様の悲鳴が、私には心地よい音楽のように聞こえることさえあった。
周囲の者は、そんな私を「血華の姫」「狂王女」と呼び、恐れ、遠巻きにするようになった。だが、私はそれを意にも介さなかった。彼らの声は、まるで遠くで鳴く虫の音のようにしか聞こえなかった。私の世界には、もはやお兄様と私しか存在していなかったのだから。彼らが何を言おうと、私とお兄様の特別な絆を汚すことはできない。グスタフ卿は、そんな私を見るたびに深いため息をつき、「姫様、その道は……」と何か言いかけたが、私はその言葉を遮った。「卿には関係ありませんわ。私は、私の道を行くだけです」彼の悲しげな瞳は、もう私の心には響かなかった。彼もまた、私とお兄様の世界の「外」の人間なのだから。彼には、私のお兄様への深い愛は理解できないのだ。彼の理解など、もはや私には必要ない。私には、お兄様がいればそれでいいのだから。
そんなある日、私の耳に、衝撃的な噂が飛び込んできた。兄ジークフリートに、隣国の有力貴族である侯爵家の令嬢から、求婚の話が持ち上がっているというのだ。その令嬢は、淑やかで美しく、絵に描いたような理想的な貴婦人だと誰もが噂していた。
鍛錬を終え、汗を拭っていた私の動きが、ピタリと止まった。修練場の冷たい空気が、私の肺を凍らせるかのようだ。全身の血が逆流するような、激しい怒りが込み上げてくる。頭の中で、何かがプチリと切れる音がした。
「……求婚? あの兄上に? ……あの、顔と家柄だけが取り柄の、中身のない令嬢が?」
ギリ、と奥歯を噛みしめる。脳裏に浮かぶのは、その令嬢の噂。刺繍と詩作が趣味で、いつも穏やかに微笑んでいるという。虫唾が走る。反吐が出る。そんな女が、お兄様の隣に立つですって? ふざけないで。お兄様の隣は、私の場所なのに。あの女の存在そのものが、私とお兄様の世界を汚す不純物だ。
「私をこんな風にしたのは、紛れもなく兄上の暴力のせい。この歪んだ強さも、乾かない渇きも、全て、全て兄上が与えたものじゃないの!」
手のひらに爪が食い込む。じわりと滲む血の熱さが、かえって頭を冷静にさせた。そうだ、冷静にならなくては。あの女を、どうやって排除するか。最も効果的に、最も残酷に。彼女のその偽りの笑顔を、絶望の色に染め上げてやらなければ。
「それなのに……私をここに置き去りにして、自分だけあんな『普通』の女と幸せになろうとでもいうの? あの女に、兄上の何が理解できるというの? あの優しい仮面の奥にある、血に飢えた獣の顔を……私だけが知っている、あのどうしようもない闇を、誰が照らせるというの!」
私は知らない。今の兄が、その闇から必死に逃れようとしていることを。私にとって「兄」とは、あの暴力的で支配的な存在であり、そして、その「兄」に執着することでしか、私は自分の存在を繋ぎ止められないのだ。お兄様は、私のもの。私の手で壊して、私の手で作り直した、私だけの芸術品。それを、誰にも汚させはしない。お兄様は、私という檻の中でだけ、安らげるのだから。
「許さない……絶対に許さない。兄上は、私だけのもの。私をこんなにした責任を、あんな女にうつつを抜かして逃げるなんて、絶対にさせない。そもそも、あの程度の女が、兄上の隣に立つ資格など万に一つもないわ」
ふと、私の口元に、いつもの獰猛な笑みとは違う、冷え冷えとした、絶対的な軽蔑と狂気を孕んだ静かな決意が浮かぶ。それは、獲物を見定めた捕食者のそれであり、同時に、自分の神聖な領域を汚されそうになっている狂信者の顔だった。
「他のメスになんて、兄上は渡さない。兄上の隣にいるのは、この私だけ。そうでなければならないのよ。あの女には、分不相応ということを教えてあげなければならないわね……この私が、直々に。丁寧に、丁寧に、絶望の淵に突き落としてあげる」
その瞳の奥には、嫉妬と独占欲、そして見捨てられることへの深い恐怖、さらには選ばれた王女としての歪んだプライドが、暗く複雑な炎となって揺らめいていた。私の新たな「戦い」──あるいは「排除」──が、静かに始まろうとしていた。
お兄様、待っていてくださいね。私が必ず、あなたを「救って」差し上げますから。
この穢れた世界から、そして、あなた自身の弱さからも。
すべて、救って見せますから。
だから――私のもとを、離れないでくださいまし。