真実?
六時過ぎに家に戻った颯斗と志帆は、前園の妻の不審げな顔に出迎えられた。
「朝早から何をしちょったと」
明るくなってよく見てみれば、二人とも酷い格好だったから無理もない。浜辺に座っていた間に、生乾きの服や手足についた砂はできるだけ掃ったけれど、どこかくたびれて薄汚れた姿になってしまったのはどうしようもなかった。海水は、乾くとほのかに腐ったような悪臭を漂わせ始めてもいたし、ごわごわになった髪も気持ち悪い。朝だというのに、早くもひと風呂浴びたくて仕方ない、といったところだった。
「ちょっと、散歩? 夜は星が綺麗だって話をしたから。そしたら、ちょっと海で転んじゃった」
「海で!?」
「大丈夫だったでしょ! 颯斗さんだって分かってるし、私だっていたんだから……!」
海と聞いて目を剥いた母に、怒鳴るように答えた志帆は逆ギレとしか見えなかった。でも、勢いで乗り切るしかないのだろう。母娘が言い争っている間に、颯斗は──廊下を汚してしまうことを心の中で詫びながら──前園家に上がり込んだ。彼が靴が履いていなかったのを、前園の妻には見られなかったと信じたい。
「二人で、一緒やったと? ずっと?」
「そう。……色々、二人だけで話したいこともあるでしょ。お互いの将来がかかってるんだからさあ!」
「無事やったで良かったけど……」
前園の妻は、不満そうに呟きながらも少々語気を弱めた。娘に、セの──他の女に心惹かれる男の──妻という役割を負わせることについて、母としては思うことがあって当然だ。結婚も確定していないうちから不倫しているのも同然の颯斗に対しては、さらに言いたいこともあるだろう。でも、ふくやかでにこやかだと思っていた女性は、颯斗をちらりと見て口を噤んでしまうのだ。娘を哀れみ思いやりはしても、島民全てを白波から救う方が大切だと、天秤は既に傾いているということだ。
「……お父さんに見つかっ前にお風呂に入りやんせ。ご飯、用意しちょくで」
内心では葛藤があっただろうに、娘に何があったか問い質したいだろうに、前園の妻が言ったのは結局それだけだった。
熱いシャワーを浴びて、温かいご飯と味噌汁をいただくと、身体が冷え切っていたのが思い知らされた。夏の南国とはいえ、夜も海も、たとえ白波がいなくても人間には優しくない世界なのだろう。
志帆も颯斗に続いて朝風呂を済ませて、いつもの良い香りをまた漂わせていた。洗い立てのシャンプーの香りは、そういえば初めてかもしれない。
疲労もあるし、洗濯や洗い物に立ち働く前園の妻の耳も憚らなければならないし、二人の間の言葉はまた少なかった。箸と食器が触れ合う音だけが響くことしばし──それでも、志帆がやっと口を開いた。
「今日は、どうする? とりあえず二度寝したいかな……? ゆう君、最後だし会っとく……?」
「うん、そうだね……」
二度寝の案は魅力的だし、雄大に会うことの意味も分かる。颯斗が彼と仲良くなったと見せかければ、明後日のフェリーで島を脱出しようとしていると思わせられるかもしれない。実際の計画は明日の未明に動き始めることを、島民に知られなくて済むかもしれない。颯斗が比彌島に来た目的──幼い日に「会った」ものと、「それ」に植え付けられた衝動の正体を解明すること──は、いまだ果たされないままだけど。でも、巻き込んだ人の多さからも、彼の身に実際に迫った危険からも、我が儘を言っている場合ではないのだろう、多分。
「また昨日のところで、かな……? お昼とかに、待ち合わせにしようか」
「そうだね。じゃあ、連絡しとく。颯斗さんは寝てなよ」
連絡するのは雄大だけでなく須藤にも、との含みを、二人とも承知していただろう。昨日雄大と会った崖下の洞窟は、内緒話にもぴったりだ。船を出してくれるという業者を呼び出すにあたって、須藤も地形を把握していた方が良いはずだし。明日は暗闇の中でどう落ち合うか、何時にするかを具体的に話しておくことも必要だろう。
「ごめんね、ありがとう」
志帆が連絡役を買って出たのは、颯斗よりもこの「脱出作戦」に乗り気だからだろう。それに、颯斗の方が海に浸かった時間が長くて消耗しているであることを慮ってくれたのか。いずれにしても、布団が恋しいのは事実だったから、颯斗は素直に礼を述べた。
もう少しだけ、のつもりで布団に潜った颯斗は、でも、起き出すことはできなかった。二度寝から目が醒めた時、彼の身体は火照っていた。風邪を引くことなんて滅多にない健康優良児だったはずだけど、昨夜の今朝では熱が出るのに心当たりがあり過ぎる。
「身体が冷えちゃってたのかな……」
「かもね。もしかしたら、二、三時間とか海にいたのかも」
颯斗の額に絞ったお絞りを置きながら、志帆が心配顔で呟いた。彼女が案じているのは颯斗の身体というより明日の計画のことかもしれないが。でも、とにかく支障が出ることではないと思う。
「志帆ちゃんだけ行ってきなよ。……須藤さんによろしく言っといて。俺は、後で決まったことを教えてくれれば良いから」
彼の意見など、どうせまた必要とされないのだろうから。あの場所に行ったら、また海に飛び込もうとしてしまいかねないし。熱を上げる危険を冒すなら、ここで大人しくしておいた方が良いだろう。
「でも……」
「俺は、寝て治しとくから」
「……また、窓を開けたりしないでよ?」
寝ころんだ体勢から志帆に覗き込まれるのは、新鮮な視界だった。それこそ恋人同士か夫婦でしかありえないような距離感に、けれど完全に冷静でいられるのは、志帆はやはり「違う」からだろう。暗い中で身体を温め合っても何もなかった二人なのだから、多分志帆にとっても彼は何でもない存在だなの。
「大丈夫だよ。……違うって、分かったから」
そして、白波と呼ばれる存在も、「違う」。彼を焦がれさせる存在でないと分かった今なら、また暴挙を犯す理由はどこにもない。
颯斗の呟きの、自棄のような響きには気づいたのかどうか。志帆は仕方ない、とでも言うかのように溜息を吐いて立ち上がった。
「……お腹空いたらお母さん呼んでね。お茶は置いておくけど。お大事に」
颯斗の枕元に麦茶のポットと湯飲みを残して、志帆は部屋を出て行った。残された颯斗は、毛布に包まってもう少し目を閉じることにする。明日、本当に島から逃げるのかどうかはまだ分からない、つもりだけど──とにかく、体力の回復に努めるのに越したことはない。下手をすると、また夜明けの海風に身体を晒すことになるのだから。
目を閉じて、そしてまた開けると、熱は大分下がっているようだった。例の夢は、見たような見ないような。窓ガラス越しに波の音はずっと聞こえていたはずだけど、夢を意識しないほど深い眠りに落ちていたのかもしれない。
どれくらい眠っていたのか確かめようと、颯斗はスマホに手を伸ばし──メッセージを受信しているのに気づいた。志帆か須藤か雄大だろうか、と思ったが、送信者はそのいずれでもなかった。彼の父だ。海で泳いではいけないという比彌島の風習について理由を知らないかと尋ねたことへの、答えだった。日付は、昨日の昼間になっている。洞窟にいた間、圏外になっていたことで受信に時間差が生じたのだろうか。昨日から今日にかけて、颯斗はスマホを確認していなかったからいつ受信できたのかは分からなかった。
──多分、クラゲ避けだと思う。刺されたら危ない奴もいるから。昔話ということなら、恋人を亡くした女の霊が出る、と聞いたことがある気がする。
期待せずに表示したメッセージは、やはりというかごく常識的かつ既に知っていた内容だった。やはり、島の海に潜むのは白波の霊なのだ。あるいはそうでないとしても、父もそこまでは知らないのだろう。期待せずにスマホをまた枕元に置こうとして──颯斗は、父のメッセージに続きがあることに気付いた。
──海の神様に恋人を奪われて、海に身を投げた女がいたって伝説がある。海で泳ぐと、その女に目をつけられる、って。神様も守ってくれるんだけど、必ず目が届いてるとは限らないから、って。




