前園の娘の定め
泣きじゃくる志帆を見下ろすうちに、窓の外は赤から薄青、紺へと色を変えた。室内も照明が欲しいくらいの暗さになっていくが、颯斗が立つには志帆を突き放さなくてはいけなくなる。支えを失って、彼女が倒れないでいられるかどうかが心配だった。
仕方なく、暗がりの中で目を瞬かせながら、颯斗は志帆に語り掛けた。
「俺を呼び戻して──始めから、その、さっきみたいにするつもりだったの……? 前園さんが、そうしろって?」
階下には、依然として人の気配がない。前園夫妻は、娘をほとんど初対面の若い男と二人きりにさせるつもりだということらしい。島に巣食う怨霊を宥めるため──つまりは、これ以上の犠牲を防ぐために? ──、志帆は生贄になった、ということなのかどうか。
いや、前園たちだけじゃない。何といったか、須藤を訪ねた時に出会った老婆もそうだった。志帆との関係を邪推するような馴れ馴れしさは、今思うとこのしきたりだか何だかを踏まえてのことだったのだ。前園家の娘が怨霊に見初められた男と結婚すれば、変事は鎮まる。だから老婆は、当然のように颯斗は志帆と結婚するものだと思っていたのだ。それに──
「……島の人たちが歓迎してくれたのも、そういうこと? 俺が来れば人が死ななくなるから、って?」
拓海の前の犠牲者については、志帆はつい先ほどちらりと漏らしただけだから、颯斗が把握して問い質すのは不審だったかもしれない。でも、構っている余裕はなかった。島に来てからの違和感が噛み合った気がして、けれど爽快感にはほど遠く、新たな違和感が尽きることなく湧いてくる。須藤から教えられた島の歴史との齟齬に加えて、結局のところ彼に何が期待されているのか、何をすれば良いのか。……彼を呼んでいるのは、本当に白波といういつ生きて死んだのか分からない女の霊なのか。
「そう。たっくんとゆう君が『違って』、坂元さんの──っていうか、颯斗さんがセじゃないかって、皆思ってたから。だから、急いで島に来てもらわなきゃ、って……」
「おじいちゃんのお墓参りは嘘、ってこと? うちの、父親じゃなくて俺が来るように、わざと社会人じゃ来れないような日程にしたの?」
「う、うん……ごめん……」
だから、志帆がひとつふたつ、答えてくれたところで颯斗の疑問は晴れはしない。彼が来るように始めから仕組まれていたと分かっても、やはりそうか、と思うだけだ。目を伏せて横を向く志帆の、耳の形や項に色気を感じたり、おどおどと視線を彷徨わせる彼女を哀れんでも良いはずなのに。問い詰めるような口調になってしまうのを、止めることができなかった。だって、いつ前園たちが家に入ってくるかもしれないのだ。志帆を案じてもいるだろうし──だから、今のうちに聞けるだけのことは聞いておかないといけない。
「法事とか言ってたけど……じゃあ、それも違う? 何をさせられるとこだったの、俺?」
薄暗い部屋の中で女の子と抱き合うような格好で。なのに全く甘い雰囲気にはならないのが不思議なほどだ。毒気が抜けたように、志帆から先ほどまでの色気や必死さが消えて、素直に問いに答えてくれているのがありがたかった。我に返ってくれたなら、良い。前園は何を考えているか分からないし、須藤も、知識はあるのかもしれないけど島の事情には明るくない。志帆とは歳も近いし、大人と島の事情に恐らく一方的に巻き込まれた者同士だ。だから、助け合えるかもしれない。
「……セを海に連れて行くと、波が騒ぐの。それで確かめる、儀式だったの」
「その儀式をしてないのに俺って決めちゃった良かったの?」
「絶対颯斗さんだよ……セに見初められた人は、心も取られちゃうから。ここの海で遊んだことがあるなら、その時に『見られた』んだね。颯斗さん、思い詰めた目をしてた……」
志帆の手が自身の頬を包むのを、颯斗は呆然と受け入れた。彼女の切なげな眼差しに心を動かされる以上に、志帆に指摘されるほどに感情が顔に出ていたことに驚いたのだ。それに──彼が見てきた夢、感じてきた衝動は、恋愛感情だったのだろうか。彼には恋人も、好きな人がいたこともないから比べようがない。同級生の異性を見て容姿を好ましく思うとか、身体つきの変化にどきりとするようなことは、もちろんあったけれど。この島に《《いる》》のが女の幽霊で、恋人の代わりを求めているというなら、その術中に落ちたらしい颯斗は、その女に恋しているようなもの、なのか。
白波という女は、一体いつの時代の人間だったのだろう。彼の前にも、何人もの島の男を魅了しては海に引きずり込んでいたのだろうか。今までに何人、そんな男がいたかは分からないけれど──少なくとも、志帆は前例を一人、知っているはずだ。
「日高って人も、そうだったの……? 亡くなった、おじいさん。その人が、前のセ、だった……?」
「颯斗さん……どうして日高さんのこと……!?」
志帆が目を見開くと、涙の乾いた痕で皮膚が攣るのが見て取れた。目蓋も腫れて、溌溂としていたはずの志帆の明るさや健康さは見る影もない。彼女の心労の一因であることに後ろめたさを感じながら、颯斗は違うことに対して謝った。
「ごめん、実はお墓で会った須藤さんのとこに行ってたんだ。それで、その人が亡くなってからおかしなことがあった、って聞いて……」
「そう、だったの……」
志帆は須藤を嫌がっていた素振りを見せていたから、勝手な行動はまた彼女を激高させてしまうかとも恐れたけれど、志帆は颯斗の腕の中に納まったままで溜息を吐いた。事情を悟った納得と──それに、懐旧の念を込めた溜息だった。
「……日高のおじいちゃんの奥さんは、うちのおじいちゃんのお姉さんだったんだって。旦那さんより先に亡くなってて、私もあまり覚えてないんだけど。……二人で並んで、海を眺めてたのは記憶にあるなあ」
どこか遠くを眺める目になった志帆が見る光景が、颯斗にも見えるようだった。青から赤へ、そして深い闇へと色を変えていく海と空を背景に、小さな人影がふたつ、寄り添って佇む。数十年を共に過ごした老夫婦の、穏やかな老後──ではないのだ、きっと。
「幾つになっても、セは海に惹かれちゃうの。白波は、他の男を狙うのは止めても、セを逃がすことはないんだって。前園の女は、だから結婚相手をよく見張って、子供を作ったりして、錨にならないといけないんだ……」
「子供……」
その言葉が仄めかす行為を思って、颯斗は顔が熱くなるのを感じた。慌てて志帆の身体を離そうとする──が、彼女はそれを許さず彼に身体をもたれさせてきた。
「颯斗さん……私は、そんな結婚は嫌。でも、これ以上人が死ぬのも嫌。だから──えっと、一回だけ……? 白波を誤魔化せれば良いと思うんだ。で、本土に帰って、もう比彌島に来なければ良い。ここの海じゃなければ、引きずられたりしないと思うから……」
「志帆、ちゃん……」
志帆は今度はごく冷静に、提案のように誘惑してきている。前園の娘という境遇に同情させることで、颯斗の心を動かそうとしている。そして厄介なことに、肉体を使っての誘惑よりも効果的な手段だった。志帆のためでもあるのだから、と。危うく頷きそうになってしまう。
「いや……それは、ダメだよ……」
首を振ることができたのは、颯斗の倫理観が特別強いからでは、ない。たとえ志帆がどれだけ魅力的でも可愛くても可哀想でも。颯斗自身も命が惜しくても。この島に来たのに海に背を向けることは、考えられない。言われるがままに尻尾を巻いて逃げようだなんて、思えない。
「その、幽霊をどうにかできないかな? お祓いとか、何か方法があれば……。須藤さんとか知ってそうだし! さっきの、雄大君とかも、きっと手伝ってくれるから……!」
志帆の肩を掴んで、颯斗は勢い込んで言い聞かせた。まるで、彼女のためにあらゆる手段を尽くそうとしているかのように。でも、結局は彼だけのためだ。颯斗が、彼を呼ぶものの正体を知りたいというだけ。そんな自分の身勝手さに気分が悪くなりそうだったけど──
「うん……そう、だね……何か、できれば……?」
志帆はほんの少しだけ笑い、そして頷いてくれた。