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君が待つ海へ  作者: 悠井すみれ
序章
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思い出の海

 青い海に、白く大きい飛沫が上がる。ひとつだけではなく、ふたつ、三つと続けて。子供たちが、勢いよく助走をつけて崖から飛び込んだのだ。


「どげんした、()じいかあ!?」

「はよ来え」


 先に飛び込んだ子供たちの笑顔の中、白い歯が眩しい。彼らが大きく水を掻いて立ち泳ぎする様子からは、十分な深さがある──頭を打ったり足を折ったりする恐れはないと、頭では分かる。でも、颯斗(はやと)の足は竦んで動きそうになかった。この海を遊び場にしている少年たちと違って、彼は祖父を訪ねて「この島」に来ただけの余所者だ。海なんて、十年ちょっとの生涯で何度行っただろう。行ったとしても整備された砂浜で、大人の監督の下で他所の子供と手足が触れ合う距離で泳ぐような、プールに毛の生えた程度の経験でしかない。そうだ、足がつかない深さの海なんて、颯斗は泳いだことがない。ましてや、崖から飛び込むなんて。


 眼下で魚のように泳ぐ少年たちの笑顔に、はっきりと嘲りと侮りが滲んでいるのが悔しかった。都会育ちの颯斗よりも、彼らの方が外での遊びに慣れて体力もあるのは明らかだった。日に焼けた肌や、しなやかな手足が嫌というほどそれを教えている。長袖で日差しから肌を守ろうとしている颯斗の格好を、彼らは最初奇異の目で見てきたものだ。


「この、弱虫(やっせんぼ)ぉ」


 波間から投げられる言葉の意味も、颯斗には分からない。彼と少年たちはあまりにも違っていて、だから同じことができないからといって恥じることなどないはずだった。でも、たとえ完全に理解できないとしても、明らかな罵倒を浴びせられて黙っていることなどできはしない。自尊心につけられた傷の痛み、それに対する憤りは、高さと水への恐怖を上回った。


「クソ……っ!」


 少年たちに倣って、既に服も靴も脱いでいる。裸足の足が岩を踏み、全身を浮遊感が襲う。下着一枚で宙に浮く不安はほんの一瞬、視界がぐるりと回り、海面が近づき──


「──……っ」


 水は意外と硬いのだ、ということを思い出したのは、全身に衝撃を感じてから、だった。イルカやトビウオのように、身体を真っ直ぐにして海に入らなければならなかった。プールでの飛び込みでさえ、フォームは厳しく指導されるものなのに。

 痛みに悶えるうちに、けれど颯斗の身体は海に呑まれる。口から洩れた泡が水面に上っていくのが、潮が染みて薄目になった視界でぼんやりと見えた。海水は鼻にも入って、鼻腔の奥につんとした痛みを感じさせる。舌先には、強い塩味。少し生臭く、塩素の臭いに慣れた颯斗を狼狽えさせる。


 思ったより深い。早く、上がらないと──


 海中にどっぷりと浸かり、手足を動かしても海底にも水面にも触れないのに気付いて颯斗は軽いパニックに襲われた。四方を水に囲まれている。捕らえられている。溺れてしまう。

 慌てると、また肺が酸素を吐き出してしまった。息苦しさに駆られて必死にもがき、足を蹴る──と、彼が進んだのは、泡が上るのとは逆の方向だった。上下感覚を失って、海底を目指してしまったのだ。でたらめに動く自らの腕の間から見える水底の世界は、恐ろしいほど広く深かった。幾筋も差し込む太陽の光も、冷静に潜水した時なら美しくも頼もしくも感じたかもしれないけれど、恐慌に陥った颯斗にとっては、絡まる海藻や岩の深い隙間、その闇の濃さをはっきりと浮かび上がらせるものでしかなかった。


 怖い。この世界は怖い。人の世界じゃない。


 手招きするように揺れる海藻から目を背け、颯斗は水面を目指した。慌てさえしなければ、人の身体は浮くようにできているはずだ。水面へ、人の世界へ引き戻す浮力を感じて安堵した時──多分、彼は油断したのだろう。ちらりと水底に目を向けてしまったのだ。そこには──




 枕元でスマホのアラームが鳴っていた。音はそれほどのボリュームでなくても、バイブの振動が枕から伝わって颯斗の眠りを妨げる。


「八時、か……」


 一人暮らしの大学生の生活、それも夏休みとあっては自堕落になりがちなもの。自身に課したリミットの数字が表示されているのを見て、溜息を吐く。幼い頃の記憶から引き戻されたのが、少し惜しいような気がしていた。

 とはいえ、もう少し長く眠っていたところで夢の続きを見ることはできなかっただろう。あの時、祖父の島で、見知らぬ少年たちと海に飛び込んで──あの水の世界で何を見たのか、颯斗の記憶はどうにも曖昧なのだ。彼が覚えているのは、海で遊んだことで祖父と知らない大人にひどく怒られたということだけ。何のことはない、あの少年たちにしても大人の目を盗んで子供だけで海に飛び込むのは冒険だったのだ。ひ弱そうな都会っ子に対して強気なところを見せてやろうという、敵愾心のようなものもあったのかもしれない。


 寝起きの(だる)い身体を引きずって、颯斗はキッチンへと向かった。学生には間取りは1Kで十分、ほんの数歩で冷蔵庫の扉に手が届く。冷やしてあった一リットルのミネラルウォーターのキャップを捻り、直接口をつけて飲む。


「はあ……」


 喉を鳴らして水を取り込み、ペットボトルから口を離した時には、中身は半分近くまで減っていた。冷たい水が、寝汗で乾いた身体に染み通るような感覚がある──が、物足りない。


「何なんだろうな、夏バテなのかな……?」


 呟いてからもう一度ペットボトルを口に運ぶと、今度は中身は空になる。一リットルをほんの数十秒で摂取したことになる。……なのに、口の中に潮の味を感じるのはなぜだろう。肌がざらつくのは汗ではなくて、海水に濡れているような気がするのは? 鼻の奥のつんとした痛みと潮の香は、本当に夢の名残というだけだろうか。

 子供の頃に遊んだ海、その記憶の夢が、今も追いかけてきているような気がしてならない。ここは東京のアパートの一室で、颯斗はもう成人しているというのに。

 ペットボトルのラベルを剥いて、収集日に備えてゴミ袋に入れておく。ゴミ袋に溜まったペットボトルの形状は様々だ。寝起きの水分補給用に、最近の颯斗は毎朝違う銘柄のミネラルウォーターを試している。硬度も産地も様々な銘柄の数々──そのどれもが、彼の乾きを抑える役に立ってはくれなかったけれど。この一、二か月くらいだろうか。あの夏の夢を見るようになってからの無駄なあがきの痕跡だ。


 何かおかしい、とは思っている。長いこと忘れていた、夏の海の記憶を頻繁に夢に見るのも。潮の味や香りがまとわりつくようなのも。この前など、目覚めている時だったのに一瞬水に包まれている錯覚に陥ったことがあった。

 あの海で、颯斗は何を見たのだろう。岩の間に潜んでいた「何か」が理由なのだろうか。

でも、あの島にはもう何年も行っていない。下手をすると、あの夏行ったきりではないかと思う。祖父の葬儀は、受験だったか部活だったかで欠席している。そう、だから祖父を訪ねるという体裁であの海に行くことももうできないのだ。もちろん、個人的な旅行として行くのも不可能ではないが、鹿児島沖数十キロの離島を訪ねるのは気軽なことではない。気になるからというだけで簡単に足を運ぶことができるような場所ではなかった。


 だから──颯斗はこのまま生きていくしかないのだ。海への憧れだか恐れだか分からない感情と、奇妙な乾きを抱えたままで。そろそろ本格的に就職活動も考えなければならない頃だ。そうやって、平凡に生きていくしかないのだろう。

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