開式(4)
病院の入り口に見覚えのある車が止まっていた。
そのすぐ近くの柱にエマさんが隠れるように立っている。ブロンド色の髪が今日もキレイだった。
「喜葉さん、お久しぶりですね」エマさんから声をかけられる。薄い水色の目からは逃げられなかった。
「珍しいですね。病院で会うことはほとんどないと思っていました」
「気が向いたらくるんです」
「そうですか。では、澪さんの調子をお聞きしても?」
また少し、ざわつく。
「この前会った時は元気そうでしたけど……どうして澪のことを聞くんです?」
エマさんは少し考えるそぶりを見せる。
しばらくすると、彼女は口を開いた。
「澪さんが晴奈ちゃんの病室で暴れたと連絡がありました。そのことは御存じですか?」
「いいえ。そんなことがあったなんて知りませんでした」
「分かりました」
それからは社交的な会話が続いた。が、小さな地雷を踏まれたような気分だ。関係ないと分かっているのに、この人もことも無理に日記と結びつけようとしてしまう。
ひどく、頭が痛くなった。
「喜葉さん? どうかしたんです」
右手で、顔を押さえる。落ち着いてから話題を変えた。
「芯夜さんも来てるんですか?」
「はい。仕事が一段落つきましたので」ですが。「帰ったら仕事があります」
「そうですか。わかりました」
別れの挨拶をすませて病院に入る。正直、彼女のことは苦手だ。あの空色の目で見つめられると、訳のわからない所から不安が襲いかかってくる。一緒にいるだけで追い詰められていくような───勝手に緊張してて───息ができなくなりそうだった。
歩きながら薬品に漬けられた死体を思い浮かべる。
監視カメラと目が合って、忘れることにした。
中央エレベータを使って四階の『藤原澪』と患者名が書かれた個室のドアを開ける。面会時間は二十分しかない。
病室を開けるとすぐ、彼女の声が聞こえた。
「新太さん? 来て……くれたんですね。すみません」
椅子を動かして、ベッドの近くに座る。
「元気そうだね」
「はい。病院の先生からもだいぶ良くなってるって言われました」
「そうなんだ」
彼女はどうして笑っているんだろう? 人の妹を殺しておいて……どうして。
「新太さんは、その、調子はどうですか? 目の下のくまが酷くなった気がします」
「今日は少し眠れたかな」
「良かったです」
「なにも良くないよ」───神社の死体が目の前にあるような気がした。けど、首を吊っているのは神社で見つけた男じゃない。藤原澪が首を吊って、ゆらゆらしている。頭が割れそうだ。だけど、そうなって当然のことを彼女はしたんだ。
「澪は死ぬべきだよ」
「え?」
つい、口から出た。
「澪は死んだほうがいい。それで茜に謝るんだ。殺してごめんなさいって」
「……きゅ、急にどうしたんですか。わ、わたしが茜ちゃんを殺した?」
もう、止まれない。
あの死体を見てからずっと、頭が揺れているみたいだった。
「そうだ。殺したんだ。だから、澪が生きているのはオカシイ。澪が生きているのはキケンなんだ。だって、また誰かを殺すかもしれないだろ? だから、死んだほうがいい」
「ち、違います! 茜ちゃんは生きてます。今はただテストが忙しくて会えないだけで」彼女は泣きそうになりながら言う。「久しぶりに会えたのに。どうしてそんなひどいこと……言わないでください」
澪はずっと知らないから。現実を見ていないからそういう事が言えるんだ。あの頃から何も変わってない。ずぅっと、しゃがんで、耳を塞いでいる。気持ち悪い。
自分のしたことを忘れて、必死に生きようとしている。人を殺したことを忘れて、長生きするだけの怪物みたいだ。
どうして思い出そうとしないんだ。
「それに……。今日は茜ちゃんもお見舞いに来てくれました」
「……───」
誰のことを言ってるんだろう。
「今日だけじゃありません。週に一回、会いに来てくれます」澪は泣いていた。「そこに置いてある飲み物とか、果物、お花も。茜ちゃんが持ってきてくれたんですよ? な、なのに……死んでるなんて。そっちのほうが変じゃないですか」
澪はベッドの上で体育座りをして、震える身体を両手で抱えた。
「……───」
「は、ハナちゃんの、お兄さんも来てくれたんです」芯夜さんが澪に会いに来た?
「何か言ってた?」
「元気そうで良かった、て」あと。「ハナちゃんが海外の学校に行っちゃったらしいです」
「そうだったんだ」
海外の学校? どうしてそんな嘘をついたんだろう。
同じ病院に入院してるのに。
「知らなかったんですか?」目を真っ赤にしながら、優しい顔で話しかけてくる。「すごいですよね。まだどこの国の学校かは教えてもらってないんですけど」
澪はそのことを信じているみたいだった。
少しだけ彼女の時間が動き出したってことなのかもしれない。
「退院できたら、新太さんとデートがしたいです。また川沿いの桜を見に行きましょう。ちょうど見頃でしょうし」
「……───」
どうやら勘違いだったらしい。
笑う彼女に何を言えばいいのか分からない。
何もない時間が続いていく。夕日だけが、進んでいるような気がした。
しばらくすると病室に看護師さんが入ってきて、面会終了の時間を教えてくれた。
「ごめん。また来るよ」
病室を出る。
△△△
「言いすぎだ。恋人にはもっと優しくしてあげないと」
病室を出てすぐのところで、声をかけられる。声のする方を見ると背が高く、キレイにスーツを着こなした男性が立っている。
「芯夜さん」
「エマから連絡が来てたんだ」
芯夜さんと一緒にエレベーターで一階まで降りる。
「妹さんの具合はどうでしたか」
「元気そうだったよ。看護師の人たちが体を動かしてくれてた。ありがたいね」
「意識のほうは」
「……まだ、戻ってない。いつ目が覚めるか、なんていうのは医者でもお手上げなんだ。だから俺は、希望はあるって思うことにしてる。明日にでも目を覚ますんじゃないかな」芯夜さんは笑った。「それに妹が目を覚ましたら、タイムスリップしたことに驚くと思う。まあ? 俺の妹は頭が良いから、案外、すんなりと受け入れるかもしれないけど」
芯夜さんはそれからのことを楽しそうに話した。妹のリハビリに付き合うのも、病院食を食べさせるのも、楽しみらしい。
「事故から三年も経ちました」
「あの頃はお互い大変だった。キミの弁護をしたのもいい思い出だ」
芯夜さんはどこかしみじみとした様子だ。だけど、その感情は計算されて作られた偽物に見えなくもない。
彼が何を考えているのか、いつも分からない。
「晴奈ちゃんの病室で澪が暴れたって聞きましたけど……」
「ああ、そのこと」芯夜さんは軽い返事をする。「問題はなかったよ。晴奈にもケガはなかった。ちょうど担当のナースさんも数人いたから、入ってきた澪ちゃん捕まえて病室まで運んだんだって」
「ケガがなくて良かったです」
「……そうだね」
病院の駐車場で、エマさんと合流する。
「車で送ろうか?」と芯夜さんは言った。
「社長、時間がありません」
芯夜さんは恐る恐る、運転席に座るエマさんを見る。
「俺って、どれぐらい時間がないの?」
「この後の予定なら……会議と提出物がいくつか。それと情報集めですね。食事睡眠も予定に入れれば今日の時間はありません」
「ちなみに睡眠時間を聞いても……」
エマさんが予定の書かれた黒い手帳を取り出す。もしかすると、あの手帳にも殺人のことが書かれているのだろうか。
確認を終えたエマさんの顔は無表情のまま、
「三時間ある? かもしれません」忘れてました、とエマさんが続けた。「三十分ほど睡眠時間を削れば、彼を家まで送ることはできます」
私の睡眠時間も削られます、とエマさんは芯夜さんに冷ややかな視線を送る。
その返答に芯夜さんの口元が歪む。おやつを貰えなかったネコみたいな表情で、エマさんを見つめている。
「ごめん。送ることはできそうにない」
大丈夫です、とだけ答える。
「ゆっくり話せる時間が出来たら連絡するよ」
芯夜さんそう言って黒のランボルギーニに助手席に乗り込む。エマさんが運転するらしい。駐車場の出口から走り去っていくのを見送った。




