開式(15)
今日は何もない日だった。誰かと会う約束もなく、ただ眠い目をこするだけの朝を過ごしてから昼には散歩にでかける。
駅まで歩いてみることにした。
また暮屋玲子に会うことになるかもしれないが、もしも他の日記を書いた人に話を聞けるならまたどこで会えるだろう。
街を歩いていると声が聞こえてきた。
「水族館の近くにある浜辺で死体が見つかったらしい」次は。「今日ね、ゴキブリで家中が大騒ぎになったの。食器棚が倒れて、皿がたくさん割れちゃった。もうホントに最悪」
誰もいないコンビニを通り過ぎる。駅の近くまでくると、手にタバコを持ったサラリーマンが体を丸めて、階段に座っていた。駅を利用する人たちはその人を怪訝そうに眺めるだけで、何も言わない。係員の人も見てみぬふりをしている。
本当にいつも通りの日常風景だ。昔と変わったところを探すほうが難しいような気さえする。
新しく建設されたビルなどは風景を変えてくれた。ただ、それはビルだけのもので人の風景は変わっていない。
いつ、どこで、誰が死んでも───苦しんでも、変わらない街。
日記に書いてあった場所についた。駅から、中央公園とは反対側に進んだ先にある廃墟街。そこで山石啓介は人を殺した。日記には『ぶら下げるのが大変だった』と書いてある。
書かれていた場所は廃墟街というだけで、他にヒントのようなものはない。ただ、なんとなく歩いてみるしかない。
鼻につくのは排水溝が腐ったような、つーん、とする臭いだけ。それだけで肩に力が入ってしまう。道に倒れ込む人はいないが、路地を覗けば、たくさんの人が何かに隠れている。廃墟街はそういう、涙の集まる場所だった。
電柱に巻きついた黒いしみ。
湿った窓から聞こえてくる蝉の遠吠え。
道の端に置かれた枯れない花畑。
誰も近寄ろうとはしない。砂漠を思い出してのどが渇くのと同じように。過酷な環境からは逃げるのが正解だ。
善意を見せようものなら他人の苦しみでその身を滅ぼすことになる。
助けるのは誰かでいい。誰かが、ここに住む人たちに生きる練習をさせる。
山石啓介もしょうがなく人を殺したのかもしれない。
『貧困は人を変える』
山石啓介はそれが身体に染みこんでいるのだろう。逃げ出したいという一心で、子供の頃からの日常を繰り返したんだ。
人を殺すことに躊躇いはなかったらしい───日記にはこう書かれている───『人を殺した後にあったのは、冷静な思考と異様な全能感。他人のすべてを支配できたと感じた。日常を壊す方法を手に入れた。心の中にあった不平等は、他人に同じような不平等を与えることで、平等になる』
理解できない。
探偵はこの意味を理解できたのだろうか。
鉄格子の無くなった窓から奇異な視線を向けられる。敵が来たと周りに伝えているのかもしれない。ここで生きている彼らの財産は、この街だけだ。それを守るためならきっと殺人だってする。
失いすぎて、疲れて切ってしまった人たちの集まる場所。
病的なまでに生きることをやめられず、街に閉じ込められて、いつも眠っている。
気づかないうちに、駅まで戻ってきていた。
振り返ってみても廃墟街は見えない。
もしかすると、あの街に閉じ込められる資格がないから駅まで戻されたのか? それともただ逃げてきただけのか。
どっちにしろ、あの場所にはもう行くことはない。探偵が一番嫌う、廃墟街。その街に住んでいる人たち全員が悪だとは思わない。それでも離れて暮らしてしまう。あの街で暮らしている人も同じで、もう安心してしまうんだ。
あの場所はきっと沼なんだ。行き場の無くなった人たちが暮らす沼。暗い場所でしか目が見なくなり、明るいだけで目を壊してしまうようになった人たち。彼らはどうやって生きていくのだろう。
△△△
中央公園に着くと、歩き続けたせいもありすぐにベンチを探した。図書館前のベンチに腰をおろし、歩く人影を目で追いかける。それはキレイな人たちだ。生きている世界が明らかに違う。
学制服を着た人はまっすぐ図書館に入っていく。彼はこれから色んな問題を解いて帰るのだろう。
今度は噴水池のまえで写真を撮る人が見えた。彼女はどういう視線で知っていくのか気になった。死体を見ても美しいと感じるのだろうか。いや、彼女が美しいと感じるものしか写真に撮らないのだろう。死体を見てもすぐに逃げ出すに違いない。
散歩に来たらしい老夫婦が目の前を通り過ぎる。二人は楽しそうな、ケンカすらしたこともないような幸せ笑顔で、会話をしていた。
切りそろえられた森の木々を美しいと感じる人がいるように、それを残酷なものだと睨みつける人もいる。
また新しい人がこの公園に入ってきた。
その人はふらふらと歩いた。小さな鞄を持っている。それを大事そうに抱え、周りをちらちらと疑うように顔を動かした。ふいに図書館のほうへ走り出し、手に持っていた鞄を勢いよくなかに投げ、来た道を引き返す。
図書館からは大きな音がして、入り口からは煙が上がる。ぱちぱちと、花火の音が聞こえてきた。
図書館にいた人たちの悲鳴と、火事を知らせるベルの音。そこにゴールデンレトリバーも吠える。女性が慌てていた。
外にいる人たちの視線は好奇心と不安の種から、色んなことをする人がいた。スマホのカメラで写真や動画を撮り、悲鳴を上げて警察と消防を呼ぼうと電話する人。こうやって見ていると全部がひとつの行動を基準にして動いているんだな、と思う。
もし探偵がこの光景を目にしていたならどうするだろう? 逃げた犯人を捕まえるために脳細胞を使うのか。それとも見事なものだ、と褒めるのだろうか? 多分、笑っているとは思うけど、そういうことは言わないし、考えないな。
あたりは戦々恐々としていた。けれど、火の手が延びているわけでもなく、ただ微かに煙の焦げ付いたにおいがするだけだ。
悪意のある迷惑は、海に沈められるのと変わらない。
息ができないまま心は溺れる。そうして出来上がったのはたくさんの血の池だ。たくさんの魚がいつまでも泳ぐことはできない。
だから……首を吊って助けないといけなくなる。HERAみたいに。
しばらくして、図書館の入り口には大勢の人が集まってきた。先ほどの老夫婦もいる。キャンパスに絵を描いていた大学生らしき人は手を止め、煙の上がる図書館を見逃すまいと、瞬きすらしない。
すぐ近くの人は家族に電話をかけているようだった。
ベンチから立ち上があり、噴水道を歩く。その途中でさきほどのゴールデンレトリバーを連れた女性と一緒になった。
一目見て優しそうな人だと思った。
正門で反対の道に向かって歩く。帰り際に目が合ったので、会釈した。相手の女性もこっちに会釈を返してくれて、ゴールデンレトリバーも大きく吠えた。
いつまでもあの場所にいてもしょうがない。また身に覚えのない犯人にされてもイヤだった。……今さらだ。今さら罪のひとつ、ふたつ増えたところで。あの日記のように誰かを殺すのか? この騒ぎなら、誰も見ていない場所がどこかにあって、そこで誰かを海から助け出すんだ。
そうすると、どうなるんだ───わからない。
△△△
今度は正門から入らなかった。そこには新しい出会いがたくさんあった。裏口から入ってすぐのトイレには男女が面白おかしく図書館のほうへ走っていくのを見たし、広場にはテレビ局の人が周りの人にインタビューをしている。
遠くから消防車と救急車の音が聞こえてくるのだが、警察の音は聞こえてこない。確かに、事件が起こってしまえば出番が少なくなるのは当然だ。
警察の役割は犯人を捕まえることであって、火を消したり、人命救助をするわけじゃない。そういう人たちを見てきたから分かんだ。
彼等は何もしないことを求めている。
必要とされないことを第一に考え、頼られることを一番の苦痛だと感じているのかもしれない。サボっているところを見られたくないから正義の旗を振りながら走っている。
赤い旗は彼らにとってプライドの塊で、全てが許される象徴だ。
近くで泣いている子供の声がして振り返る。一人ぼっちで両手を前に突き出し、お母さん、お父さんを探している。手をつなぐ相手がいなくなると、子供は必要のない告白をさせられてしまう。
周りの人は図書館に向かって行ってしまった。
しかし、その子供に近づいてくる犬がいた───先ほど別れたはずのゴールデンレトリバーを連れていた女性も一緒に───彼女の声を聞いた子供は震えるほど嬉しかったに違いない。
どうしたの? と優しい口が動く。
子供のほうも必死に伝えようとしている。けれど、涙声としゃっくりで上手に話すことはできなかった。
彼女と目が合い、また、頭を下げる。すると、いつのまに近づいたのか、ゴールデンレトリバーが目の前で笑っていた。
「テルくんをお願いします」
そう言って、彼女は泣いている子供の手をとった。子供はすぐに泣きやんで、手を繋いでくれた女性に目を晴らしながら、笑顔を向ける。
彼女もその笑顔に答えると、二人は図書館のほうに向かって歩いて行ってしまう。
残されたゴールデンレトリバーはすぐ横で彼女が離れていくのを───前足を踏んで、鼻を鳴らして───寂しそうに座っている。
「名前、テルっていうのか」
テルくんは大きくワン! と返事をした。
十分ほど経って図書館のほうから歩いてくる飼い主が見えると、テルくんはすぐに飛び出して、飼い主の身体にのしかかる。ふわふわとした布団みたいに覆いかぶさり、感情を爆発させて喜んでいるのを見ると、それだけで彼女がどれだけテルくんを大切にしているのか分かるような気がした。
テルくんを連れて彼女が近づいてくる。テルくんはウキウキのようだ。
「この子のことを見ていてくれてありがとうございました」鈴のような声と、テル君が吠える。「先ほど、正門でもお会いましたよね?」
女性は丁寧な口調で話しかけてくる。となりに座った彼女からは優しい視線と花のような香りがした。
「どうかしましたか?」
「いえ……なんでも……」
彼女に話しかけられるだけで、小さな喜びのようなものが広がった。あの子供がすぐに泣きやんだのも分かるような気がした。
彼女からは他の誰とも違う、安心感のようなものが溢れている。
「子供はどうなりましたか?」
「それがですね……」彼女は気まずそうに答える。「見つからなかったんです、あの子の親。ですので、公園の預り所にお願いしてきました。愛があれば、迎えに行くと思います」
必ず、と彼女は語気を強めた。
頭を撫でられているテルくんは嬉しそうに尻尾をふっている。
「図書館のほうはどうでしたか」
「何事もなかったと思います。野次馬はたくさんいましたけど」
気が付けば必死に彼女と会話しようとしているような気がした。話すことがなくなり、彼女が立ち上がる。
「テルくんをありがとうございました。それじゃあ、また」
彼女が裏口から出ていくのを見送る。
結局、彼女の名前は分からないまま。最後まで会話することに必死だった。
△△△
それからしばらくして、先ほどの子供の親かもしれない二人が戻ってきた。トイレにいたあの二人だった。
彼らの一言目は───苦しそうな表情と一緒に───私たちの子供を知りませんか?
「探しても見つからないんです。ちょ、ちょっと目を離した隙にいなくなってしまって。まだ五歳ぐらいの子なんですけど……」
女性は目に涙を溜めて、嗚咽をのどに詰まらせている。隣にいる男性が、
「この辺にいたはずなんです。もし、知っていることがあったら教えてください」
「預り所にいると思いますよ」
「行ってみたんですけど、子供はいなくて。だから、このあたりのどこかにいると思うんです。もし何か知っていることがあれば、教えてください。お願いします」
「……」
何も知りません、とだけ答えた。
「わかりました」
それだけ言うと、二人はヨロヨロと立ち去った。
別の人のところに向かうらしい。
他の人に聞いても結果は変わらないだろう。
アパートへの帰り道であの女性のことを思い出す。彼女は子供の親を探しに行ったわけじゃなかった。同情はしてなかったんだ。それなら子供をどこに連れて行ったのだろう。あの数分で出来ることは限られているだろうし、彼女が危害を加えるとは考えられない。それにしても、他人のことで思いつめるなんて───やめよう。関係のないことだ。
明日、探偵に相談すればいい。




