開式(14)
玲子さんを見送った数時間後には、また新しいしいお客がチャイムを鳴らした。だるい体を引きずって玄関のドアを開ける。
「おはよう」
芯夜さんが立っていた。しかも今日は珍しくいつものスーツ姿じゃない。私服だった。
「昨日誘拐した女の人はまだいる?」
「あの人はもう帰りましたよ」
芯夜さんは少し残念そうな表情を浮かべた。
玲子さんはおそらく芯夜さんが朝に訪ねてくると予想してこのアパートを出たのだろう。そうでもしないと、またすぐに誘拐されてしまうから。
せっかく手に入れた自由を不自由にするわけにはいかない。
「今度はうちに泊めてあげようと思ったのに」
「そうだったんですか?」
「いや、本当は聞きたいことがあっただけなんだ。もし聞き出せなかったら彼女を事務所に監禁しようかなって」
「弁護士のセリフとは思えませんね」
「冗談に決まってるだろ。本気にしないでくれ」芯夜さんならやりかねないような気がした。
「それにしても本当に早く来ましたね。まだ朝の五時ですよ」
まだ空は薄暗い。少し遠くに青みがかった絵の具が見える程度。昨日のうちに来るとは聞いていたけど、まさかこんなに早くとは思わなかった。
「迷惑だとは思ったけど」芯夜さんは続けた。「新太くんなら起きてるって分かってたから」
「携帯のほうに連絡してくれたら良かったのに」
「そしたらあの女性に気づかれるかもしれないだろ?」
玲子さんは終始周りを警戒していたみたいだったから、その可能性は捨てきれなかった。
「本当は誘拐した人と話ができたら、最高だったんだけど……。どこに行ったか聞いてたりする?」
「知りません」
「じゃあ、何時くらいにこのアパートを出ていったか覚えてたりしない?」
「いいえ」と首を振る。
「そっか」と芯夜さんは天井を見る。「じゃあ、ドライブしよう」
入り口に車を待たせてあるから、と目の前には芯夜さんの愛車───黒のランボルギーニが悠然と待っていた。
「おはようございます。新太さん」
車の運転席のほうから女性の声が聞こえてきて、咄嗟にそっちを振り返る。エマさんがいた。彼女には仕事が残っているのか、ぴしっとしたスーツを見事に着こなしている。朝早くなのに、髪の毛一本乱れていないような気がした。
「社長の都合で叩き起こされた私は可哀想だと思いませんか?」
「思います」と答えて、芯夜さんのほうを見る。
エマさんは中指を立てて、芯夜さんを睨んでいた。
「二人で俺を悪者にするのはやめてくれ。エマには悪かったと思ってる」ほら。「後でなんか好きなもの買ってあげるから機嫌治してくれ」
「では、アイドルのチケットで手を打ちましょう」
「アイドル? エマさんってアイドルが好きなんですか?」
「新太くんは知らなかったの? エマって実は結構なアイドルオタクなんだよ。休みの日はいつもアイドルのライブに行ってるらしい」
「意外でした」
勝手にそういった御楽とは無縁の人だと思っていた。
「自分でも意外な趣味だと思います」エマさんは遠くを見るような、また表情の読めない顔で空を見上げた。「私がアイドルを好きになったのは日本に来てからです」
「理由はなんだったんです?」
「仕事のストレスでしょう。当時はむしゃくしゃしてましたから」
芯夜さんは少し気まずそうにしている。「俺はホワイト企業の社長です」
「はい。社長の会社は確かにホワイトです。ただ、自分の趣味に社員を使うのはいい加減やめて欲しいところではあります」
今日みたいに、とエマさんは付け加えた。
「し、仕方ないだろ。俺は車の運電が出来ないんだから」
「え?」
「あれ、言ってなかった? 俺って免許は持ってるんだけど……。その、運転するとかなり危険な人間っていうか。誰も俺と一緒に乗ってくれないんだよね」
「この車って高級車ですよね? じゃあ、どうして持ってるんですか?」
「車は好きなんだ。家には他にもたくさんコレクションがあるから、今度見に来なよ」
「その内の一台を私がおねだりしました」ところで。「昨晩、誘拐したはずの女性の姿が見えませんが」
エマさんはあたりを見渡した。手遅れだったことを芯夜さんが伝える。頭のいい女性でしたね、とエマさんは答えた。
エマさんが車の運転席に乗り込みエンジンをかける。思ったよりも静かな音で車は発進する。
「どこかのコンビニで朝ごはんを買おう。新太君は何がいい?」
「カップ麺を食べたのでいりません」
「あれ? そうなんだ。じゃあ、このまま港のほうに向かおう。エマ、頼むよ」
彼女は無言で了承し、また車のアクセルを踏んだ。
そう言って連れてこられたのは事件のあった港の倉庫が見える場所だった。倉庫にはまだ立ち入りが禁止されているらしく、こうして遠くから眺めることしかできないのだそう。ただ、どうしてここに連れてこられたのか分からなかった。
「あそこで起こった事件は知ってるよね。集団自殺」
ニュースで報道された内容には殺人のことは一切触れていない。
「ええ。でもあれは、殺人の可能性もあるんでしょ?」
芯夜さんは目を丸くした後、小さく、「そうだよ」と呟いた。その言葉は海に落ちて、波をたてる。
「どこまで知ってる?」
「ニュースで報道されている内容くらいです」
芯夜さんは空笑いを鳴らして、
「それならどうして『殺人』なんてワードが出てくるんだい?」
「首を吊って死んでいたから」口から嘘が出た。「HERAが関係していれば、あの事件も殺人だと思ったんです」
「キミもそう考えてるワケか……」
もしかして同じように考えていたのだろうか? 確かに芯夜さんならあの倉庫で起こった事件の情報を手に入れることはそう難しいことじゃない。彼もずっとHERAを捜し続けているから。
芯夜さんは手すりに体を預けたまま、ずっと港の倉庫から目を離そうとしない。
「あの場所にはあった首吊り台で死んだのは二十人───これは間違いない。だけど、もしそうなら一人足りないんだ」
「一人足りない? それってどういう……」
「そのまんまだよ。あの倉庫にある死体は二十一人いないとおかしいんだ」潮風がやけに肌寒く感じた。「倉庫にあった首吊り台は一本のレバーを引くことで作動して、全員の床が抜ける仕組みだった。でも、その一つに壊れている装置があったんだ。それも意図的に壊された痕跡がね」
「だから、殺人事件として調べてるわけですか」
「そう。そうなんだけど……。今回は個人的な感情が八割かな」
芯夜さんの話を黙って聞くことにした。
「だって、ムカつくだろ? みんな仲良く死にましょうって集まったのに、レバーを引いた奴だけが生きてる。しかも、そいつは何の罪もない人たちを死刑台に立たせたんだ。ただ、死にたかった人たちを……。考えられるか?」
聞いていても想像ができない。したくない、というのが本音だった。想像してしまえば、集団に飲み込まれてしまう気がした。
しかし、どうしてそんな事をしたのだろう。
「あの倉庫で発見された死体は公表されてないけど、全員、家族のところに帰ったそうだ。もちろん、殺人の可能性は伝えずにね」
「一部の人は保険金が入って喜んでいたそうですよ」
「エマ、そういう事は言わないでくれ」芯夜さんは話を戻す。「殺人鬼の考えることは分からない」だけど。「そのレバーには一人の指紋が残ってた」
違和感があった。しかし、それが何なのか分からない。
芯夜さんと目が合う。鋭く、正義に溢れた目だ。とっさに視線をそらす。
「その指紋は氷室清司という男のものだった」
「……氷室清司」
ここでその名前を聞くとは思わなかった。それに集団自殺の犯人が氷室清司なら、もう死んでいる。神社村にあった死体───あれを氷室清司と証明できるのは一枚の名札だけ───確かに、それだけで吊られていた死体が氷室清司だとは断言できない。
顔や身長といったものは日記にも書かれていなかった。ただ、名前だけだが一人歩きしているような。
もし、あの死体が氷室清司じゃなかったら……。
「警察はいま、氷室を探すことに必死だよ。氷室の人間関係とか、監視カメラとか。血眼になって探してる。それが現状だ」
「そんなこと教えて良かったんですか?」エマさんが言った。「新太くんを関わらせたくないと言っていたのは社長ですよ」
「全然ダメだね。機密漏洩だし。でも、新太くんには知っていてほしかったんだ」
「何をです?」
「氷室清司こそ、三年前にいたHERAなのかもしれない」
声が出せなくなった。何かに首を絞められているような。
「これは俺の妄想だけど……。氷室は自分の首吊り台だけ壊してたんだ。目の前で苦しんでいる人たちを見るために。昔のHERAと同じだ。イカれた殺人鬼だよ」
芯夜さんは続けた。
「それに他の場所でも氷室の指紋が見つかったんだ。暮屋玲子の指紋と一緒にね」
また知っている人の名前を聞いて、バケツを被ったような気分になる。
「二人の指紋と一緒に、男性の首吊り死体が見つかった」
「その見つかった男性の名前は……」
「まだ結果は出てない。全身にひどいやけどの跡があるらしくて。身元が分かるまで一週間はかかるらしい」
「じゃあ、今日会いに来たのは───」
「あの女性が暮屋玲子だったか確かめるためだ。もし本当に彼女なら話を聞く必要がある」芯夜さんがじっと見つめてくる。「本当にどこに行ったか、知らないんだね?」
「はい。何も知りません」
「タイミング間違えちゃったか」頭を掻いて申し訳なそうにする。
「ちゃんと謝って欲しいです。私に」とエマさんが言った。
「エマはもう少し俺のことを好きになってくれてもいいと思うんだ。優しくするとか、支えるとか。なんか色々、頑張ってくれると嬉しい」
「私は休日に呼び出さない人に優しくします」
芯夜さんはがっくりと肩を落とす。エマさんは譲らないとばかりに、車を貰う気でいた。




