開式(13)
「う、うーん」
「目が覚めて良かったです。かなり強い薬らしいので。具合はどうですか?」
「……───」
起き上がった女性と目が合う。
水の入ったコップを彼女の前においた。
「状況が全然飲み込めないんだけど」
「あなたを部屋まで連れてきただけです」
「それ、誘拐っていうのよ」
「聞きたいことがあるんですよね?」
あきらかに警戒の色が強くなる。彼女からしてみれば脅されているような感じなのだろう。優位に立っている状況から不利になったことで、襲ってきた時の声音とは似ても似つかない。知らなければ物事のすべてが歪んで見えるのと同じように。彼女は今、踏み潰されそうな花の気持ちを楽しんでいるのかもしれなかった。
「可愛くないんだけど」
「日記のことを話したいだけです。協力してくれませんか?」
少しの沈黙があって、
「何が知りたいの……」
日記について知りたいこと───何も知らなくてもいいと思った。
「そうですね……」考えて。「どうして襲ってきたんですか?」
ありふれた質問に彼女はきょとんと目を丸くする。なぜそんな質問をするのだろう、という表情だ。
「そんなの日記を取り返すために決まってるでしょ」
深い息をつく。彼女の身体から少しだけ空気が抜けていくような感じがした。できればこの雰囲気のまま話を進めていきたい。
彼女の尻尾を踏んで、襲われるのだけは二度とごめんだ。
「あなたも日記を拾って誰かに襲われたことがあるとか?」
「ないわ。あたしは廃墟街で拾ったの。読んだなら分かるでしょ?」
確かに。彼女の前にこの日記を書いた人は廃墟街で人を殺している。
「ていうか、そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃない? 喜葉新太くん」
「名前……知ってたんですね」
「そりゃ、調べるわよ。もしかしたら、殺人仲間になるかもしれない相手だもの」それに、と彼女は続けた。「あんたも、あたしの名前知ってるでしょ」
彼女の名前は日記の最後に書かれている───暮屋玲子。
「アンタのことはすぐに分かったわ。殺人鬼HERAとして報道された特定少年らしいじゃない。びっくりしちゃった」
話をしていくにつれて、彼女はちょっとずつ襲ってきた時と同じような雰囲気にもどりつつある。
「棘のある言い方ですね」
わかる? と暮屋さんは笑みを作った。
「ねえ、アタシからも聞きたいことがあるんだけど」次の言葉を待つ。「キミは人を殺そうと思ってるの?」
同じ質問をされたことを思い出す。日記は殺人許可証であり、人を殺す権利である───でもやっぱり、理解は出来ても納得して頷けるかどうかは別の話だ。
「人を殺すつもりはありません」
「じゃあ、譲ってくれてもらえないかしら」
「暮屋さんがまた、人を殺すために……ですか?」
沈黙があった。答えは返ってこない。かわりに、キレイな二重が何度か鋭く光った。
「人を殺したから日記が欲しいんですよね?」
「なんか……話してるうちに日記のことはどうでも良くなっちゃった」
「それじゃあ……」
「アンタにあげる」
「暮屋さんはどうして殺人をしたんですか」
「もう少しオブラートに聞き出そうとか、説得しようと思わないわけ?」
「日記を読みましたから」
「……───」暮屋さんはため息をついた。「今さらか。日記に書いたとおり。アタシが氷室さんが自殺していることを書いたの。神社村のこともね」
その日記が、探偵を神社村に行かせたところなのだろう。
「氷室とは人を殺した直後に会ったんですね」
「そうよ」
彼女が言うと、低い耳鳴りがした。壁に知らない男の人がもたれ掛かっている。頭から血を流した畳を汚していた。
ボクはこの男の人を知ってる。この人は裏切り者だ。死んで当然の人なんだ───僕はボクの声を無視した。
暮屋さんの話を聞きたかったから……───だけど、モノクロの世界ではボクの声しか聞こえない。僕が指をさしている誰かは、ぴくりとも動かない。もう死んでいるのだろう。男は何かで頭を叩き割られた後だった。
「ねえ。ちょっと、聞いてるの?」
僕は声を出そうとして、のどに詰まったカエルを鳴かせた。「あ、え」
「ふざけてないで───」暮屋さんの声が聞こえなくなる。
△△△
とうとうモノクロの世界で聞こえるのは、ボクの声だけになった───この人は死んで当然の人なんだ───またか。もっと他に伝えることがあるだろ。
「澪といっしょに川沿いを歩いていた時に見たあの女性は誰なんだ」
しばらく目が合って、
『……───』ボクは何も答えない。
口をパクパクと金魚みたいに動かしていた暮屋さんも動かくなって───ボクは勝手に壁の男を指差す。
「この人は誰?」
『ボクが信じていた人だよ。今の僕からはどう見えてるの?』
「別に何も───」
何も感じない。ただ、死んでいる誰かだ。そこに揺れ動くようなものもなければ、波が立つようなこともない。
『ホントに?』
本当だよ。
「ボクは、この人を殺したのか?」
『そうだよ。ボクが殺した。死んでほしかったから───殺したんだ』
「じゃあ、僕は人を殺したことがあるのか……」
横たわった男を見る、ちらつくのは人を殺してもいい、という二人の言葉だった。
「僕は日記を手に入れる前に人を殺していたんだな」
それはつまり、HERAという殺人鬼に影響を受けてのことだろうか?
目の前の死体に今の僕が向けられる感情は少ない。残念だ。ありふれた感想の中でしか僕はボクのくれた記憶に曖昧に答えることしか出来ない。
ボクと僕は死んだ男に───あるいは死にかけている男に近づく。足の先に真っ黒い血が触れた。温かさも冷たさもない。漠然とした不快感だけが背筋を這いあがってくる。
『人を殺したことがショックだった?』
「そうでもない。むしろ、日記を拾った理由に納得してる」
『誰か殺すの?』
ボクに質問され、ふと頭に思い浮かべたのは澪と光希の顔だった。
『どっちにするの?』
「……───」僕は言った。「それよりも、いい加減この人が誰なのか教えてほしいんだけど」
今度はボクのほうが黙る。
ボクは幽霊のような冷めた表情で笑っていた。
「どうしてなにも言わないんだ」
手錠が鳴る。
耳鳴りと一緒に世界に色が戻っていく。
△△△
引き戻された現実に死体はなかった。汚れていた畳もキレイになり、流れる夢のような余韻を残して過ぎていく。
部屋を見回すと暮屋さんがいなくなっていた。
台所の方から物音がする。
しばらくすると暮屋さんが包丁を持って戻ってきた。
「立場逆転ね」意地悪そうに言う。
襲ってくるような気配はない。ただ脅しに使うだけなのか、もしくは話を有利に進めたいのか、そのどっちかだろう。
理由はどうあれ。彼女は包丁の鋭さを見せつけて、からかってくる。
「アンタって何かの病気でも持ってるの? 急にぼーっとしちゃってさ。誘拐した相手から目を離しちゃいけないでしょ」
「そうですね……この後はどうするんですか?」
日記を手放した彼女にとって、こんなことをする理由はないはずだ。それとも日記のことは建前で、ただ人を殺したいだけなのだろうか。
ふと、夢のことを思い出した。
「暮屋さんは、人を殺して楽しいですか?」
眉間にしわが寄り、暮屋さんは苦そうな顔をする。
「快楽殺人みたいに言わないでくれる? アタシだって人を殺したくて殺したわけじゃない。殺さなきゃ自由になれなかったから殺したの」彼女は続ける。「いい? 大人になれば子供の頃に憧れていたものがどれだけ醜いものか分かる。理不尽と奇麗ごとで命を騙していくのが社会なの。あなたも身に染みて……分かってるハズでしょ」
「そう……ですね」
日記を読んだからこそ分かる、彼女の本音。
耳の奥でカチカチと虫の鳴く音が聞こえた。
「人生に落ちている邪魔な石をどうにかして排除したい。その方法が殺しだった。本当にそれだけの単純な話よ」
「それでも人を殺すのは違うと思います」
奇麗ごとね、と彼女は一蹴する。
「じゃあ聞くけど……閉じ込められていた頃のアタシをどうやって助けるの? まだ子供のアンタが近くにいたとして、何が出来るっていうのよ」
「何も出来ません」
「でしょうね」
呆れてくたびれた表情を浮かべる暮屋さんを見て、少しだけ違うと思った───何も出来ないのではなく、何もしたくない。人を助けて傷つきたくない。もう誰かの代わりになるのは嫌だ。
そんな気持ちがどこからともなく湧き上がってくる。
「人を殺したから、今こうしてアンタと話せてる。自由と不自由は天秤なの。自由を選ぶために、何かしらの不自由を背負わないといけない。それが選べるようになって初めて子供が大人になったっていう証明になるの」
人生の先輩からありがたい言葉を貰う。
「人生を進める方法を知った時、ですか……」
「そうよ」
日記に書かれていたことにウソはない。暮屋さんは人を殺すことで自由を勝ち取った。そして、日記に告白するという不自由を選んでいる。
「じゃあ、人を殺す必要がなくなった今はどうですか?」
「……どういう意味よ」
「日記には暮屋さんが自由になるために人を殺したことしか書かれていません。あなたは不自由を選べるようになって、その後は……どんな気持ちで生きているのかな、と」
「普通に生きるに決まってるじゃない。アタシは普通になるために人を殺したんだから」
「───普通に生きる?」
言っていることがよく分からなかった。人を殺す行為自体、普通とはかけ離れている気がする。
「それは、つまり───」
きゅー、という音がして会話が打ち切られる。
暮屋さんは急いで台所に入り、お湯の入ったやかんを持って戻ってきた。
「いつのまに……」
「アンタがぼーっとしてるとき暇だったのよ。それで台所を漁ってたらカップ麺を見つけて食べようと思ったの。アンタも食べるでしょ?」
少し考えて、
「いただきます」
包丁とやかんをテーブルの上に置いて暮屋さんはまた台所に消えていく。しばらくして、カップ麺を二つ持ってきてくれた。
「襲われた相手と一緒にご飯を食べるって、なんだか不思議ね」暮屋さんが言う。
「最初に襲ってきたのは暮屋さんの方でしょ」
「そうだった?」
無言で麺をすする。
「氷室清司ってどんな人だったんですか?」
「さあね。あたしも氷室さんと長い付き合いがあるわけじゃないし。まあ、あえて言うなら怖がりで繊細な人、かな」
「そんな人だったんですね」
ウソをついてる気がした。
千堂さんから教えてもらった氷室は臆病な感じはしなかった。他人の意見と跳ね返してしまえばそれまでだが……しかし、それでも十分に頭のネジが外れた人間だと想像できる。
実際、繊細で怖がりな人が殺人に手を伸ばすとは到底思えなかった。
「ちゃんと狂ってる部分はあったと思う。常々、楽園に行くんだ、ってぼやいてた」
「楽園?」
「あたしに聞いても答えられないわよ。だって、知らないんだし」
カップ麺を食べ終わると、暮屋さんはいった。
「これでもう話すことはないか」彼女はそう言って立ち上がる。「それじゃあ、あたしはもう帰るから。ごちそうさま。くれぐれも後ろをついてきたりしないでよ」
彼女はそう言い残し、朝になる前にアパートを出ていった。




