開式(1)
あなたは『魔法』を手に入れる
プロローグ
金曜日の夕方は人の流れがいつもよりちょっと早い。雨が降ったあとの川みたいに汚れた砂がいろんなものを巻き込んですれ違っていく。その靴音の賑やかさは非日常から逃げる魚のようだった。明日にはきっと楽しいことが待っている。
……そう信じているのだろう。
持っていたスマホが震える。木乃香さんからメッセージが届いていた。
『ごめん! 今日は約束守れそうにない』『本当にごめん』『明日はそっちに行くから! 今日は本当にごめん』
最後にまたごめんなさい、のスタンプが送れられてきた。
席を立ってカフェの店員に声をかける。木乃香さんはもどって来ないと伝え、コーヒー代を支払わず、そのまま店を出た。入れ替わりに、スーツを着た女性がなかに入る。カフェ・ミルキーは木乃香さんが経営している店で、客の種類も社会人から学生までたくさんの人が利用する。
おんぶされたカエルのような生き方だ。
人混みのなかを進んで、横断歩道のまえで止まる。
赤になったばかりで周りにはほとんど影がない。
色が変わるのを待っていると、ふいに、反対側で同じように信号を待っている三人の女子高生が目に入った。その瞬間、耳を塞ぐような───低い耳鳴り───めまいがして、吐き気がした。
世界からゆっくりと色が剥げていく。
信号の色だけを残して、モノクロに変わる。ここで、妹の死体を見ることになる。
僕はボクを見ている。
昔のボクに向かって手をふっている妹が横断歩道の向こう側に立っている───ボクはどうしたらいいんだろう。茜がいる。右にはボクの彼女がいて、左には晴奈さんがいる。三人は同級生で───ボクが下を向いて隣に立っている。
僕は三人を見た。まだ生きている二人。たった独りで死んでしまった妹。
これから起こる光景を僕はボクと一緒に眺める。この横断歩道で何度となく見てきた。妹がまだ手を振っている。ボクは興味が無さそうに下を向いたまま気づかない。いや、気づいていないふりをして、目を合わせないようにしていた。
ボクは手を振り返すべきだった───『これが最後だと分かっていたら手を振っていたと思う。でも、当時はそんな簡単なことすらできなかった』───どうしてだろう。
僕は忘れたの?
忘れてしまった。そうだ、僕は忘れているような気がする。何か大切なことを忘れている。これから目の前で起こることは分かっているのに。忘れてはいけない大事な過去を忘れてしまった。
ボクはどうして彼女たちを見ないんだ───見てもしょうがないんだ。
それも僕が忘れていることなの? そうだね。だけど、ボクにもハッキリと思い出せるんだ。それはほら、もうすぐみんなが亡くなるよ。
僕は横断歩道の向こう側に視線をもどした。
彼女が茜の手を掴んで走り出す。信号は赤いまま。二人を追いかけて晴奈さんも飛び出した───ボクの目の前をトラックが通過する。ああ、思い出した。このまま死んじゃうんだ───妹の身体が跳ね上げられた。彼女は僕のほうに飛んできた。晴奈さんはトラックの下にいるらしい。
妹の身体が落ちてくる。
べちゃ、と音を立てて首が曲がった───ボクの目はあれが妹だと信じない───僕は妹の死体に近づく。場所はちょうど横断歩道の真ん中あたり。何度も見た光景。もう何も感じなくなってしまった血溜りに足跡をつける。妹の目玉とじっとにらめっこ。ここにあってここにないモノ。僕は妹の頭を拾い上げて、なんとなく、持って帰ろうと思った。
その横をボクが通りすぎていく。見てみぬふりを貫いて。僕がずっと昔に住んでいた家の帰り道。
下を向いたまま、果てたような表情で歩いて行った。もうボクの声は聞こえない。左手首にしていた手錠が鈴のような音をたてて、僕は現実に引き戻される。
モノクロの世界から帰ってくると、クラクションの声が聞こえた。信号は青から赤に変わったところ。
そして両手に妹の頭───黒いノートのようなモノを抱えて帰った。