8.海辺の御屋敷
ヘンリエッタの目の前で、二人の魚の民はかなり大騒ぎをした後に、ハイザメが母親に散々にひっぱたかれて騒ぎは収まった。
それだけで、彼の母親がかなり苛烈な性格である事はうかがえたので、ヘンリエッタはそれを何も出来ずに見守っているほかなかったのだ。
間に割って入るという事も、ヘンリエッタの足では到底追いつかない速度で追い回されているハイザメとその母親では叶わない。
ハイザメは頬を腫らしながらも、そんな事も慣れっこという雰囲気でヘンリエッタの元まで戻ると、自分の母親を彼女に紹介した。
「おちびちゃん、こっちがおいらの母ちゃん。通り名はツカイだ」
「初めまして、お嬢さん。ちょっといきなり驚いてしまう物を見せて悪かったね。まったく。うちのハイザメの馬鹿さ加減ときたら、あたしの育てた息子の中では随一だよ。帰ってくるなっていったのに帰ってきたと思ったら、あなたみたいなお嬢さんを連れてきている物だから」
「いえ……私が偶然、ハイザメ がしばらく生活しようと思っていらした島に、一人でいたのが事の始まりですので」
「お嬢さんみたいな痩せ細った女の子を、置き去り!?」
ツカイはそういって目を剥いた。信じられないという感情が眉毛の無い顔に目一杯に現れている。
ただこれを聞いただけならば、普通に誰でも同じ反応を返すのだろう。ヘンリエッタは客観的に見ても、自分でもそうやって驚いたに違いないと思った。
「……かなりの訳ありお嬢さんみたいだね、そりゃハイザメがあたしの所まで連れてくるわけだ。この馬鹿一人でどうにか出来る問題でも無い」
「そうなのでしょうか」
「そうだろう? あんたみたいな子を置き去りなんて、そんな事をした陸の人間の頭が正気とは思えないよ。死ねって言っているような物じゃないか」
「……」
事実それだった。ヘンリエッタは遠回しに死ぬ事が、決定していたのだ。うつむいて言葉の出なくなったヘンリエッタを見て、相当な事情があるのだろうと思ったのだろう。
ツカイは自分の息子の方を見てから、こう言った。
「あたしの屋敷に連れて行くよ。ハイザメ、あんたはさっさと夕飯の支度をしな。ただで飯が食えると思ってんじゃ無いよ」
「わあってるよ。おいらは頭悪いから、おちびちゃんに優しくする方法、あんまりしらねえから母ちゃん頼りに来たんだし」
「自分の頭の中身がわかっているのは正しいよ。頭の中身がわからない馬鹿の方が、手がつけられなくて矯正も出来やしないし導く事も出来やしない」
……屋敷とは。ヘンリエッタはこの島に、自分の想像するような屋敷があるとは思えなかった。
しかし、屋敷というのだからそれなりに面積の大きい建造物があるはずで。
ツカイはもしかしたら、やり手の商売人といった女性で、財を築いていて、何か手伝いの人をほしがるほど忙しいのかも知れなかった。
だが、息子でも働かなければ食事をさせないという、かなり厳しい家庭なのかもしれない。
……働いても満足に食事ももらえない生活だったヘンリエッタからすると、ただ魚の民のやり方であるだけで、厳しいと言えない事かもしれないとも思ったのだった。
ツカイはヘンリエッタを安心させるようににっこりと笑った。
「ついておいで、あたしの屋敷に行くには、また船に乗るんだから」
「じゃ、おちびちゃんは母ちゃんと。おいらはあっちな」
ツカイの言葉を聞いて、ハイザメがツカイの行く方向とは別の方に歩き出す。
「ハイザメは別の方向に行ってしまいましたが」
「あれは今日の夕飯のための材料を、隣の島の夕市で仕入れてくるんだよ。あいつはそう言ったのは目利きなのさ」
母親に任せれば、自分よりもきちんとヘンリエッタを世話できると考えたのだろう。
それでも、少し不安がないと言えば嘘になる、と思いながらも、ヘンリエッタはツカイが持って来ていたらしい、筏よりも十分に船と思える、しかし草をまとめた船に乗り、また海に出たのだった。
「あそこはこの島の船着き場で、そこに一度船は止まらなくちゃいけない。大体出迎えの人間がいたりするからそういった相手と合流して、島にある目的地に向かうのさ」
何故一度、入り江に入った後に、また海に戻るのだろうと思っていたヘンリエッタに、ツカイはそう説明した。それが魚の民のやり方なのだろう。
ツカイは浜辺に沿うように浅い海に船を滑らせ、しばらく進むと、ヘンリエッタの想像も邸無かった建物が現れたのだ。
「海の上に、いくつもの建物が浮かんでいます……」
「そう。魚の民は毎日水に入るし、寝起きに目を覚ますためにも海に入るから、海の上に建物を建てるのが普通なのさ。まあ、浜辺に建物を建てるのも多いけどね。あたしは仕事場でもあるから、大きな建物が欲しくてね。海の上に思い切り広げたわけ」
「確かにお屋敷ですね……」
海の上に、浜辺に橋を架けた大きな建造物が現れて、ヘンリエッタはそれくらいしか言えなかった。
その大きな建造物は、入り口があるのだろう建物以外は橋が作られておらず、その代わりいくつかの小さめな建造物との間には、海に浮く通路が作られていた。
ヘンリエッタの知る、石造りの建物とはまるで違うそれらは、魚の民の海に生きる生活に適応した物なのだろう事だけは、さすがに伝わってきていた。
「さて、ついたよ」
ツカイはそう言って、大きな建造物の一角にあった、船がいくつも置かれている区画に来ると、簡単に船をつないで、船着き場の足場に、ヘンリエッタを導いたのだった。




