5.名前は呼ばない
「あの、えっと、あの……あなたの名前は何というのでしょうか。私としたら、あなたに名前を教えていないし、あなたから名前も聞いておりません」
「ん? あー。陸の文化か。魚の民は結婚する相手にしか、自分から名前を告げないんだ」
「えっ……」
想定していなかった返しに、ヘンリエッタは目を丸くした。ではこの男をこれからどう呼べばいいのだろうか。
困惑したヘンリエッタに、男が言う。
「大体の魚の民は、通り名ってのを使うんだ。で、通り名ってのはこの、頭の入れ墨を見ればわかるって事になってる」
「頭部の入れ墨が、そんなものになっているなんて思いもしませんでした」
「そっかそっか。まあ陸の人間は名前を言い合うんだろ? 文化が大違いだとちょっと困っちまうよな。だから通り名だけはおちびちゃんに言っておきゃ、問題ねえだろ」
「あなたを呼ぶ時に困ってしまうので」
ヘンリエッタが素直に言うと、それを聞いて男は顔中がくちゃくちゃになるほどの笑顔になった。
表情のわかりやすい男で、ただただ向けられる感情が不快にならない不思議な男でもあった。
「おちびちゃん、生きる方向に頭が回り出してるぜ! いい事だ! だってな、相手の名前を呼びたいなんて、これから死ぬ人間は考えもしねえんだよ!」
「!」
男がそう言った事で、ヘンリエッタは確かに自分が今、死を望むのでは無くて、この先多少は生きていたいと思っているのかも知れないと、目を見開いた。
男が指摘するあちこちの部分が、ヘンリエッタの気づきもしない所で、彼女が生きていたいと男に言っているらしかった。
「おいらはハイザメ。目が灰色で、口がでっかくて、牙みたいな歯がずらっと並んでるだろ?」
男は笑ってから、口をかぱっと開き、事実見事に生えそろった歯が、牙を思わせるほど堅牢である事を示してきた。
「……それが、あなたの頭の入れ墨を見ればわかるというのですか?」
「おう。頭のてっぺんのあたりにあるのが属している部族で、頭の脇にあるのが成人してるかどうかで、頭の後ろにあるあたりに、おいらの目立つ特徴がどんなかがあって」
男ハイザメはぐるりと頭を回し、水かきの大きな手で一つ一つを示していく。
言われても、図形がそもそもわからないヘンリエッタにはわからなかったが、それが魚の民の一般的な見方なのだという事だけは伝わったのだった。
「で、おちびちゃんは入れ墨が一個も無いわけだからな、その髪の毛の色で呼ばれるか、目の色で呼ばれるかのどっちかだな」
「そうなのですか? ではあなたはどのように私を呼ぶのでしょう」
「えー? おちびちゃん一択だろ。おちびちゃんって感じだしよ。俺の胸のあたりまでも背丈がねえし、目方もぜったい繁殖期前の女の子よりねえし」
「繁殖期……」
なかなか衝撃的な言葉を言ってくる男だが、あれ、とハイザメは目を瞬かせた。
「なんだ、陸の人間には繁殖期ってのねえの? 魚の民にはあるんだぜ?」
「……陸の人間は多分、精通と初潮が来たら、ずっと繁殖期という物だと思います」
「はあ!? やっぱすげえな、陸の人間。考えた事もなかったけどよ、道理でいつの季節でも、腹が膨れた妊婦さんを見るわけだ」
「繁殖期というのは、魚の民では大事な意味合いを持つのですか?」
「おう。魚の民は母系社会ってのもでっかくて、父ちゃんが誰だか大して気にしねえんだよ。一対一でつがう奴もいるし、繁殖期に子供が欲しい奴が、毎回相手が違うなんて事もありふれてるし。あ、でも自分の子供は父ちゃんも母ちゃんも大事にするんだぜ。それだけは絶対。実際おいらの父ちゃんとおいらの弟の父ちゃん違うし」
「……陸では想像もしない社会ですね……」
母親に勝てないというのは、その母系社会で母親の力がどこの家も強いと言う事を意味しているのかも知れなかった。これだけ屈強な男が、母親に口で負けておとなしく家から追い出されているのだから。
「陸は大体の国が一対一で、くそ偉い奴だけ一夫多妻って奴だって聞いてるけど本当か?」
「……ええ」
「いい女には自分の子供を産んで欲しいって思うもんだから、女の方が選ぶ権利いっぱいあっていいんだけどなあ。魚の民は女が嫌って言ったら勝てねえよ」
「嫌を、撤回したりはしないのですか?」
「それはあの手この手で女に振り向いてもらう。めっちゃ努力する。やっぱ与えられる女より、自分がこの人だって思った女の方が素敵だろ」
「……陸では王様に、貴族が娘を紹介するわ」
「えー。それって王様が全員を愛せないじゃねえか。しぶしぶ嫁にするとか、お互いに大事に出来ねえし尊重も出来ねえから、お互い不幸になりがちじゃね?」
痛いところを突かれたような気がした。実際に自分の母親が、病に倒れてもないがしろにされて、この世を去って行ったのだから。
そんなヘンリエッタがうつむくと、いけない部分に触れたのだとわかったらしい。
ハイザメが頭をかいてから言った。
「なんか悪かったよ。おちびちゃんの思い出したくない事に触れちまったみたいでよ」
「……いいのです」
「いーや、おいらがよくねえよ。……さて、今日は食ったし寝るか。おちびちゃんちょっと待ってろよ、確かアザラシの皮で作った寝袋が、しけてないはずで……」
「あなたの分ではないの?」
「あ? 枕代わりに一応持ってきたやつだしよ。おちびちゃん、このあたりの気温なめちゃいけねえぜ。夜は一気に冷えるんだ。おいらは魚の民でそう言うのにめっちゃ強いけど、おちびちゃんは一晩で風邪引いて寝込んじまうな」
海に生きる民は、そういった物にもかなり強い種であるのだ、とヘンリエッタは判断し、ハイザメが持ってきた、防水性の高そうな寝袋に、言われるがままに体を入れて、目を閉じた。ハイザメに何をされてもかまわなかった。この男にはお腹が満たされるほどの食事を与えてもらい、優しい言葉をたくさんかけてもらったのだから。
残酷な事はきっとしない、とそんな気がして、それを信じたかったヘンリエッタは、目を閉じたのだった。




