4.味すら
ヘンリエッタの場合 4
魚、魚、魚。後海藻、魚……
ヘンリエッタはここまで食事で、魚だらけだった経験が無かった。そもそも王宮の姫の口にする魚は、大型魚の切り身であり、ナイフとフォークで切り分けられるように、骨も全て骨抜きで抜く処理のされた物だった。
男が雑かつ適当な調理で、廃屋の外に火をおこして用意したのは、そんな魚しか無いと言いたくなる食事内容だった。
指ほどの大きさの魚を焼いた物から、中型の魚を三枚に下ろして、身を叩いて何かと味をつけた物から、どこから用意したのか椀に入れられた魚の骨の浮かぶ汁物やら、海藻をゆでて刻んだ物から。
とにかく魚だ。
しかし、それをヘンリエッタが拒否する選択肢はなく、ただ食べ方がわからなくて困惑してしまった。ナイフもフォークも無いのに、どうやって食べるのだろう。
そんなヘンリエッタが途方に暮れて男を見ると、男はそれらをひょいひょいと指でつまんで口の中に入れる。
……魚の民は作法が陸上の人間と違うという。彼等の食事は指を使用した食べ方なのかもしれない。
下品だと思う前に、そういった食文化の人達の可能性の方が大きい、と思ったヘンリエッタは、先ほど男が教えてくれた、湧き水のあたりで手を洗っていたので、おずおずと男の真似をした。
上手くつまめないけれども、少しずつ口にする魚料理は、空腹の極限にいるようなヘンリエッタには、それを食べる手を止めると言う選択肢が無かった。
生の魚を食べるという習慣も無かったので、かなり勇気は必要だったが、陸上の人間は豚を生で食べる料理も、半生の牛を食べる料理もある。何かを火を完全に通さないで食べる文化はあるわけだ。
そうだと思い込んで、ヘンリエッタはそれらを口にして、とにかく空腹を満たす事だけに集中して、それらを口に運んでいた。
男は、それをうんうんと頷いてみている。
椀の中の汁物は、身をあらかた削った骨だけが浮かんでいるので、汁だけを飲む料理だったらしい。
骨を口にしようとしたら、男に
「骨は食わない。その骨、人間には歯が立たねえから」
と忠告されたのだから。
「私は、こんな料理を食べられた事は一度もないのです」
「だろうなあ、おちびちゃんの仕草が陸上の貴族のそれだ」
「そんなに、魚の民と私達は文化が違うというのでしょうか?」
「違うに決まってらあ。だって考えてみろよ、生活圏が大違いだろ? 陸の奴らは土の上で生きてる、おいら達は海の上で生きている。どうだ? その時点で手に入る物が大違いだろ」
「そうだわ」
この男は頭が悪いなどと言っているが、実はそこまででもないのかもしれない。ただ、やたらに騙されやすいお人好しで、うっとうしい側面があるかのように思われた。
「で? うまいか?」
にぱっと男が笑う。魚の民特有の、頭髪の無い、頭に入れ墨を彫った見た目で、眉毛も無い顔で、それでも明るく明るく笑いかけてくる。
地上の人間に見慣れている少女からすれば、表情のわからない怖い相手のように思えるかも知れないが、ヘンリエッタにはその顔があまりにも開けっぴろげなお人好しなので、もう怖いと言う感情はわいてこなかった。
「おいしいというのは、わからないのです」
「なんだよお。夢中で食ってるからうまく出来たんだとばっかり」
「私がいけないのです。……この何年もの間、私にとっての食事というのは、食べられない部分で無ければ、何でも口にいれなければいけない物だったのです」
事実だった。ヴィオレットの残り物の多くは骨や筋や、可食部分では無く、しかしそれらしか与えられないヘンリエッタは、それらをしゃぶって、食べられる場所を歯でそぎ落として食べると言う物だったのだ。
そのため、可食部分がたくさんあって、誰もとがめないでそれらを口に出来るという事はとにかく夢のようであった。
だが残念な事実として、味の方は長い間食べられる場所ならなんでもおいしい、と言う感覚で生きる羽目になっていたヘンリエッタに、上手く判断の出来るものではなかった。
おいしいかもわからない、というのは相手を不愉快にさせるかも知れない。
そんな事はわかっていたけれども、ただただ、相手に不誠実な事を言いたくないと言う思いで、ヘンリエッタは素直に話していた。
男は思いきり顔をしかめた。かなり怖い顔になっているが、口から出てきたのはヘンリエッタをとがめる物では無かった。
「おいおい、もっとちゃんとした旨いって言える飯を、食わせたくなっちまったぜ。よし、おちびちゃんは絶対に、おいらの母ちゃんのところに連れて行くからな、泣いても喚いても連れて行くからな。それでおちびちゃんが、まともに旨いって事がわかるようになるまで毎日、飯を作るからな!」
「あなたはどうしてそんなに親切なのですか?」
「親切じゃねえよ。おいらは街の料理人やってんだ。料理人の前でおちびちゃんの境遇のかけらを聞かされちまったら、料理人魂に火がつくだろ」
わからない感覚だったが、相手は怒っている訳では無くて、不愉快でも無い様子なので安心できたヘンリエッタだった。




