3. 絶望の淵で出会ったもの
ヘンリエッタの場合 3
何も出来ない身の上なのだと、ヘンリエッタは自分を客観的に見る事が出来た。
王宮で使用人と言う物として生活していた時期も長ければ、その前はお姫様生活を送っていたのだ。
それで、野営の知識があるというのは全くもって非現実的な能力であり、そういった何も出来ない少女を、一人ほかに人間もいない場所に連れて行く、という事は遠回しに死ねと言っているに等しい所業だ。
しかしそれは、貴族や王族が罰せられる際に、死刑より一段低い刑とされている島流しなのだ。
つまり、飢えと渇きに苦しんで死ね、と言う意味だった。
雨風をしのげるかも怪しい廃屋の中で、ヘンリエッタは一人座り込んで、ただぼんやりと時が流れていくのを見送っていた。この島に連れてこられる前に与えられた食事は、本当に少なくて質素どころか残飯で、量もましだったわけもない。
誰かの歯形の残る肉のかけらや、食べ残しと思われる野菜のくずを、それでも必死に食べていたヘンリエッタを、あざ笑う看守達は、きっと彼女が惨めであればあるほど、愉快だったに違いない。
わかっていても、空腹と喉の渇きには、耐えられなかったのだ。ずっとそういったものに不自由する生活だったのだから。
「……生き残ってみせると思ったけれど。私には、生き残るための知恵も知識も何も無い」
手元にあるのは自害用の、切れ味の悪そうな短剣一本で、お姫様の側仕えという立場でいるほか無かった少女に、何が出来るというのだろう。
食べられる植物の知識すら、ヘンリエッタには無いのだ。皿の上にある物が野菜であり、肉であり、穀物だった。その前の姿を見る事は、ヴィオレットがヘンリエッタが傍にいないと、いやな物を押しつけられないからと、王宮の炊事場に行く事を許さなかったし、畑仕事など言語道断、庭園で庭師と話す事も、姫の側仕えとして下品、と、何から何まで許されなかった生活だった。
結局ヘンリエッタは、ヴィオレットの都合のいい道具であり、やっかいごとを押しつけていい相手だったのだ。
「……お母様、私はどうしてお母様のかかった病にかかり、後を追う事が出来なかったのでしょう」
ヘンリエッタは小さくそういった。優しいわけのない父王。自分と娘が虐げられる原因であった、第三妃の一人娘に対して憎しみを持っているマリーゴールド。そんな母親の背中を見ているからこそ、無碍に扱い虐げていいと判断していたヴィオレット。
彼等から受ける事は、母のかかった病に、自分がかかる事の出来なかった結果なのだと、ヘンリエッタは暗く重たい思考回路で考えていた。
粗雑な船に乗せられ続けて疲れていたせいかもしれない。
空腹と喉の渇きで、精神も体も痛めつけられているからかもしれない。
そんな事は容易にわかるのに、それらを癒やす事は何も出来ない無能な自分。
ヘンリエッタは目を閉じて、このまま動く事をやめて、朽ちていければいいのに、と心の底で思ったのだ。
その時だった。
「はあ? なんでここに人間の女の子が座り込んでんだぁ?」
廃屋の、かろうじて壁とつながっていた扉がめきめきと不穏な音を立てて開けられたと思うと、逆光の中、明らかに女性では無い姿の誰かが立っていた。
「……魚の、民」
ヘンリエッタはぼんやりとした声で、少しばかりの驚きの乗った声でそういった。
彼女がそう言ったのには理由がありその誰かは二本足だというのに、尾びれも備えていて、間違いなく陸上だけで生活する種族では無かったのだ。
しかし、ヘンリエッタの興味の対象になるわけも無く、彼女は座り込んだまま、膝に顔を埋めた。放っておいて欲しかった。
考えれば考えるほど、生き延びようという思いが消えていって、消滅だけが彼女の願望に近くなっていたのだから。
だと言うのに、その魚の民はそんな少女の思いなど読み取りもしないと言う態度で、ばたばたと水音の乗った足音を響かせて近付いてきたのだ。
「おちびちゃん、ずいぶんつらそうな面だぜ。どうした。おいらに言ってみろよ。腹減ってんのか? 骨と皮で、死にそうな顔色で、目が濁ってて」
「放っておいてください」
「おいおいそんな事言われても、困っちまうんだよ。ここおいらのねぐらの一つなんだからよ」
「ここは、王国の所有する島の一つです」
「そんなの知らねえよ、だって誰も暮らしてない島だぜ? 見回りにも来ないのに、所有だのなんだのっておかしくねえか? 月に一回でも見回りに来るなら、まだわかるけどよ」
うるさい男だった。がっちりとした体格だというのに、妙に泳ぎの上手そうな気配を感じる彼は、ヘンリエッタの脇に育ちを表すような行儀の悪さでしゃがみ込み、図々しく彼女の顔をのぞき込んできてそう言う。
「ちょっと母ちゃんと大喧嘩して、また家をたたき出されちまったんだよ。うちの母ちゃん切れるとすぐに息子の事追い出して、二週間は家に戻れなくするんだぜ?」
「……お母様が、嫌い?」
「なんで? そりゃ喧嘩してる時は、このくそばばあ! とか思うけどよ。お互い譲れないから喧嘩するわけだろ。冷静になる時間がありゃあ、多少はお互いに頭下げられてどうにかなるし。片方が間違いなく悪かったら、謝るしな」
「……そう」
喧嘩をしたとしても、元に戻れる母親がいる彼を、ヘンリエッタはうらやましいと思った。そんな家族は、ヘンリエッタには一人もいないのだから。
「おちびちゃん、絶対に腹が減って喉が渇いてるって。ここにいるのもなんかの縁だろ、飯を一緒に食うぞ」
「……あなたは何が目的なの」
「えー? 目的が無くちゃ、おちびちゃんに親切にする事も許可されないのか?」
その男は目を瞬かせた。ずいぶんとお人好しで、あまり頭の良くない男なのだろう事は、この会話からも察する事が出来てしまった。
目的も無く、誰かに優しくする相手など、ヘンリエッタの知る貴族社会には存在しない。
この男は、かなりの珍品に違いなかった。
「魚食える? 塩気のある汁物拒否する体質? 食ったら死ぬ食べ物とかある?」
ヘンリエッタの返答などまるで考えていない声で、男はそう矢継ぎ早に言うので、否応なくこの男が、彼女に食事をさせるつもりだと気付かされた。
「食べないって言ったら」
「口こじ開けて突っ込む。おいらのねぐらで死人出すとか、縁起悪すぎだろ。おちびちゃんが行くとこ無いなら、うちの母ちゃんがちょうど手伝い欲しいってぼやいてたから、連れて行く」
「わたしに、決定権は無いの」
「おちびちゃん、おいらの頭の出来考えて、物言ってくれるか? だいたいよお、行く当ても無い、頼る人もいない、ないない尽くしでこの先、どうすんだよ。おいらはあんまり頭しっかりしてねえけど、そういう奴だって有効利用? しろよ。だって生きたいんだろ?」
「どうしてそう思うの」
「そこの崖から飛び降り自殺してねえから」
「……」
あまりにも判断基準がおかしいような発言に、ヘンリエッタは目を丸くした。そんな彼女に、何がおかしいのだと言わんばかりの声で、男が言う。
「死にたいって思ってんなら、ここで座り込まないで、そこの人間なら落ちたら死ぬ崖から、ぽーんと落ちてるだろ。そうじゃないなら生きたいんだ」
言われて、ヘンリエッタは、顔を上げて相手をまじまじと見てしまった。
「わたしは、生きたいの……?」
「おうおう、腹減ってるから何にも建設的? な事考えつかないんだって。飯だ飯。腹減ってる時の魚はうまいぞ!」
そう言って、その男はげたげたと大笑いをし始めたのだった。




