九、どうか私と
リーン、リーンと、虫が鳴く。夜にすっぽり包まれた家の中は、冷房で涼しい。瑠香は、はちわれの猫・源九郎と、黒猫・アルトマイヤーの頭や咽喉を、何とはなしに撫でていた。客間の茣蓙は、猫たちが爪とぎをしたくてならない魅力があるようで、もうだいぶやられている。その都度、叱るのだが反省の色がない。仕方ない。依頼も何もないこんな夜は、感覚は内へ内へと沈み、或いは外へ外へと拡張する。夜という世界の持つ魔法だ。冷えたカルピスを口に含む。今日は昼間に買って来たワッフルもあり、豪勢だ。源九郎たちがワッフルをちらちら見ている。
桂の前の恋人は、雨で増水した川に流されて亡くなった。
彼女から桂にアプローチして、半ば押し切られるように交際は始まったと聴いた。だから、と桂はその話の時、少し言い淀みながら続けた。淡い恋愛感情が、消失するのも早かったのだ、と。その雨の日は、別れ話で口論になり、彼女は自宅マンションから飛び出した。傘を持って桂がその後を追ったが、彼女の姿は見つからなかった。
瑠香は、梅酒の入ったグラスを傾ける桂を眺める。綺麗な顔立ちをしていると思う。実家は呉服屋で、だから、着物も板についている。
桂の視線がつと動き、瑠香を捉えた。和む目元は、何を思うのかと、暗に訊いているようだ。敵わない。瑠香は微苦笑した。
「桂が、うちにいてくれるのは、奇跡だと思って」
「そんなに?」
「うん」
声を立てて桂が笑う。耳に少しも不快でない声だ。手が伸びて、瑠香の髪に触れた。桂は割とスキンシップを求める。
「僕は、瑠香にいつまでも追い出されないように、びくびくしてるんだよ」
「追い出すだなんて」
あり得ない。源九郎が、すり、と瑠香の足に身体を擦りつける。
「わ、たし」
どもった。緊張しているからだ。桂は笑わない。笑ったりしない。
「桂が好き」
桂の目が上弦の月になる。
「僕はきっと、それよりもずっと瑠香が好きだよ」
男性が同じ室内にいるのは不思議だ。自分よりも大きな熱が、存在して、生を放っている。おずおずとその着物の襟元に触れると、その手をやんわり包まれた。温かい。夏の、猛威を振るう太陽の熱とは異なる優しい温もりだ。
この人がいなくなったらどうしよう、と本気で心配する。そうなれば瑠香は立ち行かなくなる。それくらいに掛け替えがない。瑠香は、空いていた左手を、桂の手の上から置いた。被せるように。小さな、ちっぽけな存在である瑠香が、せめても、そのくらいは桂を覆えるように。
その後、アルトマイヤーが茣蓙で爪をとごうとしたので、瑠香たちは慌てて阻止し、二人の間に流れていた、甘く静かな空気はさっぱりと消えてしまった。