七、猫と生姜
覚束ない鳴き声で、鶯がまだ鳴いている。いつまで春を引きずる積もりだろうか。台所で米を研ぎながら、瑠香の耳は外の音を拾っていた。無洗米ではないので、掌で圧するように押さえて、白い水が透明に近くなるまで洗わなくてはならない。研ぎ終わると、炊飯器にセットする。夕食のおかずはもう出来ている。縁側の揺り椅子に座り、虚空を見ていると、にゃあ、という小さな声が聴こえた。薄暮の時。物悲しい空色の下、庭にふっくらしたはちわれの猫がいた。翡翠色の瞳だ。もう一匹、真っ黒な毛並みの小柄な猫もいる。彼らの緑の目が甘えるように瑠香を見るので、瑠香は立ち上がり、牛乳を入れた皿を持って戻って来た。心なし、猫たちの顔が輝き、牛乳を懸命に飲み始める。その必死さが愛おしい。自らも庭に降り、二匹の背中を撫でていた瑠香の背に、声が掛かる。
「飼うの?」
「居つくようなら、それも良いかな」
「お金がかかるよ。主に病院代」
「何とかなるでしょう。――――駄目?」
「良いよ」
桂は微笑混じりの声で答えた。瑠香の顔に笑みが広がる。やった、と言う声は無邪気で稚い。瑠香の持つ顔の一面だ。桂も庭に下りると、瑠香と一緒に猫たちを撫でた。何だ、やっぱり桂も猫が好きなんじゃない、と瑠香は嬉しくなりながら、桂の肩に戯れに頭をつけた。桂が凝固する。慌てて、瑠香も離れた。
「そんなにすぐ、離れなくて良いのに」
「ううん」
何がううん、なのか解らない。猫たちは、皿が空になると、瑠香と桂の様子をじっと眺めている。瑠香は二匹の頭を撫でた。
「うちの子になる?」
猫たちは、意味が解った訳でもないだろうに、にゃあと鳴いた。
こういう、他愛ない時間を桂と一緒に過ごすのが好きだ。そう思っていると、桂が瑠香の頭を撫でてきた。
「なあに?」
「可愛いから」
「何、それ」
瑠香はくすくす笑う。懐かしい匂いがあたりを漂う。うちではない。近所で煮物でも作っているのだろう。橙色の光と影に区分けされた庭で、猫たちの目がうっすら光っている。
「あ、麺つゆ、あったっけ」
「買ってあるよ。冷奴にかけるんだろう」
「うん。味がまろやかで醤油より美味しいのよ」
そこに刻んだ茗荷と紫蘇をかければ上等の一品の出来上がりだ。縁側に腰掛けて暮れゆく空を二人で眺めていると、二匹の猫もぴょい、と縁側に飛び乗って、二人の隣に行儀よく座った。懐っこい。飼い猫なのだろうか。そうでなければ良い、と瑠香は思いながら毛並みの感触に快さを覚える。炊飯器が、ご飯が炊けたことを知らせる。桂が立ち上がった。
「さあ、ご飯にしよう」
「この子たちはどうしよう」
「うーん。鯵の刺身を少しあげてみようか」
海に近いこのあたりでは、新鮮な魚介類が手に入る。意味が解ったのではないだろうが、二匹の猫が甘えた声で鳴く。
「瑠香も猫だったら良かったのに」
「どうして」
「理由がなくても抱き上げたり出来るだろう」
「……生姜、擦り下ろさなくちゃ」
茄子の素焼きにかけるのだ。瑠香は桂の視線から逃げるように、冷蔵庫を開けた。嬉しいのに困る。自分の感情を、瑠香は持て余していた。桂といると、こんなことが多い。