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十、眠れない夜

 蝉の威勢、変わらずに盛んだ。世間では人体に危険なくらいの猛暑が続いているが、不思議と瑠香の住むうちは、ひっそりとして、猛暑と言う程の気温ではない。風が時折、吹き、風鈴を鳴らして去って行く。遅くに起きた瑠香は、朝食と昼食を兼ねたパスタを食べた。桂が作ってくれたペペロンチーネだ。シンプルな調理法ながら、旨味も十分にある。桂はそれに加えて、茹でた法蓮草と半熟卵も用意してくれた。よく出来た同居人である。

 食後、瑠香が食器を洗っていると、脚に源九郎がふっくらした身体を摺り寄せて来た。二匹の猫がうちに来てから、桂との暮らしが、一層、和んだように思い、瑠香は彼らに感謝していた。一緒に住んでいると判るのだが、源九郎は食いしん坊で、太平楽、甘えん坊な性格。黒猫のアルトマイヤーは冷静沈着で賢く、たまに甘えてくるくらいだ。数日前、源九郎が嘔吐を繰り返したから、慌てて病院に連れて行ったら、便秘だと医者に言われた。モリモリ食べ過ぎるくらいに食べる子だから、身体の消化が追いつかないのかもしれない。源九郎を病院に連れて行ってしばらく、瑠香のほうが青い顔をしていた、と桂にからかわれた。

 午後は茣蓙に寝そべって、二匹の仔猫にじゃれつかれるままにしていた。桂が複雑そうな視線を向けるので、何かと尋ねたら、猫が羨ましい、猫になりたいと言う。桂は大人びている男性だが、瑠香に対する好意は隠さず、奔放なところがある。だから瑠香はゆっくり起き上がり、桂の頭や首の下を、猫にするように撫でてやった。桂は気が済んだようで、満足した足取りで台所に向かう。今晩の食糧を確認しているのだろう。

「買い出しの必要ありそう?」

 再び茣蓙に転がった瑠香が声を台所に向けて張り上げる。うーん、という微妙な返事が返った。こういう時は大抵、必要がある時だ。しかし、桂は余り買い出しを好まない。

「一緒に行こう?」

 瑠香がそう誘うと、うん、と明るい声が返る。寂しがりやさん、と瑠香は心の中で思い、それは自分もかと考え直す。

 買い出しに出る途中、薄い透明な翅を持つ蝉が電信柱に留まっていた。翅の在り様は如何にも儚いのに、声の破壊力は大きい。

 チキンカレーを夕食に作って食べると、快い辛さで汗が出る。源九郎たちは大人しく、テーブル下でキャットフードを食べている。調理前の鶏肉のお裾分けを貰い、満足しているのだ。食事と後片付けが終わり、それぞれに入浴すると、やがて今日の客がやって来る。

 初老の女性に差し出されたのは、華奢で綺麗な桃色の、細い硝子瓶だった。

「主人と、新婚の頃に一輪挿しにと買いまして」

 以来、大切に使って来たのですと告げる。

「失礼ですが、ご主人は」

「先日、脳梗塞で倒れまして。……意識が戻る見込みはないそうです」

 続く声は震えていた。

 瑠香は硝子瓶を受け取り、それを食んだ。


 はりん


 感じ取れたのは愛情の記憶。決して裕福ではなかったけれど、子供にも恵まれ、細々と幸せを築いてきた。女性の夫であろう男性の、おおらかで満ち足りた笑顔が浮かぶ。

 瑠香はそれを女性に語った。女性は泣き崩れた。まだ離れたくないのだと号泣する。

 しかし、医者は、このまま植物人間になるか、亡くなるかのどちらかだと言った。恐らく、男性の命は持って後数日。


「愛されていたことを忘れないでください。愛していたことを、忘れないでください」


 瑠香に言えるのはそれしかなかった。女性は弱々しく頷き、瑠香に対価としての白いビー玉をくれた。

 女性を送り出した後、瑠香は寝る支度をする桂の後をついて回った。洗面所で髭を剃る彼を、じっと見つめる。桂は、多少、戸惑うようだったが、瑠香の好きなようにさせてくれた。

「一緒に寝るかい?」

 笑みを含んだ声でそう尋ねられ、瑠香は、やっと自分が尋常ではない行動をしていたと気づく。しかし、そこで悪戯心が湧いた。桂の問い掛けに頷いたのだ。狼狽したのは桂だ。

「え? 瑠香、でもそれは。その」

「桂の布団で寝る」

 死なないで欲しいから。硝子屋の気質が現れている。客の想いに引き摺られる。

「僕、きっと眠れないんだけど」

「じゃあ、私も眠らないから」

 頑迷に言い張る瑠香に、結局、桂が根負けした。瑠香の部屋に比べると狭い桂の部屋に、布団が敷かれている。瑠香がぴょこん、と跳ねるように中に入る。桂は溜息を吐きながら冷房を強めて、恐る恐ると言った様子で瑠香の横に身体を置いて来た。

 結局のところ、桂は眠れなかった。それは瑠香のせいでもあるが、身体の上にのっしと乗った源九郎のせいがより大きかった。比較して、瑠香の寝顔の横には小柄なアルトマイヤーが丸くなっていたので、瑠香は宣言を守ることなく、快適な眠りを享受した。



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― 新着の感想 ―
幸せな料理の後に、悲しい現実。それがガラス越しに見る人の姿なのでしょうね。
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