約束を摘む私は庭を歩く 一
海外で流行していた未知の致死性ウイルスは、すでに日本で大勢の感染者を出していた。解毒剤やワクチンの開発に急ぐ世界各国で、ようやく承認されたワクチンが最適な効果をもたらすことになったのは、ウイルスが発見されてしばらく経ってからだった。日本で1日に確認される感染者0になった頃には、世界全体の人口はすでに大幅に減少していた。
その頃中学生だったウズキは、親の離婚と大好きだったおばあちゃんの他界から非行に走っていた。タバコを吸って、酒を浴びるように飲んだ。仲が良かった友達からは、“グレた”のだと陰で言われるようになり、噂になった非行は学校にバラされ謹慎処分に何度もなった。気づけばウズキの周りには、誰もいなくなっていた。それでもウズキは、勉強は真面目にしていた。そのおかげで学業の成績はよかった。時間が経つにつれ1人でいる時間が増えた。1人の時間は、公園でランニングや好きなバスケットボールを触ったりして体を動かしていた。そのおかげでスポーツの成績も悪くなかった。それでも、周りはウズキから避けたり、わざと逃げたりした。でも、それだけならまだマシだった。
高校に上がっても、ウズキの周りの環境が変わることは無かった。優秀な高校で、ウズキの非行の噂は入学してすぐ広がった。クラスには、ウズキより学業もスポーツも成績が優秀なクラスメイトが、1人がいた。成績1位の彼は、学校のみんなから人気を集めていた。人はいつも彼を囲んだ。でも成績2位のウズキはいつも1人だった。
あるテストの成績発表で、ウズキの成績順位をいつも越えられないクラスメイトが話していた。
「ハルトはすげーよな。いつも1位取ってみんなに人気者でさ。俺なんていつも3位で、嫌われてるあいつにも勝てねぇから、いつも女子に笑われる。いなかったらよかったのにな。」
それから、そのクラスメイトはウズキの噂をさらに広めた。ウズキの指が当たっただけで「ウイルスだ」「バイ菌だ」と汚がられるようになった。ウズキは、落ちた消しゴムを拾おうとしただけだったのに。そして、その日の下校の時だった。学校内で1番人気と言われている後輩の女子に、階段で声をかけられた。
「あの。服に、」
その時、彼女はウズキに触れようとした。
「僕に触るな!!」
ウズキは、制服の肩に触れようとしてきた彼女の手を振り払った。驚いた彼女は、その衝撃で足を滑らせて階段から落ちた。周りは騒然とした。ウズキは、自分が起こした目の前の光景に頭が真っ白になったが、近寄ってすぐ謝ろうとした。しかし、ウズキより先に声をかけた人物がいた。
「サクモ、大丈夫?怪我をしたんだね。医務室まで歩けるかい?肩を貸そう。」
――あっという間だった。そしてウズキ以外、誰もその場からいなくなった。
それから、ウズキは学校に行くことをやめた。親も学校側もそれを許した。学校側は、授業を動画にして配信した。必要な教材やプリントはまとめて放課後取りに行くようにした。ウズキは化学が好きだった。小さい頃から、周りが苦手な科目を得意科目にし、「すごいね」と言われることが好きだった。
ある日、家のインターホンが鳴った。玄関にいたのは、クラスの女子だった。よく見ると彼女は、怪我をさせた後輩の女子の家に謝りに行った時に、隣にいたクラスメイトの女子だった。教材を届けにきてくれたらしい。ウズキに教材を渡すと、すぐに彼女は帰った。そしてまた次の日も、その次の日も、彼女は教材をウズキに届けた。
ある日、ウズキはいつもすぐ帰ろうとする彼女に声をかけた。
「君は、あの時の、石井さんの姉妹だよね?あの時は、サクモさんに怪我をさせてしまってごめん。いつも教材、その、ありがとう。」
彼女は、立ち止まり振り返らずに俯いた。
「――汚くないし。」
「――。」
ウズキはこの時の彼女の言葉に。
「――嫌いとかそんなんじゃないから。」
その時の彼女の言葉に、どれだけ救われただろうか。ウズキは今でもその光景を覚えている。
それから、ウズキは彼女が家に来てくれる度に、部屋に招き、勉強や学校の話をした。彼女はウズキのことを褒めた。彼女はウズキのことをよく知っていた。化学とバスケの時間は何の時間より、真剣な顔で楽しそうにしていると、ウズキに言った。それ以外にもウズキが知らないことを教えてくれた。勉強が得意じゃなかった彼女は、頭がいいウズキのこと羨ましがった。
「政府指定研究所に入らないといけないの。でも、今の私の実力じゃだめなの。ウズキに化学を教えて欲しい。」
彼女のお願いに、その時にはすでにウズキは断る理由はなかった。
「あと、ウズキも私のこと下の名前で呼んでよ。」
女の子とまともに関わったことがなかったウズキは少し照れた。
“俺は、雨月。”
勉強の途中だったノートの隅に書いた。それを見た彼女は髪を耳にかけ、ウズキが書いた隣に文字を並べる。
“私は、緒雪。”
“オユキ?雨、お揃いじゃん。”
彼女の名前は、オユキ。それから、2人の距離は一気に近くなっていった。
オユキは政府指定研究所に合格することができた。ウズキも同じ研究所を受け、合格した。2人は喜んだ。
研究所に所属するとそこには、学年成績1位の男子、ハルトもいた。オユキはロボット科、ウズキは人間科、ハルトはロボット科と人間科の2つに登録した。
オユキは、研究所に所属したものの研究の成績をなかなかあげられず、悩んでいることが多かった。化学が不得意な上、他の教科も人並みくらいであったため、他の優秀な研究員に先を越されてばかりだった。
「買ってきてくれたの?」
ウズキはいつの間にか、オユキが好きになっていた。
「元気なさそうだったし、差し入れにと思ってね。」
ウズキは、人気スイーツ店のシュークリームやフルールサンド、ビーカーのデザインのグラスやマイクロピペットのデザインのボールペン、オユキが好きそうなものを買いに行っては、並んで、ラッピングをしてもらいプレゼントをした。
「ねえ、ウズキが登録している研究室って、ウズキと坂口ハルトくんともう1人いるでしょ?」
ウズキも名前だけ登録されているが、今まで一度も研究室で見かけたことのない人物がいることを不思議に思っていた。
「――中山セイ。僕も気になって彼を調べたんだ。彼は、あのロボットの開発に大きく貢献した博士の息子、“中山”の後継だったんだ。」
「え?あの会社って。」
「ああ。気の毒だったよな。それ以上は彼がどんな人物なのか記されてなかったが、この研究所自体が彼のこの登録状態を許しているわけだし、特別な人物なのだろう。」
2人は、シュークリームを食べ終えた。
ある日、ウズキはいつも通りオユキを昼食に誘おうとロボット科に行った時だった。オユキは、ハルトと2人で楽しそうに話していた。ウズキはそれを見て見ぬふりをして、すぐそこから立ち去った。
それから、ウズキは心がもやもやしてなんだか嫌な気分だった。ウズキはオユキをもっと惹くために、研究内容の難易度をあげ、個人で研究室をもらい、今まで以上に熱心に研究に打ち込んだ。
オユキとの時間は相変わらず楽しかった。しかし、オユキがハルトと話しているところを見るのは嫌だった。
翌年、研究に慣れてきた頃だった。所内で見かけたのは、あの時階段で怪我をさせた女子とハルトが仲睦まじく歩いている様子だった。怪我をさせた彼女の名前は、サクモ。サクモはオユキの妹だ。サクモは研究所に所属すると、女性研究員はもちろん優秀な先輩の成績も超え、すぐに成績は所内トップクラスになった。美人で優秀な成績が目立つサクモの噂は、すぐに所内に広まり、高校の頃と同様、男性陣から人気を集めた。一方で、プライドが高い少数の女性陣からは距離を置かれるような存在になった。サクモの所属してからオユキがハルトと話すことは少なくなった。そんな頃から、オユキは日に日にさらに元気がなくなる様子だった。
「オユキは、きっと。――坂口ハルトが好きなんだ。」
ウズキは、今まで以上に元気がないオユキにかける言葉が見つからなかった。