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かみさまの夢  作者: ゆと
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麗らかな春の匂いにつられて欠伸をする。眼鏡が少しずれたので整えた。もしゃりとした生まれつき癖っ毛の髪を弄りながら黒板を見る。

授業は退屈では無い。知識欲は人よりある方だと思っている。学ぶことは嫌いでは無い。特に社会は好きなのだ。自分の世界が広がるようで。

「おい〜柚子川。起きろ。この問題解いてみろ!」

「……うぇ…?はっぁ!?あ…あー…やっべぇ…」

「寝てたことすらも隠そうとしないな!」

柚子川は日差しに誘惑されて眠りについていた。お昼時というのもあるのだろう。教室からどっと笑いが込み上げる。

社会担当の教師はやれやれといった風に呆れていた。

前の席に丹菜はいない。その前の席に陽花もいない。担任も川島ではなく新しい人だ

中学2年の春が始まったのだ。


「佐々木今日学食行くの?」

昼休み柚子川が溌剌と爽雨へと話しかけた。新しいクラスになって柚子川とは同じクラスになった。一年の頃に比べるとだいぶ身長が伸びている。165くらいだろう。今の陽花と同じくらいだろうか。爽雨自身が成長期がなかなか来ずに160間際なので、悔しくて羨ましくもある。柚子川はきっとそんなに伸びるなら将来高身長の男性になるのだろうと思えた。爽雨は丁度廊下に出ようとして、ドアを開けたところだった。手に持っている食券をひらりと振ってみせる。

「柚子川君。そうだよ。今から行こうと思って。」

「なぁ、良かったら一緒に行こうぜ。俺も久々に学食!」

爽雨はいいよ、と頷き2人は廊下を出て階段の方へ向かった。

食堂の方へ行けば、行列を学生達が作っている。いつもは1人で並んでいて、周りが友達と話しながら歩いているのを見ると、なんとなく恥ずかしいという思いがあった。

「俺はBなんだ。佐々木は?」

「僕もBだよ。あ。」

前の方を見ると少し離れたところに丹菜がいた。丹菜は他の友人と4人で楽しそうに話している。丹菜は暫くすると爽雨のいる方へ気づき、小さく手を振ってみせた。少し頰を赤らめて。それを見ていた他の3人は更に丹菜を茶化して盛り上がりを見せているようだった。1人が丹菜の肩を揺する。爽雨もへらりと緩く笑って手を振り返した。

「お前らそういえば付き合ってんだっけ。」

柚子川が肘を当ててにやりと笑った。

バレンタインから1ヶ月後、爽雨は丹菜と付き合い始めた。


その日はホワイトデーだった。デパートで買ったクッキーの袋詰めを公園で丹菜に渡した。バレンタインの時には人が入ってきてしまい、少し気まずい空気が流れてしまっていた。その時は一回冷静に考えたかったというのもあって、爽雨は返事を後に回してしまっていた。しかし、冷静に考えてみて思ったのだ。丹菜といると楽しい、非があるとこなど何一つ無いだろうと。明るくて、誰にでも優しく、気さくに話す。笑顔が花が綻ぶようにたおやかな素敵な女の子なのだ。寧ろ自分がそんな子に告白されるなんて一生分の運を使い果たしたようなものだろうと。

悩むのに時間はかからなかった。爽雨はその日に告白をし直した。

「崎山さん。1ヶ月前の返事。遅くなってごめんなさい。僕も付き合ってほしい。崎山さんが好きなんだ。」

丹菜の顔がみるみるうちに赤くなっていく。涙で濡れていく姿が限りなく美しかった。


食堂でBランチのハンバーグ定食を食べている柚子川は呟いた。大抵いつも食堂は混んでおり、席が無く、中を歩き回ってようやく見つけたところだった。爽雨と向かい合って柚子川は行儀悪く頬杖をついて食べていた。

「あーあ。リア充羨ましい。くっそー。崎山頑張ってたもんな〜。顔はまぁ、普通かもだけど笑うとちょっと可愛いしさ、似合うと思うよ。俺なんてパスミスったら黒堂に『死ねぇ!』と言われ…1on1じゃ『雑魚』と言われ…。」

後半になると柚子川は短くて柔らかい髪をぐしゃりと抱えて項垂れる。爽雨は苦笑を浮かべた。柚子川は顔は童顔だが、顔の線が細く、目もくっきり二重でどちらかといえばイケメンに分類される筈だ。身長も高いので女子にも人気があるだろう。それなのに彼女が出来ないのは陽花と話していることが多いので女子が怖がっているのでは無いかと言おうとしたがやめた。

「あはは……大変そうだね…。」

爽雨がそう言った後に柚子川は今までふざけていた態度が一変して口も目も笑わずに、真剣な表情になった。睫毛だけがぱさぱさと動く。彼にしては声のトーンを落として、寂しそうに呟いた。

「まぁ、それももう終わりそうではあるけど。」

「…喧嘩でもしちゃった?」

柚子川の顔は俯いてて向かい合ってても見えなかった。爽雨も釣られて声のトーンを下げて、真剣な顔をしてみせる。柚子川はいつもの調子とはうらはらに喋りづらそうにしつつも淡々と話した。

「黒堂さ、…学校やめる…かも。」

爽雨は机を激しく叩きおもむろに立ち上がった。近くに座っていた女子中学生が目を丸くして驚いた顔で爽雨を見た。食器がガタンと激しく揺れる。目の前にいた柚子川でさえ狼狽えていた。分かりやすく爽雨は動揺した。

「ごめっ…ちょっと驚いた…なんで…!?」

「待って!俺も偶々川島が話してるの聞いただけだから詳しいことは知らないんだ!でも、黒堂言わないからぁ!聞きづらくて!最近なんかあいつ落ち込んでるのか元気無いし!」

そこで爽雨は合点がいった。普段爽雨と柚子川は接点が無い。柚子川は派手なグループの一員だった。爽雨は大人しい人間だ。ただ、丹菜の恋愛事や、陽花関係で絡んでくることは偶にだがあった。

そうか。ひぃちゃんの事を柚子川君は話したかったのだ。だから学食行こうって声を掛けたのか。しかも、知っているのが柚子川だけな分、公に話せる事じゃ無いから、教室で話すのは難しい。

「佐々木聞いてない?何か。まぁ、その様子じゃ聞いてないよなー」

「ごめん…そもそも僕最近全然ひぃちゃんとは会わないし話さないし…。」

「この事佐々木には言った方が良いのかなって思ったんだよ。それに、佐々木が一番あいつを動かせる気がしたんだ…。」

「いやいや…僕とひぃちゃんが仲悪いの知っているでしょう?無理だよ…ひぃちゃん僕の事嫌いだし。」

「無理かなぁ…確かに仲悪いもんな…。でも、あいつに本気でガッって面と向かって言えるのって佐々木ぐらいじゃない?佐々木の言葉に良くも悪くも振り回されてる気がしてんだよね。前にからかわれた時もそうだったじゃん。だから。」

「え…何を言って…。僕が言ったところでひぃちゃんの気持ちが変わるわけ。それに柚子川君のがひぃちゃんと仲いいじゃないか。」

「俺だけだよ。仲良いつもりなの。それに俺はお前みたいに本気で言えねぇし、弄るくらいしか出来ねぇし。」

「いや…充分凄いと思うけど…。」

爽雨は妙だなと思った。陽花は地味に真面目だから学校を辞めたいだなんて思わないはずだ。高校や大学に進学するだろうし今までだって毎日無遅刻無欠席を貫いている。もし辞めるとしたら金銭的な問題なのかまたまた隣街のハイレベルな中学で学びたくなっただとかまた何か事情があるのか。子供同士は兎も角親同士は仲が良いのだ。情報はすぐに入ってくるはずだった。しかし、柚子川の情報不足でこの話は一旦幕を閉じた。



バスケ部は1年前とは全く違うものになっていた。バスケ部は完全に陽花のワンマンとなっていた。去年とは全く別のチームとなっている。部員は7人、内3人が3年。つまり、3年が抜けたら試合に出る事すらも不可能だった。しかし、陽花は確かに強かった。完全なるスタメンで陽花がいるお陰で全中に出場する事が出来たし、高校から視察が来るほどだった。3年を出し抜いて陽花をスカウトするものもちらほら現れた。練習試合の申し込みも多数、必然的に土日も必死で部活動に勤しむことになる。弱小校は一気に強豪への蕾を見せた。それでも、蕾で止まっているのは川島の采配のせいだった。お陰ともいうべきであろうか。川島がコーチ兼顧問である以上練習試合の数も、途中で全中を辞退したのも、川島が調整して行う。

それでも目の前で火花を散らして駆ける火の化身を止めるのも限界だった。

学校内でもはや陽花を知らない人間はいない。畏怖を讃えた空間がそこにあり、体育館は普段男子と女子、コートを半面ずつ使うのだが、二つに分けることをやめ、合同で全面コートを使うことになり、女子を優先して使う…暗黙の空気が出来上がってしまったのだ。元々女子は週3のペースだった部活がいまやここまでの勢力を見せている。

「…俺もバスケ部やめよっかな。」

「え、お前も!?俺もやめたいんだよね。一緒にやめない?」

「おー。正直男子の方最近ぬるいっつか楽しくねぇもん。コーチもなんかいなくなったしなー。」

レイアップをしながら男バスの生徒達は気怠げに話していた。

「なぁ、柚子川どうすんの?続ける?」

「俺ー?」

柚子川は助走をつけてボールを片手でゴールの中に入れて、見事なレイアップを決めた。

「俺は続けるぜ〜何だかんだ俺は楽しいし、楽だし。」

それを聞いて男子達は顔を顰めた。

「別にさ…お前の判断に文句があるってわけじゃ無いけどさあ、コーチが自身喪失とか噂あるし、顧問は部活こねぇし。部員も男女大分やめてるしさぁ。廃部になる前にはやいとこ退散した方がよくない?」

「んー、まぁやめるとしたらもーちょい先かな!確かめたい事あるしさ!」

柚子川は陽花がスリーポイントの練習をしている姿を眺める。普通はレイアップ練の時は一つのゴールを数人で回してするのだが、一つは陽花専用のゴールがあり、陽花が自分の練習したいシュートを打つ…誰が決めたでも無く自然とそんな練習風景になっていた。相変わらず化け物じみた筋力に拍手をしたくなる。柚子川はひと段落ついて水分補給している陽花に声を掛ける。

「よーーす。俺もスリーポイント撃てるようになりたいわ〜。どう入れんのこれ。」

「筋トレ1日身体が動かなくなるまで死ぬ程やれや。」

「ハラスメントだ!」

無表情でアクエリアスを口に含む火の化身こと陽花は体育館の端に腰掛けて練習風景を眺める。

去年は丁度このくらいの時期は騒がしかったと物思いに耽る。とは言っても騒がしくさせたのは陽花自身だったのだが。

柚子川が少し俯いて口を尖らせて尋ねる。

「なー…黒堂ってさー…学校辞めるのって周りの悪口とか陰口が辛いとか?でも気にしんくっていいと思うんだよ。真面目だしいつなお前のいいところ皆見てくれるよ。だから…」

「は?辞めねぇし。雑魚の陰口とか興味ねぇわ。」

「えっ。」

帰ってきた返事は柚子川の想像とは裏腹にあっけらかんとしていた。怒鳴ってくるかと思いきやだ。

「うん。…したくないよね!まぁお前が学校辞めて引きこもっても毎日会いに行ってあげるつもりだったけどー!」

「ぶっ飛ばすぞ。」

柚子川はにひひと悪戯が成功した子どもみたいに笑った。丁度視覚内で見えた体育館の出入り口付近では陽花と柚子川の共通の背の高く糸目の友人ことぶっつーとその隣にジャージを着たボブヘアの生徒が話している。我がひば中のマネージャーだ。捲ったジャージから伸びる腕はすらりとしていて無駄な肉がついていない。

「ぶっつー、マネちゃんと付き合ったんだって。」

「興味ねぇわ。」

「友人じゃーん。青春だよな、俺らには無いけど。佐々木と崎山もそういやー付き合ったんだぜ。黒堂の手作りチョッコのおかげじゃん。」

「んなわけねぇだろ!!ぶっ殺すぞ。」

「ねぇ、黒堂本当にいいわけ?」

「何がだ糞睫毛!!」

「佐々木に想い伝えなくてさ。」

一瞬時が止まる錯覚に陥った。

柚子川は空気が読める男だ。読む気がないだけで。地雷を自ら踏みに行っているのは尚のこと分かっていながら柚子川は陽花の反応が見たくてそう導火線に火をつけた。

すると爆発したように陽花が大声を出す。

「私があの愚図を好きだとかそんな吐き気のする勘違いをしてんのかてめぇはよお!!んなわ」

「好きなわけないじゃん。黒堂が?佐々木を?まじ?そうなの?やっば。」

「ちげぇわ!!!」

「いや、普通にさ、なんか、こう、ここをこうしてとか、こう思ってたとか、お前ら話し合った方がいいと思うんだけどって意味の想いの伝え合い。佐々木なんて割とお前気に掛けてるしー。まぁ、仲は悪いけど」

「ぜってぇそんなんねぇ。それこそきめぇわ。」

「じゃあ、佐々木がもし崎山と結婚したら悔しい?」

柚子川はにやにやと口を歪ませて、瞳孔をかっぴらき、顔面破裂寸前の陽花に顔を近づける。話を飛躍させて、誰の目から見ても明らかに楽しんでいた。

「死ね。鬱陶しい。」

「ごめんて、流石にからかいすぎた。俺は焦るし悔しーわ〜崎山の顔タイプなんだよねー狙っちゃおっかなーって。でも佐々木一筋だからぁ。」

「他の糞女にも同じ事言ってんだろが。」

「えー。そんな事ねぇべー。」

陽花の苛立ちが募り、柚子川がケタケタと笑っていると中年のスーツを着た男性がすぐそばまでやってきた。サングラスをくいと上に上げる。

「黒堂陽花様でいらっしゃいますか。すみません。お話をしに来ました。」

そう言うと、陽花に一礼して陽花の様子を伺っている。

「え、どうした?なんかやったん?黒堂」

「チッ。」

すぐ後陽花は立ち上がり、そのスーツの男と一緒にぶっきらぼうな猫のような顔で乱暴に歩き体育館から出て行った。その時は気にしなかったが柚子川は暫くしてから試合が始まりそうだったので陽花を呼ぶために体育館から出て行った。廊下を進んでいき、突き当たって曲がったところで川島の声が聞こえてきた。あいつ、部活に来るのが遅いと思ってたら何をやっているんだと川島の声が聞こえる教室を柚子川は隠れて覗いた。ここは応接室だ。お偉いさんの座るようなソファや机、調度品何から何までこの部屋には無駄の無いように思われる。柚子川は此処へ入った事は無い。しかし、そこには川島以外に栗色の髪の同級生がいたのだ。いつもとは違い珍しく赤いジャージでこの空間には似つかわしく無いような怒号を上げる。

「いい加減帰れ!!部活に戻らせろや!」

「黒堂さん良く考えてください。貴方なら何が最善か分かるでしょう。」

「黒堂頼む。お願いだ。」

よく見れば川島だけでは無く、皺一つないスーツ姿の男の人と女の人が座っていた。先程陽花を呼び出した人もいる。何処かの格式高いような風貌に柚子川は内心戸惑っていた。

しかし、陽花を呼ぶだけでいい話だった。呼んで、部活へ戻る。それだけ。それさえ出来れば良いと。柚子川はこくんと唾を飲んで扉を思いっきりノックした。

「黒堂〜〜〜!!試合そろそろすっけどお前出るだろー??」

そう言いながら扉を開けると川島やそのスーツの人達は驚きを見せた。陽花の表情は見えなかった。肩を揺らしたので多少は驚いたようだったが。

「ゆ、柚子川。どうして君がここに」

「川島先生こそ部活に来て下さいよ。部員またやめますよ〜。」

「それは俺のせいじゃないだろ!原因なんて柚子川なら1年前からやってるし分かるだろう。あの時の澤田の時から」

「えーーーいやいやー、部活に来ずに別件で生徒を呼び出すってどうなんすか。ほら黒堂戻んぜー。一緒にバスケやろ。なっ。」

その途端陽花は机に足を物凄い音で叩きつけて子どもが泣き喚いてしまうような眼光で川島達を睨みつける。その後すぐ柚子川の方へ向き直って怒鳴るのかと思いきや、口調はそのままで静かな声で答えた。

「命令すんじゃねえ。勝手に戻るわ。」

そう言ってスッと部屋から出て体育館の方へ歩いて行った。柚子川はそれの後をつけていく。その様子を呆然と川島や他の大人達は眺めていた。陽花は歩いてる間ずっと俯いて黙っていた。まるで子供が怒られて静かに叱られているような顔をしていた。柚子川は欠伸をして、淡々と喋る。

「なぁ、ひぃちゃん。あんま気にすんなよ。川島先生が言ったこと。そんなお前悪く無いでしょ。だって悪い事してないじゃん。」

「うるっせええええ!!気にしてねーわ!つか当然だろが!最近なんなんだよテメェ!私の周りうろちょろしやがって!」

「いや、だってさ……お前さ、なんか最近暗いし…?」

柚子川は眉を下げて口をもごらせながら答える。

「暗くねーわ!ぶん殴るぞ!」

陽花は柚子川に大口開けて答えた。柚子川はその普段のような陽花の荒々しい様子にほっとして、心底安心したように明るい笑顔を浮かべる。

「いつもの黒堂かぁ、なんだよもう〜。」

2人は体育館の扉を開けて試合の準備を始めた。体育館は去年よりも随分と広く感じた。



2

ゴールデンウィークが終わり、テストが終わり、随分と先輩という響きにも慣れ親しんだ頃合いだ。結果の順位を出され、教室は荒地と化していた。騒ぐもの、落ち込むもの、呆然とするもの、喜ぶもの、奏雨もその例外では無い。

テストは社会の点数は兎にも角にも数学と英語があまり見せられるような点数では無くて悔しいと爽雨は顔をうつむかせて無意識に溜息を吐いた。数学はどちらかというと得意だし、好きなのだが、いかんせん要領が悪いようで、テストになると50分という短い時間の中で全てを解き終えるのは至難の業だった。英語も同等の理由だ。社会のような暗記の教科にはよく助けられる。

教室から出ようと扉を開けたら目の前に丹菜が現れた。丹菜の口からヒュウと息を飲み込む音がした。

「…!崎山さん。どうしたの?」

丹菜の顔から笑顔が溢れる。

「爽雨君。あのね、テストどうなんだろ〜って思ってね!」

「あはは…社会は…まぁ、いつも通り、で、数学や英語も平均点くらいになっちゃった…。時間切れならないように頑張らなくちゃなー。」

「社会いつも90点台前半だもんね!爽雨君。凄いなぁ。流石だ〜。私は英語頑張ったの!82点!平均60くらいだよね?」

「え!凄いねぇ。」

こうやってクラスが違えども、恋人として丹菜に会いに行ったりする口実があるので、幸せだったりする。こうした他愛ない話で丹菜と盛り上がるのは去年からずっと好きだったのだ。ブレザーの裾をキュと握っている姿が愛らしい。

「掲示板も貼り出されているかな。」

「え、あ…そう、だね。でも20位以内だから私入ってないなあ。奏雨くんはそのうち入りそうだけど。」

「うん…入りたいから頑張るけど僕じゃなぁ…。1位のひぃちゃんもあの公開処刑で毎回目の敵にされるから大変だよね。今回もみんなをビビらせてなければいいけど。」

「あ…。」

丹菜の顔が徐々に暗くなるのを他所に奏雨はこれから玩具を買ってもらえる子どものような幸福に満ちた顔をして教室を出て廊下へと向かう。

廊下には人溜まりができていた。ひばり中学校では中間、期末のテストで学年別で上位20位は名前が掲示板に張り出される。点数は昔は貼り出されていたようだが、色々と問題視されて無くなったようだ。競争心を鍛える事を目的としているらしい。言わずもがなほぼ1位は陽花である。完璧主義な彼女は稀に順位が2位に落ちてしまうと悔しそうに歯軋りしており、1位に自分の名前があれば同級生の男子に褒められて、「当然だわ」と返すもののどことなく満足そうな顔をしている。

しかし、いつもはここまで混んでないような気がする。順位を見ようと近づこうと思ったが掲示物までが遠い。人混みで自由に身動きも取れなかった。丹菜も奏雨の後ろをついて掲示物を見ようと背伸びした。

「あれ!今回一位違うやつじゃん。」

誰かが言った言葉に耳を疑った。

ひぃちゃんが1位じゃなかったの?

「つか、極道いなくね??まじ??」

「あいつ、えっらそーで横暴だからバチ当たったんだろ。」

陽花をよく思っていない男子グループが意気揚々と話している。

しばらく動けなかった。驚きと戸惑いが混じって自分がここにいないみたいだ。

「奏雨君!」

ぼうとしていると丹菜の声で我に帰った。

掲示物を改めて見る。一位には陽花ではない人物の名前が書かれていた。

二位にも三位にも陽花の名前が書かれていない。

「黒…黒堂…黒堂…黒…」

18位 黒堂陽花(こくどうひばな)

全身にどくどくと脈立つのが分かる。汗が頰から首筋まで伝った。何かがおかしい。勿論一般的に言えば大変優秀な成績なのだ。でも、ひぃちゃんだから。ひぃちゃんは誰にも負けないのだ。地に堕ちる事なんて。と、考えている最中にいつのまにか身体が動いていたのか、奏雨は陽花を探していた。

教室にも、廊下にも体育館にもいない。じゃあ、じゃあどこに居るんだと30分探し回る。次の授業はもうとっくに始まってしまった。校舎の端っこまで来てしまったのでいい加減戻ろうと渡り廊下を渡り終わった直後。

「なぁ、考え直そうぜ!俺黒堂いなかったら寂しいし!そりゃ、最適なのかもしれないけど、親だって反対してんでしょ!?」

「テメェに関係ねぇだろ!寂しいとか知るか!てかなんで知ってんだテメェはよお!」

「黒堂そもそもいいの!?ここ離れて!ずうっとここで暮らしてたんだろ!俺だって別れんのやだしクラスの連中とも別れるじゃん!お前今つるんでる奴らにはなんて説明すんの!」

今は誰にも使われてない机や椅子も散乱してある空き教室で聞き慣れた声が聞こえた。声変わりしかけの柚子川の声とハスキーな陽花の声だ。揉めているというのは奏雨でも分かった。柚子川は半分涙声になっていた。何をこんなところで揉めているのか、奏雨は次第に鼓動が速くなっていくのを感じた。

「つか授業遅れただろが!離せや!」

「ねぇ、お願いだよ!黒堂!川島の言うことなんか聞かないで!」

「あんな糞教師の言うこと聞くか!こっちのがこんな平凡公立より合理的だろが!」

その状況を脳が上手く整理できなかった。

自分の知らないところで色々なことが起こっている。

「ねぇ、どうゆう事なの。」

ようやく動いた口は冷え切ったなんの温度も宿らない声をしていた。

「さ、佐々木…。いたの…」

「なんでテメェ。何しに来て…こんなとこに。」

「ひぃちゃん何処か行くの?」

柚子川と陽花は呆然と奏雨を見ている。おそらく人のいない場所を選んで話していたのだろう。まさか来るなどとは露ほども思っていなかったようだが。

「…ねぇ!佐々木も可笑しいと思わない!?

黒堂アメリカにスポーツ留学決まったとか川島と話してんの盗み聞きしたんだけどさ、川島の推薦なんだって!しかも学校じゃない!留学期間も決まってなければ育成施設だっていうじゃん!川島、黒堂の事毛嫌いしてるじゃん!今更そんな事ある!?」

「川…島先生…の推薦?」

川島先生は別に悪い先生では無い。明るいし面白い。そして、若い分生徒と話の合う部分もある。どちらかというと生徒からの好感度は高い方だという認識だ。しかし、陽花と川島は幾度となく衝突を繰り返している。好意的な感情があるとは思えないし、柚子川は柚子川で嫌いな理由もあるらしい。好きな生徒と嫌いな生徒の対応の差が激しいという噂もある。その事であまり好ましく思っていない生徒も何割かはいると聞く。

「いい加減にしろや!!!私が何しようとテメェらに関係ねぇだろ!!!」

陽花が声を荒げる。奏雨の眼を捉えるように睨みつけた。正面にいる陽花を久し振りに見たような気がした。目の隈がくっきりと付いていて、いつも健康優良児な彼女なのにテスト後とはいえ違和感を隠せない。この件について相当思い詰めていたようだ。

柚子川はそれに気づいたのだ。クラスは違うとはいえゴールデンウィークも土曜日も今となっては行われている部活なのだから一緒にいる時間は多い。だから突き止めようとした。

「行かないで欲しい。」

奏雨はゆっくりと呼吸するように話す。

「そんな辛そうなひぃちゃんを放っておきたくない。嬉しそうに見えない。だって、それでテストの順位をこんなに落とすなんてひぃちゃんじゃない。勉強にも運動にも妥協しない。常にトップを目指しているのがひぃちゃんじゃないか。ひぃちゃん、バスケは日本でも出来るじゃん。一緒に卒業し」

奏雨が喋っていると唐突に陽花は奏雨の胸ぐらを掴む。奏雨のブレザーがぐしゃりと歪んだ。あまりの衝撃に眼鏡が落ちる。こんなに顔が近い事も久し振りだ。目の隈がより一層目立った。フゥフゥと荒い呼吸が、強張った顔が血走らせた柘榴のような瞳が痛々しい。自分は彼女を怒らせる事しか出来ないのが悲しくてならない。

「気持ち悪りぃんだよ!!テメェの存在が目障りなんだよ。身内ヅラしやがって!テメェみたいな愚図で出来損ないが絡んでくるんじゃねぇ。その面見せんな!私の前から速攻消えろカス!」

奏雨はいつもは引く事しか出来ないが、身を呈して陽花に向かっていく事を選んだ。胸ぐらを掴まれた腕を奏雨は掴む。陽花が全身でびくりと震えたのに気づいた。その腕も発火したように熱かったのも。奏雨に掴まれた腕から逃れようと勢いよく腕を振り回した。しかし、奏雨も全力なので必死に離さないようにしがみつく。

「駄目だ!絶対嫌だ!離れない!」

「ふっっざけんなよ!もう決まったことだわ!明日のフライト変えるわけにいかねぇだろが!」

「なんでだよ!そんなの聞いてないよ!ひぃちゃんが僕の知らないとこへ行くなんて!聞いてない!君が嫌いな人の提案に乗るわけない!家の事情?ねぇ、僕に出来る事あったら手伝うから!」

「その目ぇやめろ!!!」

「佐々木!待って、その辺にして!」

柚子川は静止を振り、陽花と奏雨を引き剥がした。いつのまにか奏雨は壁に陽花を押し付けていていた。陽花の元へ柚子川は駆け寄る。陽花はヒュウヒュウと荒い呼吸を何度も何度も繰り返していた。

「黒堂落ち着いて。な?佐々木も、取り敢えず落ち着けよ。何も変色するまで掴む事ないだろ。」

柚子川にそう言われて陽花の腕を見てみると捲られた白いシャツの下から奏雨の掴んだ部分が青く痣のようになっていた。相当の力で掴んでいたようだった。自分の手のひらも見てみると色褪せていた。意識を取り戻すように腕にどくどくと脈打つ音が聞こえた。奏雨の腕から汗が伝っていく。

「ひぃちゃん…ごめ…」

「別にこんなの痛くねぇわ!憐れむんじゃねぇ!」

ぎちぎちと音が聞こえそうなくらい歯軋りをする。奏雨より陽花の方が腕力も握力も強いのだから恐らく本当なのだろう。それでも跡になってしまうほどの力を出していたはずなのだがと奏雨は後ろめたい気持ちになった。

「おい。何騒いでんだ!授業始まってるぞ!」

教室の扉をガラリと開けてずかずかと入り込んだ巨体が怒鳴りながら教卓を蹴った。川島だ。相変わらずの文字入りのむさ苦しいTシャツを着ていた。太い眉を釣り上げて、顔を歪ませている。

「黒堂、またお前か!!」

「川島先生!黒堂関係ないって!俺らが詰め寄ったの!アメリカ行くなって!」

「は…?何故だ?黒堂が此処よりも気持ち良くバスケ出来る環境を提供したんだろう?何故止めるんだ。黒堂の仲間だろう。仲間の気持ちを尊重しなくてどうするんだ。」

「ひぃちゃんは嫌がってます。」

川島は溜息をついた後、いつものように大口を開けて笑う。陽花の肩に手を置いて話し出した。陽花はそれを黙って睨みつける。

「そーんな事はないぞ?佐々木ぃ、黒堂は部活動に熱心に取り組んでいて、ウチのエースだ。そんな奴に強くなって欲しいと思うのは当然だ。また、強くなりたいと思うのも当然だ。幼馴染なんだろう?頑張れって応援してやるのが筋じゃないのか。」

「ひぃちゃんは、ここにいるべきだ。」

「小、中は義務教育なんでしょ!川島先生も考え直せよ!」

「いい加減にしろ。黒堂は別だ。お前ら退学させるぞ。」

川島は体力を消耗して大人しくなった陽花を引っ張ってこの散乱した跡地のような教室を後にした。太陽の光だけがこの部屋に降り注いで泣きそうになって動けない柚子川と拳を痛くなるほど握りしめた奏雨だけ取り残されていた。

次の日奏雨と柚子川は3日間の自宅謹慎を川島から食らい、陽花は旅立っていった。13時間かけてロサンゼルスへ向かうのだ。太平洋の上を飛行機の中で相変わらずの敵でも見るような目で外を眺めている。無象の雲で覆われてその先は全く見えなかった。


3

「ねぇ、佐々木ぃ…アメリカってどのくらいで行けるんだろう…。」

「今の僕のお小遣いの…えーと…3000円だから…3年くらいかかるんじゃないかな…。」

「なっっが!!そんな待てないって。やっぱさ俺は、やだよ…。早く帰って来て欲しい…黒堂が頑張ってるとこ見るの好きなんだよね。粗野で暴君だけど。」

「……うん。分かる…。ひぃちゃんはさ、口悪いし性格悪いし、嫌な奴だけど…でも誰よりもストイックで常に上に上にいこうとしてて、僕も頑張ろうって思えるんだ。…今となっちゃ本人に言えるわけないけど。」

柚子川は睫毛を伏せてうんうんと頷いた

「ひぃちゃんかぁ…そういや、親は大丈夫なの?」

「ちょっと納得いってなくてゴタゴタしてるみたい。母子家庭だし色々あるだろうけど。」

「へー…大変だなー。そうだよなあ。親元離れるわけだもんな…。あいつ、バスケ選手になりたいのかな…。」

「ひぃちゃんが行きたいって本当に思ったのならいいんだけど…。絶対そうじゃないだろ…。」

謹慎が開けてそれから何日か経っていた。気づけば6月間近だ。

日に日に暑くなる教室ではブレザーを脱ぐ人も少しずつ出てきている。ここ最近は休み時間奏雨と柚子川は2人でいる事が多くなった。机越しに向かい合って同じような生産性の無い内容を永遠と喋っている。

「二度と会えないかもなー…あれが最後なんてやだよ。」


僕らの前から苛烈な花火は消えてしまった。

落ちる火花も焼けるような匂いもすっかりと何処かへ行って、もはや蝉の抜け殻になった気分だ。


陽花がいなくなって陽花のクラスはすっかり変わったらしい。社交的で友人の多い柚子川が仕入れた噂だがクラスに緊張感が無くなり、女子が過ごしやすくなっただとか、男子の五月蝿さが驚く程に加速して、学級崩壊を起こすものも現れるだとか、良い影響悪い影響を与えているらしい。それでも陽花が居なくなってすぐの頃は騒然として、クラスがぎこちなく動いていたという。良くも悪くも圧倒的存在感のある少女が消えたことによって何処に行ったのだという噂は持ちきりだった。みんなの心の中に『なぜ?』という思いがずっと抜けていない。先生方と御両親、奏雨、柚子川以外に何一つ言わなかったらしい。

一番影響を受けているバスケ部は男バスの方は新しい顧問とコーチが配属されて、元の勢力へと回復している。柚子川もその点に至っては良かったと思っており、日々練習に勤しんでいた。女バスは暫く再起不能になっていると聞く。陽花が居なくなって練習試合にキャンセルの連絡で溢れているのだ。勿論川島もその対応に忙しく、陽花の件でも忙しくしているのだろう、練習にまで手を回せていないようだった。当然元々週3しかなかった緩いはずだった部活は行き場を失い、落ちていく一方で、部活動停止令が出ているようだ。

「佐々木は幼馴染遠く行ったらやっぱ焦んのー?」

「え、何だよいきなり。焦るよ。一応ずっといたんだから。」

「でも、お前黒堂の事別に好きじゃないんだろー?散々嫌がらせされてたって聞くし、死ねとか言われたり、殺すって言われたりさ。俺だったら嫌いになるわー。なのに何週か前のあれびっくりしたわ。佐々木でもあんなに怒るんだー?って。」

確かにそうだ。柚子川の言う事は的を得ている。自分でも驚く事だった。あんなに悲しく苦しくなる理由など無い筈だ。むしろ自分に対して圧を加える存在が居なくなった事により、学校生活はより一層過ごしやすくなった気がする。陽花がいる頃は散々だったのだ。罵詈雑言、罵倒を繰り返されて、馬鹿にされて、思い出しただけで吐き気がする事ばかりだ。一年前殴られたのを思い返してゾッとする。

『テメェに何が出来んだよ、何も出来ねぇくせに!』

あの時の陽花の言葉が反芻した。そうだ。今回も結局何も出来ていないのだ。喚くだけ喚いて陽花を傷つけた。

「まぁ…悪い部分だけでは無い…からさ。」

「ふぅん。じゃあもし結婚したら?黒堂が。」

「え?」

奏雨は目を見開いた。

唐突だ。そんな事今の今まで考えた事が無かった。というか、ひぃちゃんが結婚なんてするとも思った事はない。勿論柚子川と仲が良いがそういった目で見た事がないのだ。

「結婚?ひぃちゃんが?」

「うん。」

「ひぃちゃんは誰かのものにならないでしょう。」

奏雨は凪いだ顔で答える。雨上がりの夜のように静かに。

柚子川は額を抑えて大きな溜息を吐く。

「………はーーーーー。なんかお前らが仲悪いの分かってきたわ。」

「え?なんで?どうゆう事」

「そら、黒堂もアメリカまで行きたくなるよなあ。」

「いや、柚子川君、僕おかしな事言った?ひぃちゃんが結婚しなさそうって話でしょう!?」

話の渦中にいる本人はここにはいない。

これから陽花のいない夏が終わり、秋が来て冬が来る。それでも、今は無理でも奏雨と柚子川は次第にこの花火の無い空間にも慣れていけるような心地も少なからずしているのも事実だった。陽花が居なくてもきっと大丈夫だと。何処かで彼女が元気でいてくれればそれで良いんだと。

ブレザーを脱いだ生徒達が廊下を走っていく音が聞こえる。それを注意する先生の声、笑い声、暖かい風が窓をすり抜けて教室に吹き流れてくる。

夏はもう目の前だ。



4

都会の喧騒とでもいうべきか。地元の畑ばかり広がる田舎とは比べものにならないほど車とビル群と人で埋め尽くされ苛々を募らせていた。

ニューヨークの空を見て想いを馳せるなどと言うがこんな真夏の灼熱地獄の中で想いも糞もない。まぁ、ニューヨークではなくロサンゼルスなのだが。今の日本は夜なのだろうか。最初は違和感があったのだが現地に慣れればそんな感覚も無い。タンクトップは汗で湿気っていて気持ち悪かった。

「ヒバナ、アメリカンフードも悪くないだろ?サーロインは特に肉厚が素晴らしい。」

「確かに肉は悪かねぇ。」

鼻のでかく翡翠の目をした筋骨隆々な男性は手を広げて陽花に意気揚々と話し掛ける。お互い流暢な英語を話していた。陽花はポケットに手を突っ込みながら顰めっ面でこのハリウッドのような街並みを歩いていた。

休みの日など無いに等しいが偶々今日の朝から昼にかけてコーチは出掛けており指導は無しになった。今日はこの男性にどうしてもアメリカ食を食べさせたいと言われ、街中に連れ出されたが、夕方からは訓練へと戻らなければならない。こうして、ゆっくりと豪勢な食事をするのはいつぶりだったか。高級食材らしいので添加物は気にしなくて良いと言われた。この男は陽花のバスケ選手養成所の先輩だ。この養成所は陽花以外大学生か大人しかいなかった。そんな中学生の陽花を心配して彼は大層可愛がり色々気に掛けていた。人当たりの良くアクション映画に出てきそうな筋肉と顔立ちをしているので男女共に好感度が高い。2メートル近くあるのではという身長は陽花にとっては羨ましいものだった。日本人の遺伝子的に高望みは出来ないだろうが。

「ヒバナは寂しくないのかい?ジャパンでも友達はいたんだろ?こんなとこへ1人、しかも子ども1人、内容も君の歳ではきつすぎる。ここへ送ったやつは神経が可笑しいね。」

「私の事潰す気なんだろ。あいつのいねぇとこへ行きたかったからいい。」

「もしかしてボーイフレンドかな?」

「死ね!!!」

そうだ。思い出すのはあの糞みたいな頭をした眼鏡野郎。存在だけでも神経を逆撫でする男だ。

スーツ姿の陽花をスカウトして、飛行機からここまで案内をした中年の男が2人を迎えに来た。こんな真夏の炎天下の中長袖の黒スーツを着ているなかなかの過酷な状況に同情さえする。

「ハハッ。そろそろ行かなきゃ鬼コーチに怒られるね。」

翡翠の瞳は街中の建物を吸い込むように輝かせていた。頭の上に人差し指を立てて鬼の真似をする。

そういえばこの男は柚子川に似ているかもしれないと陽花はなんとなく思った。

身長や顔立ちも全く違うが、性格が明るくて誰にも隔てなく話せ、お茶目で空気をあえて読まないところなど特に。

糞睫毛も糞睫毛でそうゆうところは神経を逆撫でさせる。あの糞雨と違って引き際をわきまえている分数倍もマシではあるが。

今迄の言葉も思い返せば苛々が止まらない。

それでも、思ったより腹の立たない言葉もあった。なんだっけ、最近聞いたやつ。

あれか。


『じゃあ、佐々木がもし崎山と結婚したら悔しい?』


丹菜と奏雨が一つ屋根の下で暮らしている。暖かいダイニングで一緒にバラエティを見て机越しに向かい合ってシチューを食べている。安易に想像出来る未来だ。それが正しいとさえ思う。奏雨の未来に自分は一瞬たりとも映らない。それがあるべき未来だと。

自分の感情など奏雨には何も関係無いのだから。


気づけばあの日から2ヶ月が過ぎていた。

殺戮としたあの教室。悪夢が蘇るようだった。懇願する柚子川に狼狽える奏雨に相変わらず怒鳴り散らす自分自身。散乱した部屋の中、餓鬼のように突掴んで言い合いをして、離れたくない、一緒にいたいなどと情緒幼稚園児か。死ね。

川島が去年の1月頃からずっとずっと陽花へ言っていたのだ。最初に言ったのは寒空の下、部活からたった1人の下校。校舎は誰もいないのであろう、静けさを纏っている。校門をちょうど出るところだった。寒さで瞳と同じくらい赤く染まる頰はマフラーに埋もれていた。深々と降り積もる雪は真っ暗闇を照らす光にも見える。息を吐けば忽ち白い煙が浮かび上がる。

「黒堂、お前海外に興味はないか。」

そこにいたのは珍しく上機嫌な川島だ。流石に熱血教師もコートが無いと冬は持たないらしい。降雪量の多い地域なのだから当然と言えば当然だが。

陽花は進行方向にいる川島を怪訝な顔で見る。川島以外にもスーツを着た人間が3人立っていた。スカウトマンだろうか。

「有るわけねぇだろ。」

「そうか。しかし黒堂。バスケは好きだし強くなりたいだろう。ロサンゼルス州のコーチからスカウトが来てな、黒堂を是非とも育てたいそうだ。良かったな。書類に名前を書けば直ぐにでも行けるぞ。」

「は?いかねぇわ。選手になりてぇわけじゃねぇ。」

「でも、俺はお前に行って欲しい。行けば今の部活も団結力を取り戻す。俺がそう統率する。なぁ、問題児のまま終わらす気か。分かるだろ?行けば学校側も留学生輩出としての称号を得られる。お前は優秀だから分かるよな?」

「……。」

思わず唾を飲み込んだ。川島の言っていることは的を得ている。誰も不幸にならない。陽花はレベルの高い教育を受けられる、学校は評価を貰える、今のワンマンバスケ部は勢いを無くすが、元の形態へと戻る事が出来る。

「どっかいなくなれ。」

川島が声を震わせて大声で言う。これまで溜め込んでいたものを吐き出すかのように。顔は笑っていた。瞳は唯々今の天気のように冷ややかだ。

「ふざけんな!義務教育は受けるし、海外に行く必要もねぇ!!さっさと散れや!」

陽花は頰をガチガチに凍らせて、顔を強張らせて叫んだ。川島が何かを企んでいるのは分かっていた。そしてこの時点で何を企んでいるのかも陽花は薄々と気づいていた。話の内容は幾らか疑問点はある。

川島を手で思い切り押し退けて早足で自宅へと歩き出した。寒さで赤くなる顔は怒りで更に暑くなっているのではと思うくらいだ。

確かにこの学校に居座る意味など無い。

それでも。

それでも確かにここにいる己の為の理由だったらあった。自分が焦がれた、ずっとずっとなりたかったものがここにはあったのに。



養成所は中心地から少し離れたところにあり、環境としては最善な道具が取り揃えられている。バスケでは筋肉や持久力が必須になるのでその為のトレーニングルームがあったり、体育館のように広い練習場がいくつも存在している。隣の建物は寮になっていた。

訓練は最悪だった。

吐くまで走り込み続け、身体が追いつかない中で、息が出来なくなりそうだった。忍耐力を高めるだとかでやたらと暑い部屋で何時間も水分も取らず放り込まれたのも辛い。脱水症状が起きようとも使い物にならずに逃げていこうものなら即刻切り捨てられる。それで他の国から来ていた様々な有能な生徒達は帰らされていた。この二ヶ月間残った人数は元いた人数の10分の1にも満たない。

そんな厳しい環境だとしても、日本に帰るのは嫌だった。あいつと会わなければ暴行だろうが、過酷な練習だろうがそのほうがマシだ。帰ってきて川島や他の学校奴らにあぁ、案外大した事無いんだと思われるのも嫌だった。

言われた事は全て文句言わずにやってやる。その態度にコーチは満足していたようだ。当然だ。16時間かけてここまできて、期待通りじゃ無かったから日本へ帰すなど言わせてやるものか。

熱気のこもった体育館は怒号で包まれて、汗だくの中豪快にシュートを決めてやる。

ゴールに入るボールの音と共に耳鳴りが聞こえた気がした。蝉の声だろうか。悲痛な音だ。

『こんなはずじゃなかった。』

聞こえないふりして今日も倒れそうになりながら休憩がないに等しい練習に勤しむ。

歯車は所詮噛み合わないように出来ているのだ。



5

陽花のいない秋が過ぎて、冬がやってきた。

こんな寒空の下でも血気盛んな運動部員達だ。12月序盤だというのに雪の降る校庭を駆け回る。それを傍目で見ていた奏雨は深く息を吸った。やけに心地の良い空気が全身に染み渡る。奏雨はそのまま帰路へ踏み出そうとしていた。丹菜と普段は帰るのだが、彼女は彼女で部活の自主練をしたいので遅れるとの事で、今日は一人だ。最近大会が近いようで帰れない事がとても多い。

「なぁ、佐々木ー!」

曇天の中で犬っころのように手をブンブンと振って呼んだのは柚子川だ。モップを片手に持っている。

「柚子君。部活はもう終わったの?」

「まだもう少しやってる。今1、2年合同試合かな?モップ壊れてたからさっき倉庫に取りに行ったんだよー。なんで外の倉庫に眠ってるのか謎だわ。」

「ははっ。確かに。」

「佐々木帰るとこ?バスケ部見に行ってよ!割とルーキーすげーやつ揃ってんだぜ。レギュラー取られたらどうしよーって思いつつ、安心して引退できるよ。」

「うーん。いいかな。僕は。」

「いいじゃん。お前黒堂いなくなってから全然寄り付かなくなっただろ。バスケ部」

「…え?」

「俺、ちょいちょい佐々木が外から見に来てたこと知ってるよ?観戦見るような感じでさ、黒堂も多分気づいてたんじゃない?すげー顔してたよ。何も言ってなかったけど。部活が去年の3年引退して、どんどん落ち目になってってもギャラリー減ってっても割と見に来てくれてたじゃん。それってやっぱり幼馴染だから?そんだけでそんな頻繁に見に来ねーじゃん普通は。それ崎山嫉妬しないの?」

「ちょっと待ってよ。ひぃちゃんが何でそこで出てくるわけ。男バスの方も見に行ってたじゃん。…というか。」

「というか?」

「ほら、普通の男の子ってさ、戦隊モノとか戦闘モノが好きでしょう。僕バスケ自体に興味があるというよりも、昔からその中にヒーローがいるんだ。お父さんがバスケ選手だったの。今は引退しているんだけど、いつも眠そうにしてるのに画面の中のお父さん凄くかっこよくて、とんでもないところからシュート入れたりとか、するんだよ。何回も何回もDVD見てさ、だから、なんとなく入り浸っちゃってるだけ。」

何度も何度も脳裏に染み渡らせた父の姿。皆んなが、幼少期戦隊モノにはまっている間、奏雨はただひたすらに父の昔のビデオを見ていたのだ。日本代表のユニフォームを纏い、汗水垂らして総攻撃を仕掛ける。神の舞のように相手をしなやかに受け流し、豪快にシュートを入れるその姿。家ではソファで寝てる姿ばかり記憶にあるのに、試合になるとこんなに人を魅了する。かっこよかった。今はそんな面影など鍛えられた筋肉くらいだが。

「へー。いいなー!バスケ選手とかかっこいいじゃん!」

「だから大体のバスケのルールは分かるよ。でも、確かにしばらく寄ってなかったな…。やっぱひぃちゃんいなくなったから…なのかな?」

「いやーその過去知らなかったから、からかたけどそれなら確かにそうかもな。ここの全国に匹敵するような戦力なんて黒堂くらいだし。」

「あ…ごめん。そうゆうつもりで言ったわけじゃ。」

「まぁ、俺も頑張るけどね!全中出たいし!」

「ねぇ、柚子川君。やっぱり見に行ってもいい?」

奏雨がそうやって言うと柚子川は目を水面が太陽に照らされるようにキラキラと輝かせた。分かりやすい人だ。

「そうこなくっちゃあ!来いよ!」

2人は体育館へと向かい出した。北風が乾いた音を立てた。


体育館の中はバスケボールの弾む音と、部員の掛け声と、キュッキュッとバッシュを鳴らす音が響いていた。柚子川の言った通りだ。前来た時よりも部活はギャラリーも増えていて、以前のような血気の良さを取り戻していた。スリーonスリーの最中らしい。三年生は引退して2年と1年だけになってしまっているが、よくこんだけ人数と取り戻した、と思う。ザッと20人はいるだろう。

そして、女バスの方も。

女バスは元々、陽花が入る前はあまり強くは無かった。強さよりもチームワークを大事にしたような部活で楽しくやっていたイメージが入学当初は強かった。陽花が入っておかしくなって、部活停止にまで追い込まれ、今は、部員も男バスほどでは無いが増えていたのだ。20人弱くらいだろうか。前みたいに息苦しさを肌で感じ取れるような空間では無い。明るく、掛け声も「ドンマイ」「頑張れ」と励まし合って、助け合って、これぞ青春の見本とでも言うような暖かさだ。人一倍この広い体育館を駆け回る彼女がいないのは寂しい事この上ない。寂しい…と、いうよりも。

「あるものが無いような感じ…」

奏雨はついと言葉が漏れてしまった。

慌ててハッと口を抑える。

「俺さ黒堂いなくて寂しくなると思ったし、それは変わらねぇの。でも、これが正しかったのかなとも最近思っちゃうんだよ。黒堂は確かにレベルが他の奴と違うし、黒堂は佐々木嫌いだったろうし。だから佐々木みたいに黒堂がここにいるべきだって言われると違うと思ったんだ。」

奏雨は柚子川を信じられないといったようにみる。 


なんで?どうして?柚子君までそんな風に言ってしまったらひぃちゃんの居場所が本当に無くなってしまう。


奏雨はそれこそ半年くらい前まではそれでも、その陽花の居ない空間に慣れていけるのだと信じていた。今までだって仲が良いわけでは無い。しかし、どうしても陽花の面影を探してしまう。バスケの授業でも思い出すし、教室でも勉強して教科書開いているとひぃちゃんがこの問題答えてたなあとか難しい問題だけどひぃちゃんなら簡単に解けるだろうなぁとかくだらない事を考えてしまっていた。

柚子川はもう忘れる準備も居ない空間に慣れることも出来たというのに。

柚子川は奏雨の言いたい事を察したみたいでそのまま続ける。

「ははっ、冷たいって思えばいいと思うぜ。でも、あんな楽しそうな女バス見ちゃったらさぁ。そう思っちゃうわ…。黒堂が悪いわけじゃ無いんだよ。でも、黒堂の求めているものでは無いだろうからさ。きっと向こうでのが黒堂にとって楽しくバスケ出来る。だから、俺も諦めるからさぁ…佐々木ももう黒堂を信じるのはやめようぜ。虚しくなるだけだ。」

奏雨は愕然とした。きっと柚子川なら分かると思っていたんだ。分かって欲しかった。

「そんな事出来ないよ!!だって、ひぃちゃんと離れるだなんて、そんなの。」

「じゃあ、崎山と別れなよ。嫌なんだよ。この際だから言うわ。俺、崎山が好きになったんだ。知ってる?崎山、佐々木と一緒にいると浮かない顔してんの。好きだから目に映る。辛そうで嫌だ。お前も辛いのはわかるけど、ずっとお前が黒堂の事考えてるから。お前が崎山を幸せにしないならもう別れてよ。崎山を幸せにしたい。俺が無理でも、お前が崎山を幸せに出来ると思えない。お願いだから崎山を解放してやれ。」

「は…!?」

柚子川は凍てついた瞳で奏雨を見上げた。瞬き一つしない。ワントーン下げた声はいつもより冷徹さを感じて少し怖かった。

驚いた。そんな事を思っていたんだ。

柚子君がこんなに静かに怒ることなんて無いだろう。そうなんだ。崎山さんの事が好きなんだ。

多分これが柚子君がここに呼び出した本題だ。柚子君はそう言えばずっと崎山さんを気に掛けていた気がする。ひぃちゃんを追いかけるか崎山さんを大事にするか。そんなの後者に決まっている筈なのに、上手く言葉にできなかった。生まれてからずっと染み付いたものを消し飛ばすなんて難しい。

「即答出来ないのかよ…。俺が許せないのは黒堂が女だからじゃないよ。佐々木が崎山の事1番に考えてないから!」

丹菜はきっと知っていたんだろう。

奏雨の心が自分に少しも傾いてないことに。だから最近帰る時間をずらしているかもしれないと今更ながらに思ってしまった。

「ごめん…取り乱した。でも、崎山は絶対に幸せにしてよ。可哀想だろ。」

「…こっちこそ、…ごめん。」

氷の様に冷たい大気が校内を纏っていて、何もそれ以上言葉を発する事は出来なかった。

巻き付けたマフラーなんて意味が無い。

寒い。痛い。あぁ。

こんな筈じゃあ無かったのになぁ。


6

冬休みが過ぎた。

テストも終わった。

暖かくなってきた。

もう修了式だった。

この空白の間。更に関係は悪化してしまったのだ。悲しかったし、生きた心地がしなかった。どうすれば良かったのか自分では分からなかったから尚更どうすることも出来ないのだ。結局何も出来ていないのも事実だ。


丹菜とはもう別れてしまった。

冬休みに入る前だ。自分から言うつもりだったのだが、丹菜の方から切り出した。校門で待ち合わせして少し歩いた時のこと。外はカラッとしていて快晴だった。これで最後だというのはなんとなくお互いに分かっていた。そのくらいもうお互いを大事に思えなくなってきていたのだ。旋風が襲ってぴゅうとブレザーを揺らす。マフラーに顔を埋めてはじんわりと瞳を濡らしていた。丹菜が顔を出して唇を震わせる。

「佐々木君。なんか、私ばっかり貴方のこと大好きだったね。今でも変わらない筈なんだけど、もう嫌だ。泣きたくなる。分かってた筈なんだけどな。」

丹菜は涙を瞳いっぱいに溜めてそう言った。それでも、流すまいと懸命に堪えている姿はとても綺麗だと思った。大切にしたかった。可愛かった。好きだった。

「ごめん。ごめん。ありがとう。今迄ありがとう。大好きだった。」

奏雨は涙が止まらなかった。精一杯笑おうとして笑顔が崩れてしまっていた。

沢山好きになった。愛していた。幸せな瞬間はいくつもあった。でも、大事に出来なかったんだ。自分じゃ駄目なんだ。と悔しくなりながらも、是非幸せになってほしい。

今となってはこれで良かったんだって思えるし後悔もしちゃいけないんだ。


柚子川とも疎遠になった。

あの日からお互い気まずくなってしまったのだ。

あまり話さなくなって、奏雨は一人ぼっちになってしまった。

奏雨は崎山から真相を聞いていた。

柚子川は奏雨の事も丹菜の事も好きだった。奏雨といる時間は楽しかったと、あっという間に過ぎてしまうと言っていた。たびたび丹菜の相談事を聞いていたらしい。柚子川の穏やかな性格故もあって感情に流されやすい部分もあって、次第に丹菜のが大事に思ってしまった。奏雨も大切だった筈なのにわからなくなった。大事に出来ると思っていたのに、野外学習の写真や、学校コンクール、遠足の写真を見ては涙を浮かべてしまう。それでももうこのクラスとはお別れだ。

丹菜とは今後も同じクラスにならなければ幸いだが多分なってももう関わる事は無いだろう。

蕾がもう少しで花開く。咲き誇る少し前だ。暖かな春の日差しは1年前の幸せな時間を思い出させようとして残酷に感じた。

「ひぃちゃん。」

奏雨はゆっくりと息を吸う。

賑やかな教室はやけに別世界に見えてしまった。

麗かな春の匂いにつられて欠伸をした。

君のいない場所で僕はまた少し大人になる。


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