私がかけられた最良の言葉
2017年の1月12日、母が昇天した。悲しみに沈む私に、多くの人が声をかけてくれた。私はそのすべてがその人の選んだ最良のことばだと信じている。だがその声かけは、そうであるがゆえに、悲しみに沈む人への、その人の考えうる最良のことばが何なのかという、その人の死生観を評価するうえでの試金石ともなったのである。つまり、私にどんな言葉をかけるのかを聞けば、その人がどれだけ死をよく理解しているのか、転じて生を理解しているのかが分かったということである。私の人間関係は多くが教会と関連しているから教会の人から声をかけられることがあったが、それがために、その人の霊的な高まりがどの程度なのかを知るきっかけにもなったのである。
私がかけられた最良のことばは実に簡潔なものである。それは、
「小島さん、泣いてもいいんですよ」
というものである。女性であるが教会で指導的な位置にある方の言葉だった。事情があって多くを語れないが、世間の無慈悲な差別にさらされやすい人生を送ってこられた方だったと思う。おそらくは痛みを知る人であり、また、老人福祉施設で働いていたというから、そういうことが言えたのだろう。身寄りのない方が物故したときに、施設の職員として葬儀の喪主も務められたという。諸方から信頼されていたに違いない。
上記のことばの良いところは、傷つくものを励まさないということ、人間の弱さを肯定すること、感情を発散させ、ストレスをうちにため込まず、ストレス性疾患や自傷他害等を引き起こさないということである。医学的、精神的、霊的に適切あり、何よりも簡潔であった。さらに驚くことは、彼女がこれ以外にはほとんど私に声をかけなかったということである。最小限に干渉し最大限に慰めたのである。のちになってCDを貸してくれりもしたが、そのほかはそっとしておいてくれた。知恵・慈愛・信仰において優れていた。その時点では遠方に居住していたのみかかわらず、母の洗礼式、葬儀、納骨式には出席してくれた。必ず必要な時には寄り添っていてくれて、的確なことだけを一言いい、それ以外はそっとしておいてくれる。実に難しいことである。この難しいことを実行してくれた人が時に多く傷ついてきた人であったということは、興味深いことである。