まだ死ねない男の諸事情
朝、いつものように配達されてきた牛乳を飲んだ事から身体の異変が始まった。
先ず息切れがして、その次に胸を強く締め付けられる感覚があった。しばらくすれば治るだろう思い座っていたのだが、呼吸は徐々に困難になっていき、胸の痛みは強くなる一方だ。
毒を盛られた……!
俺は直感的にそう感じた。相手は分かっている。親の遺産の事で揉めた弟だ。
次第に身体から力が抜けていき、俺は座ることも出来なくなってイスから床に転げ落ちた。
仰向けになった俺は薄れゆく意識の中で、意識の外に消えかけていく天井を眺めた。ああ、ここでお終いなのか。不思議と怖いという感情はない。
父さん、母さん、もうすぐ会えるね。こんな事なら遺書を、残しておけば……。
俺は薄れゆく意識の中で、ふと本棚に目をやった。一番左の本の背に書かれたタイトルは
「営業マンに必要な行動心理学」
だった。生きてる時の俺は勉強熱心だったなぁ。ははっ、今となっては不要の長物だけど。その次のタイトルは
「お外で健全! すっぽんぽん体操!」
俺の意識は一気に覚醒する。
しかもその本の隣には
「僕の彼女はSM嬢。ケツの穴までヨロレイヒー!」
俺はさっきまで死にかけていたのも忘れて飛び起きた。いや、正確には死にかけたまま飛び起きた。
マズイ! ここで死んだら俺のあだ名が「ケツの穴」もしくは「ロッテンマイヤー」になった上で後世に語り継がれてしまう!
死ねない、あのエロ漫画たちを処分しなければ絶対に死ねない!
俺はガクガク震える足で立ち上がり、本棚にあったエロ漫画を痙攣する手で抱え、ヨタヨタと歩きながらベランダへ出た。
俺が目指していたのはベランダに置かれた洗濯機だ。最後の力を振り絞って蓋を開け、漫画たちを穴にヨロレイヒーして注水スイッチを押し、俺はその場に崩れ落ちた。
洗濯が終わったら本の原型は分からない状態になっているだろう。
事故処理は済んだ。これで心置きなく逝ける。
空を見上げると澄み切っていて、そこを飛行機がキラキラと朝日を反射しながら線を引いていく。
ああ、綺麗だなぁ。
なんで今頃気付いたんだろう。なんで遺産の事なんかで争ってしまったんだろう。世界はこんなに美しかったんだ。
ははっ、最後の最後に気付いて死ぬなんて馬鹿な俺らしいな。
先ほどまで熱かった身体が急激に冷えていく。
脇から滴っていた冷汗も、まるで氷のように冷たくなってきた。
会社のみんなは最後まで気付かなかったなぁ。この俺がSM風俗に通い、女王様に鞭を打たれて、しかもその様子を撮影してもらって喜んでいた変態であることを。
知らないに決まっている。唯一の証拠だったUSBメモリーは厳重に保管して、あれ、そういえば昨日撮影するために持ち出したんだっけ。でも結局SMクラブに行かないことにしたから、そうだそうだ、会社のデスクに置きっぱなしにしてたんだった。
ふぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!
マズイ! マズイですよ奥さん! あのUSBには俺の見苦しい裸と汚ぇケツがたっぷり写っていると言うのに! あんな面白い物がこの世に出回ったら全世界に「Japanese Gay Boy」として世界を駆け巡ってしまうじゃないか!
俺は勢いそのまま立ち上がり、痙攣する手でタクシー会社に電話を掛ける。
「もしもし、港区の○○までお願いします! 急いでください! 早くしないと死んでしまいます!」
これは本当の事である。心臓は痛むし全身は痙攣しているし、鏡に写った俺の顔は腐ったキャベツのような色をしている。
しかし火事場のバカ力というものだろうか。俺の頭にはUSBの中身を破棄することしかなかった。
まるで壊れかけのロボットのような動きでスーツに着替えた俺は壁を伝いながら、這いずるようにマンションから出た。
ここに来て俺の意識は逆にハッキリしてきていたが身体の痙攣は止まらない。周りの通行人からは明らかに変な目で見られているが気にしない。こんなことで動じていては営業マンなんかやってられん。
「お、お客さん大丈夫ですか!?」
しばらくしてやって来たタクシーの運転手はまるでゾンビでも見たかのような目を向けてくる。
「大丈夫だ。早くACKビルまで向かってくれ」
「いやいや! 病院に行きましょう! 会社なんか言ってる場合じゃないでしょ」
あとで考えればこの助言は極めて正しいものだったのだが、俺の中では汚いケツが世界中に拡散される恐怖が死の恐怖を上回っていた。
「おい運転手さんよぉ」
俺はタクシーの運ちゃんに寄りかかりながら話しかけ。
「な、なんですか?」
「男にはやらなきゃならない事がある。そう、命を懸けた大仕事が会社で俺を待ってるんだ!」
ここで言う大仕事というのは汚らわしい声を上げながらケツを叩かれる自分の動画を消去することである。
「ど、どうなっても知りませんからね!」
俺は猛スピードで走るタクシーの中でヒューヒュー息をしていた。
いつ心臓が止まってもおかしくない。しかし目を閉じるたび、俺の脳裏に浮かぶ自分のケツが俺に「まだ死ぬな」と囁いていた。
会社の前に到着したタクシーから、ずり落ちるように外に出た俺の意識は非常に冷静だった。
俺はこのまま自分のデスクがある33階までたどり着きたい。
普通に歩いても恐らく痙攣しすぎていて警備員に止められるだろう。
痙攣していても怪しまれない歩き方。
そうだ、四足歩行しよう。
四つん這いになった俺はさながらゴキブリのような動きで会社に入って行く。
痙攣する動きさえ動力に変えているかのように、俺の身体は俊敏に動いた。屈強な警備員が何人も俺を捕まえようとしたがトップスピードに達していた俺は留まることを知らない。
そして勢いそのまま締まりかけているエレベーターに乗り込んだ。
「ンゴヘェ! ヌゴォ!」
もう息が切れすぎて人の言語じゃない言葉をしゃべっているかのようだった。
それでも乗っていた全員から注目を浴びていた俺は、みんなの警戒を解くために立ち上がり、言った。
「今日、寒いですね」
全員が一斉に俺から目を逸らした。
やがて33階にたどり着いた俺は、フラフラと自分のデスクがあるオフィスまでたどり着いた。
「お、おいどうしたんだ榎本!?」
俺の顔を見るなり課長が血相を変えて飛んできた。
「どうしたって何がですか?」
俺はバイブレーションのように痙攣しながらとぼけて見せた。
「何がってお前、顔色が死体みたいになってるぞ! 痙攣もすごいし! すぐ救急車呼ぶから待ってろ!」
「あ、お構いなゴハァッ!」
ここに来て口から血が出て来た。
「おっと昨日トウガラシを食べ過ぎちゃったのかなぁ」
「いや完全に血だろそれ!」
誤魔化すどころかオフィスがざわつき始めている。このままではマズい。
「じゃあ俺は救急車が来るまで仕事しときますから」
サラッと自分のデスクの方へ立ち去ろうとしたのだが課長に腕を掴まれた。
「いいから動くな! 安静にしてろ!」
「離してください! 俺には消さなきゃいけないデータが!」
「あのUSBの事か?」
俺は心臓が止まるかと思った。いや、今日何度も止まりかけたわけだが。
「……、もしかして課長、あの中身を見たんですか……?」
「心配するな榎本。俺しか見ていない」
課長の言葉を聞いた瞬間、俺は倒れ伏せた。
***
1週間後、俺は病院のベッドで目を覚ました。
医者と見舞いに来た課長から聞いた話では、俺はやはり毒薬を盛られていたらしい。
きわめて致死性の高い毒だったようで、後遺症もなく息を吹き返したのが信じられないと言われた。
俺は病院の天井を見つめ、何故自分が助かったのかを考えてみた。
それはやはり、生きることへの執念だと思う。俺の裸、俺の尻が顔つきで全世界に拡散されると思うとオチオチ死んでもいられなかったのだ。
ありがとうエロ漫画、俺の尻。
おわり
お読みいただきありがとうございました!」