ハルのヒナ (5)
今日は水泳部はお休み。ハルはハンドボール部の活動。なんとなく放課後の時間が空いてしまった。チサトの様子も気になるけど、折角だし、いつもは行かない場所まで足を延ばしてみよう。
ヒナの家から川沿いに歩いて、市境を越える。うん、これだけで実際にはそれなりの距離があるね。その後住宅街を抜けて、細い参道を通ると、目的地の稲荷神社が見えてきた。社務所も何もない、小さな無人の神社。ここには、この辺りを治めている土地神様がいらっしゃる。
神様は、ヒナの持っている銀の鍵がらみの相談事に乗ってくれている。目に見えない力のことは、人間には相談しづらい。っていうか出来ない。ヒナが人の心を読めるなんて、誰も知らない。ハルだって知らない。そんなこと言われたって、みんな困っちゃうだけだろう。
それはそれとして、今日のところはそれ以外の件で神様の意見を聞きたかった。ここの神様は、なんと女の子の姿をしている。年の頃は、ヒナと同じくらい。十五才って言ってたからドンピシャでタメだね。ああ、でもそれは見た目だけであって、実際には数百年はこの辺りを治めているんだとか。ロリババア、とか言ったら祟られそうだな。
元々人間だったので、基本的にその頃の姿を保っているのだそうだ。しかしこの神様は今、もっと別な理由で人間の、女の子の姿に固執している。その理由とは、人間の男の子と恋に落ちたことだ。
当時は高校生ってことだから、男の子、でいいよね。色々あって恋をして、なんとなし崩し的に結婚までしてしまったとか。はぁ、神様の世界っていうのはどうなってるんだろうね。うらやましいような、そうでもないような。ヒナも出来ることなら今すぐにでもハルと結婚したいなぁ。そうすればお互いに色々と安心出来るだろうにね。
そんなわけで、真の恋愛マスターである神様にご意見をいただきに参ってみました。神社の境内には人影が全くない。しーんと静まり返っている。まあ、いつも通りかな。その割に綺麗に掃除されていて、ぴっかぴかなのもいつも通り。綺麗好きな人が面倒見てくれているんだなぁ、と毎回来るたびに感心させられる。
拝殿に近付いて、きょろきょろと辺りを見回した。あれ、ひょっとして留守かな。神様の気配は濃厚なので、銀の鍵ですぐに検知することが出来る。それが見つからないってことは、少なくとも神社の境内にはいないってことになる。
「なんだ、ヒナか」
声がした方を見ると、茶虎の大猫がのっしのっしと歩いてくるところだった。ヒナとは古い付き合いのボス猫、トラジだ。この神社で他の猫たちの取りまとめ役をしている。
「こんにちは、トラジ」
ヒナは猫と話をすることが出来る。これも銀の鍵の力だ。猫たちは精神世界を中心に生きているので、心を覗き見る銀の鍵の存在を快く思っていない。こうしてトラジと今お話し出来ているのは、神様のとりなしによるところが大きい。ヒナが人間以外の世界に足を踏み入れていくことには、神様はあまり良い顔をしなかったけどね。
「神様って今日は留守なの?」
「おまえ、知らんのか」
トラジが呆れた、という声を出した。何を?
「今月は神無月だろうが」
うん、知らない。十月の別名なのは知ってるけど、それで神様がいない理由が判らない。あー、でも字を見るとそういう気がしてくるね。なんでいないの?
トラジが教えてくれた。十月には地方の神様は中央まで出向いて各地で起きた出来事についての報告をおこなうのだそうだ。つまり、今月いっぱいはここの神様も中央、出雲まで出張している。へー、お仕事か。大変なんだね。
「向こうで旦那と落ち合うとか言って、うきうきしながら出掛けていったけどな」
ああ、件の人間の旦那さんですね。ヒナ、一度も会ったことがないんだよなぁ。なんでも宮司になる勉強をするために大学に通っているとか。そんなことしなくても、奥さんの力で眷属として神様の世界に入れるっていうのに、マメな人だねぇ。
じゃあまだしばらく神様は帰ってこないのか。それはガッカリだ。折角ここまで来たのに。
「何の要件だったんだ?急ぎか?」
「いや、全然急がないんだけどね」
ふむ、トラジは恋バナとかどうなんだろうか。ヒナが小さい頃からこんなだし、年は取ってるよな。奥さんや恋人がいる気配は無いし、そもそもそんな相手は出来そうにない気もする。
「なんか失礼なことを考えてるだろう」
うへ、なんで判ったんだろう。猫は猫同士でなら共有意識とかいう力で意思疎通が出来るらしいけど。ヒナは人間だよね。銀の鍵の力だって、猫の方が神経質だから、あまり派手には使わないようにしている。じゃあ普通にヒナの顔色を読んだのか。猫のくせに。
「ちょっと恋の相談をね」
「はぁ?ハルはどうしたんだよ。お前、ハル以外とつがいになる気なんかないだろ」
つがい、ってアンタ。これだから動物は。あのね、オスメスだけじゃないんだよ。男と女なの。気持ちがあるの。ハート。
「お前の望みはどちらかといえばそっちだろうが」
うるさいなぁ。気持ちがあったうえで結ばれるのが最高なんだよ。今は特にハルとは両想いなんだから。愛し合って、その結果としてつがいになるの。オーケー?
「それでなんで恋の相談に来るんだ?」
あー、もう。面倒だな。ヒナはタクのことを一通りトラジに話した。ハルに話せない事情がある。タクはヒナに一目惚れしたらしいけど、その感覚がヒナには良く判らない。タクはヒナに彼氏がいても諦めないと言っている。想い自体は真剣みたいなので、無下に断り続けるのもどうなのかな、と少し悩んでいる。こんなところか。
「横恋慕か。好かれる、というのは良いことだ」
良くないよ。断るコッチが悪者みたいに思えちゃってさ。ヒナはハルのことが好き。タクには悪いけど、タクの想いには応えてあげられそうにない。
それに、お互いのこと、まだ全然よく判ってない。例えばお付き合いしたとして、実はあんまり合わないってなったら、どうするつもりなんだろう。ヒナにはそんなリスク取れないよ。少なくとも、ハルから離れてまでタクを取る理由なんてないよね。タクはその辺りどう考えてるんだか。そこまでして、ヒナに何を求めてるんだ。
「恋は盲目だ。細かいことなんか、どうにか出来るって考えちまう」
細かくないよ。相手のことだよ?しっかり考えてほしいよ。今だってこんなにヒナを悩ませてさぁ。
「まあ、そう言うなら、自分のことをそいつによく理解させるんだな」
なるほどねぇ。ヒナがハルのことを好きで、タクを選ぶ理由なんて無いって、判らせてあげればいいのね。ちょっと酷な気がしないでもないけど、そうでもしないと諦めてくれそうにないか。下手に出てたら付け上がられるだけだ。
「後は、そうだな、ソイツの想いが真剣だって言うのなら、お前も同じくらい真剣に取り合って、真剣に断ってやるんだな」
真剣に、ですか。
「それが礼儀ってもんだ」
一目惚れ。そんなものがあるのかどうか、ヒナには今一つ判らない。でも、タクがヒナを真剣に求めてくるというのであれば、ヒナはそれを真剣に断らないといけない。真っ直ぐな想い。のらりくらりと躱すよりも、正面から打ち返す。確かにその方が、ヒナらしいと言えるかな。
タクの想いをきちんと理解して、真面目にお断りする。ヒナがハルのことを好きで、この想いを超えることはタクには出来ないと、きちんと説明する。うん、そんなところか。
「トラジ、恋愛相談とか乗れるんだね」
「お前俺をバカにしてるだろ?」
いやー、馬鹿にはしてないけど、そういうのとは無縁だと思っていたよ。意外意外。ちょっとかっこいい。少しモフって良い?
トラジは撫でられるのがあまり好きじゃない。手を伸ばしただけで、さっと逃げられてしまった。ケチ。感謝の気持ちなんだから、ちょっとくらい良いじゃん。
「何もかもを手元に残すことは出来ないんだ。本当に大切なものだけを手放すな」
その言葉を残して、トラジはヒナの視界から消えていった。本当に大切なもの、ねぇ。ヒナにとって、それはハルだよ。もうはっきりしている。
罪悪感か。今までこんなこと無かったから、初めての感情だ。ハル以外の人に好かれる。恋心を抱かれる。不思議な気持ち。
これからもこんなことはあるのかな。大切なハルとの想いを遂げるために、ヒナは誰かの想いを切り捨てる。考えたことも無かったよ。残酷なようで、当たり前のことだ。
気が付いたら、夕焼けで辺りが赤く染まっていた。もうそんな時間か。早く帰らないと。
神様ならどんな答えを聞かせてくれたかな。そこは気になるから、来月になったらもう一度神社に来てみようかな。