ハルのヒナ (1)
曙川ヒナ、十四才、中学三年生のバレンタイン。中学生活の最後に、特別な何かをしようって、少し前までは考えてた。小学校の卒業式の日に、告白しようとしてしなかったこともあったし、こういう後悔はもうしたくないって、そういう気持ちがあった。
でも、正直どうしようかなって、まだ悩んでる。校則でぎゅって雑に縛った髪。そのせいでこめかみの辺りが痛いほど引っ張られて、吊り目みたいになっている。鏡で見ても、なんだか可愛くない。こんな子に告白されて、ハルは喜ぶかな。こんな子が幼馴染で、ハルは嬉しいかな。
ヒナの好きな人。朝倉ハル、十四才。ヒナの幼馴染。知り合ってからは十年くらい、それ以上か。恋をしてからは、七年、かな。長いよね。少なくとも、短いとは思わない。
ハルはバスケ部で精力的に活動しているスポーツマン。でも身長が足りなくて、レギュラー争いでは負けてしまった。寝癖みたいなぼさぼさの髪、細くてちょっと垂れた目。日焼けしにくい白い肌。目立たないけどしっかりと筋肉のついた手足。モテるってことは無いけど、ヒナから見ればハルはとても素敵だ。カッコいい。
ヒナは、ハルのことが好き。隠してるつもりは無い。でも、はっきりとはさせてない。ヒナとハルのことを昔から知ってる人に言わせれば、見てるだけで判るんだそうだ。そうなんだ。そんなに判るものなんだ。ヒナは、ハルの気持ちを知りたい。ううん、きっとこうだって、判ってはいるんだ。判ってはいるんだけどね。
はっきりと言葉にしてしまうと、その時点で全部ウソでしたって、突然消えてしまいそうな気がして、怖いんだ。
こんなに好きなハル、今だってヒナに優しくしてくれるハル。ハルが、ヒナのことを好きじゃないなんて、そんなことあり得ないって、頭では判ってるんだ。
あの時、修学旅行の夜、ヒナはハルの心を覗いてしまった。ハルの気持ちを見てしまった。ハルの中で、宝物のように輝いていた、ヒナの笑顔。
ヒナには力がある。人の心を盗み見る力、銀の鍵。神様の世界に通じる扉を開く、神秘の道具。ヒナはいらないって言ったのに、銀の鍵は守護者であるナシュトと共に、ヒナの中に埋め込まれてしまった。左掌を意識するだけで、他人には見えない銀色の光が溢れだす。周りの誰かの思考が、心の声が、漏れ聞こえてくる。
他人の自分勝手な妄想ばかり見せつけられて、世界に絶望していたヒナに、ハルは眩しい理想を示してくれた。性欲と自己満足ではなく、真っ直ぐな愛情と優しさをヒナに向けてくれていた。それがハルの気持ち。ヒナに対する、愛。
だからこんな力、いらないって言ったんだ。ハルを疑って、純粋な想いを見せつけられて、ヒナはとてもみじめだった。ハルのことを信じて好きでい続けていれば、きっとそのまま手に入ったであろう素敵な未来。ヒナは、それをズルして覗き見してしまったんだ。馬鹿なヒナ。
修学旅行の後から、ハルはヒナに優しく接してくれるようになった。多分、ハルの前で、ヒナが壊れたように泣いてしまったからだ。夏休みまではバスケ部の活動があったので、ハルの生活はどうしてもそっちが中心になってしまっていた。中学三年生の二学期は、受験勉強真っ最中。ハルとヒナは同じ高校を受けるので、ハルは一緒に勉強会をしようって声をかけてくれた。
ヒナは勉強が苦手だ。ハルも同じ。学校の環境も、その時はあまり良いとは言えなかった。それでも、同じ高校に行こうって、ハルは励ましてくれた。ヒナも、ハルと同じ学校に行きたいって、頑張った。二人で、一生懸命勉強した。
ヒナは、どうしても取り戻したかったんだ。ハルと同じ学校で、ハルと過ごす時間。ハルのことをちゃんと好きになって、ハルにちゃんと好きになってもらう。もうズルなんてしない。ヒナは、自分の力で未来を、ハルの気持ちを勝ち取ってみせる。
高校受験は無事に終了した。四月からは、ハルとヒナは同じ高校に行く。それがはっきりした時は、心の底からほっとした。そうか、やっと始められるんだなって。ここから取り戻していくんだな、って。
勉強会は、まだ続いている。お互いの家で宿題とか、予習とかをする感じ。受験のためという名目は失っていたけど、なんとなく、なあなあでやっている。それでいい。ハルと一緒にいる時間は大切にしたい。思えばこの数年、実に中途半端で無駄な時間を過ごしてきた。主に銀の鍵。こんなものに振り回されていたのかと思うと悲しくなってくる。
ハルはまだ、ヒナのことを大切に想っていてくれてるかな。あんなにヒナのことを好きでいてくれたハルの気持ちを知ってしまって、ヒナは逆に不安になってしまった。ハルを絶望させてしまうかもしれない。ハルの中にある愛情を失ってしまうかもしれない。
誰にも負けないくらい好きだって言ってたのに、ハルを疑ってしまうような愚かなヒナ。なまじ心の中なんて見てしまうから、こんなことになってしまうんだ。
中学生最後のバレンタインは、ブラウニーを焼いた。ハルはあんまり甘いのを食べないから、ややビターで。その日の勉強会の場所はヒナの家になっていたので、丁度一段落した辺りにおやつで出そうかなと。外は寒い。ハルはこたつに潜ってミカンの皮を剥いている。それ、もう五個目だよね。
「ハル、おやつ持ってきたから」
「お、おお」
ミカンいっぱい食べちゃって、ちゃんとこっちも食べてくれるかな。ブラウニーを見て、ハルが照れたみたいに笑った。
「チョコの匂いがしてたから、こういうのかなって、思ってた」
うん、そうだよ。毎年欠かさずあげてるし、わかってるでしょ。
「バレンタインだからね。後で包んであげるから、カイにも持っていってあげて」
カイはハルの弟。今は小学五年生。バレンタインのチョコは、ハルにだけ渡すと色々と角が立ちそうなので、カイにも渡すようにしている。ハルの家とは家族ぐるみの付き合いだからね。将来のことを考えるなら、マメであるに越したことはない。
「気ィ使わせて悪いな」
その代わり、義理度が増しちゃってる感じだ。ハルにだけ特別って、それはちょっとあからさま過ぎてどうなんだろうって、躊躇していた。
今までは。
「あと、これ」
ピンクの紙で可愛くラッピングしてある。見た目も大事な要素だ。一目で本命だって判ってもらいたい。家族付き合いの、幼馴染の義理だなんて、思ってほしくない。これはヒナの、ずっとずっと想い続けてきた気持ちなんだ。
「これは、ハルに」
ハルの手を取って、握らせる。ヒナの弟のシュウが、おやつの匂いを嗅ぎつけてやって来るに違いない。さっさと渡して、ハルには今すぐ隠すなり食べるなりしてほしい。意地汚い弟だからな。
「気持ち、だから」
何て言って良いか判らなかったので、それだけ言った。賄賂みたいだな、って思って自分で情けなくなった。他にどうとでも言い様はあるだろうに。ヒナ、何やってんだ。
「あ、ありがとう」
ハルには伝わったかな。どきどきする。中身は手作り。最初はハート型にしようかとも思ったんだけど、それはあまりにもあざといので、普通に丸くした。メッセージカードも付けた。「一緒の高校、楽しみだね」って。告白まではしない。そういうのは、面と向かってしっかりと伝えるべきだ。
今なら、言えるかな。ヒナから伝えてしまっても良いかな。今日はバレンタインだし、そういう日だ。中学生活、ハルとは微妙な距離のままで、おかしなことばっかりで、ちっとも進展しなかった。最後に一つ、良い思い出を作って終われるかな。
「ハル、あのね」
消えてしまわないよね、ハル?ハルの気持ちは、今でもヒナの方を向いてくれているよね?
「チョコの匂いがするー!」
どたどたという足音。おう、マイリトルブラザー。やってくれたよブラザー。
小学校一年生のシュウはしゃべる動物だ。食べて暴れて寝る。シンプルで判りやすいけど、その分対処を誤れば始末に負えない。食べ物の匂いを嗅ぎつけてやって来てしまった以上、ここはもう匂いの元を差し出す以外に道は無いだろう。
「バレンタインでチョコケーキ焼いたから、シュウも食べな」
残念。今日はここまでって感じだ。良い雰囲気だったんだけど、ヒナの家でロマンスなんて期待する方がおかしい。今までだってそう。シュウやらお母さんやらが常にいて、二人っきりの時間なんて作れた試しがない。ハルの家だって似たようなものだ。弟のカイがいて、ハルのお母さんがいる。ヒナの家ほどじゃないとはいえ、十分に賑やかだ。
シュウがむしゃむしゃとブラウニーを食べ散らかす。ああ、ぼろぼろこぼして。ハルも楽しそうにしてる。まあいいか。これはこれで、良い思い出だよね。ハルと一緒に過ごすバレンタイン。四月からも同じ学校に行けるっていう、スペシャルなおまけ付き。
さっきハルに渡したチョコは、ああ、ちゃんとしまってくれたね。シュウに見つかると面倒なことになりそうだ。色恋以前に、食わせろってうるさいんだよなぁ。一応昨日試食させといたし、そこまで騒ぐことはないと思うんだけどさ。
「あー、そういえばさ、ヒナ」
ハルはブラウニーを食べ終えて、またミカンを剥き始めてる。良く食べるね。男の子だから?
「何?」
「卒業制作って、どうした?」
その話か。思わずため息が出る。なんだかね。こんなことで大騒ぎするなんて、みんなどうかしているよ。
「もう決めた。もう出した」
みんな何がしたいんだかサッパリだ。卒業制作をボイコットしたり、嫌がらせみたいな作品を提出して、一体何になるんだ。ヒナは確かにこの中学は好きじゃない。ロクな学校じゃないとまで思う。でも、それとこれとは筋違いだ。
少なくとも三年間、ヒナはこの学校にいた。なら、その証を残しておきたいじゃない。そう考えたら、やるべきことはすぐに決まった。悩むことなんて何もない。
「早いな」
「ハルは?」
「いや、決まったんだけどさ、ちょっと難しくて」
ふーん。難しいんだ。それで判っちゃった。ごめんね、難しくて。
とりあえず知らん顔しておく。ヒナの方もそうなんだけど、どうせ見れば判るよね。お互いにクスクスと笑う。やっぱりか。
卒業制作に関連して、ヒナの学年は今大荒れの真っ最中だ。そこかしこで揉め事が噴出している。通称「学年ビックバン」。宇宙の始まりかぁ。卒業の目前になって創世とか、深いよね。名づけた人は、そんなことは考えてもいないと思うけど。
そんなネガティブなビッグウェーブに乗るつもりはさらさら無いので、ヒナは完全にそれを無視していた。関わらない、というのは難しかったので、しっかりと自分で判断して、自分の意見を通すようにしていた。馬鹿馬鹿しい。今更何を言ってるんだ。
ハルの方も同じスタンスだ。二人ともクラスは違うけど、立ち位置は一緒。我関せず、だ。自分で正しいと思うことをする。それしかない。
何しろ名物がいじめぐらいしか無い学校だからね。卒業制作にいじめまんじゅうでも作れば良いって意見もあったくらいだ。良く売れそうだ。シュウがむしゃむしゃ食べるだろう。
学校のせいでもあるし、生徒のせいでもある。それがお互いに責任をなすりつけあっているのが現在の状態。進路が決まった三年生はもう内申とかでヘコヘコしなくて良いからね。卒業制作が良い引き金になったんでしょう。学校側もどこまでも隠蔽体質だから、どうしても強く出てこれない。無茶苦茶だ。
「卒業式、ちゃんと出来るのかなぁ」
「そっちの方が心配だな」
ホントだよ。みんな好き勝手に騒いでる感じ。中学生活最後のガス抜きなのかね。溜まり過ぎだ。
あと一ヶ月半ってところか。ハルと過ごす、中学生の日々。最後の最後で、こうやって素敵な時間を手に入れることが出来た。可能なら、このまま走り切ってしまいたい。
そして、その先にはもっと素敵な、きらきらしてる高校生活があるって信じたい。