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人魚

作者: 村瀬倖次郎

【バスタイム】





 うっとり、ぷかぷか、泡が飛ぶ。

 お風呂場はあなただけの海。


 バスタブに魔法の粉を振りかけて、温かい水面に足を浸したら、きっとあなたはマーメイド。

 響く歌声は湯気にとけて、マシュマロのようにあなたを包むの。



 虹を閉じ込めたシャボンも、頭の奥に寄せては返す波の歌も、全部あなたのもの。


 肌の上をすべっていく、水晶のような雫を見てごらんなさい!

 ばら色に染まる頬に落ちる、真珠の泡。濡れてぴんと張ったひれを振ってみせたなら、誰もがあなたに夢中になる。


 人魚になったあなたに魅せられて、今夜もあの人は歌に耳を傾けるのです。

  

【制服の人魚】


 ひだがきちんとついたスカートが翻る。ピンクの夕陽が浸かった海は、甘い色に染まっている。


 裸足のまま君は砂浜を駆け出して、僕をほっぽったまま海に足を踏み入れた。

 制服の裾が濡れるのも気にしない。白っぽい魚の腹のような、君のふくらはぎが波間に見え隠れする。



 あれは、波と戯れる君があまりにも神聖に思えて見た幻覚だったろうか。




 彼女は浜辺を洗う波の上に、軽やかに乗ってみせたのだ。

 引いていく波から寄せていく波へ、次々と乗り換えながら、踊るように。







 永遠のように感じられた一瞬は、彼女が微笑みながら振り返ってふつりと終わった。



 ――それは、制服を着たままの人魚だった。


【試験管の中】


 研究所はいつも薄暗く、どこからか水の漏れている音がしていた。俺はこの陰鬱とした研究所で働くことに辟易していて、とうとう研究員を辞めることにした。

脱ぎ捨てて丸めた白衣を小脇に抱え、白色灯がちらつく廊下を歩く。薬品焼けでぼろぼろになった白衣と辞表を管理室に叩きつけてやるつもりだった。


 この研究所は主に試験管の中で生物を発生させることに心血を注いでいた。その技術はのちに人間にも活かされ、試験管の中で赤ん坊が生まれるのだそうだ。

 管理室まで来て、扉が開け放たれていることに気がついた。中には誰もいない。水が一定間隔で落ちる音以外はしんと静まり返っている。ふと、肩に雫が落ちた。これだから嫌なんだ――うんざりして肩を拭う。


 しかし、思ったよりも粘度のある液体の感触に手を確認すると、手のひらが赤黒く染まっていた。俺は真上を見ることができない。そこに何が待っているのかを知りたくない。また雫が顔に落ちた。生ぬるく、鉄じみた臭い。



 ここの所長は自分の研究にえらく自信を持っていたようで、幻想生物をこの世に生み落とすのだと大袈裟に語っていた。


 だが、生まれた子供はどうにも親が気に入らなかったらしい。糸を張った巣で物憂げにこちらを見つめながら、腕から食いかけの所長を落とした。



 ――人魚。



 海の色をそのまま写し取った深い青の鱗が、返り血で紫に変わっていた。もっと早くに辞めてしまえばよかったと、俺に伸びてくる美しい腕を見ながら後悔した。

【アリスと深海都市】


 波間にきらりと金時計が光るのを、アリスは確かに見た。ぬるい春の海に分け入って、時計を下げた魚を追う。

 優しい海はアリスを包んで、深みへと導く。


「あれは何かしら?」


 海の底に輝く真鍮色の街。アリスはどこまでも落ちる。街へ、誘われる。


 魚は光る時計と一緒に街の中心へゆるゆると消えた。アリスは、神秘的な街に心が高揚するのと伴って、自らの脚にひれがついていることに気付いた。

 サファイアとアメジストをあしらったような鱗。どんなドレスよりも優雅で薄い尾びれ。



 アリスは人魚になった。

 ゆうゆうと泳いで街を探検する。その間にも、彼女の身体はさらに魚に近付く。

彼女はまだ、それに気がついていない。




 いけないのだ、アリス。このままでは――





 このままでは、わたしのようになってしまうよ。





 ――金時計を海底に落としてしまったまま、私は尾びれを揺らした。

【人魚の歌】


「そんなに、この脚が物珍しいかえ?」


 静かな声で彼女は問いかけた。池のほとりに座った彼女は、魚の形をした半身を指してそう訊いたのだ。


 夜の雑木林は静かなようでいて、絶えず虫とフクロウが歌っている。僕はそれを聴くのが好きで、よく寝床を抜け出しては林に忍び込んでいる。

 今夜は蛙も鳴いているだろうと、池のほとりに立ち寄ったら先客がいたというわけだ。


 西洋の花を刺繍した着物姿は、良家の娘に見える。

 ひたひたと濡れた魚の脚だけが、別の生き物のようにときおり池の水面を叩くのである。


「珍しくないと言ったら嘘だけれども、とても綺麗だと思う」


 僕が言うと、彼女は横目でちらりと僕を見て、すぐに視線を外した。


「厭だったら断ってかまわない。触ってもいいかな?」

 彼女は無言で、濡れたひれを僕のほうへ差し出した。

 触るとつるつると滑らかで、ひれは月を透かして天女の羽衣のようだ。


「僕も君のような脚がほしかったな。――病気でね、上手く走れないんだ。いっそのこと魚の脚だったらよかった」


 その言葉を聞くと、彼女は池の水を掬った。彼女が息をふうと吹きかけると、さざなみが立った。

 着物の上から僕の脚にその水をかける。するとみるみる僕は魚になる。白と朱色の身体の錦鯉に変わる。


「愚かで哀れな人の子や、せめて私が永久の時間をかけて愛でてやろうぞ」


 池に放された僕は、水面に浮かぶ金色の月の周りをくるくる泳いだ。


 どこか遠い那の歌を、彼女は僕のために唄った。

【花に】


 人魚のひめさまたちの中でも、一番末のひめさまはとてもおてんばなひめさまでした。

 人間の世界をのぞきに行っては、王様に叱られているような有り様でした。


 なかでも、人間の世界でひめさまが一番お好きだったのが『花』でございました。

 海の中にはない鮮やかな色が、たいそうお気に召しておいでだったのです。

 こっそり摘んできてはご自分の御髪に飾って楽しんでおられるご様子でした。

 ひめさまの御髪も花に劣らぬ美しいお色でしたので、花を挿すとなお一層輝くのです。



 けれども、海の水は塩辛く、花には厳しい世界でございます。半時もすればしおれてしまい、ひめさまは悲しそうに俯いてしまわれます。

 あまりに悲しんでおられるので、海の底にすむ魔法使いの力を借りてみてはいかがでしょう、と軽率にもお告げしてしまったのです。

 ああ、あんなことを申し上げなければよかった。

 ひめさまは魔法使いのもとへ行き、ご自身の声と引きかえにこう願ったのです。


「わたしを人間にしてください」



 ひまさまは行ってしまわれました。もう海へは戻ってこないでしょう。愛する花に囲まれて、とても幸せなのですから。

 お声は必要ないのです。花に耳はありません。心で語りかければよいのです。


 あの時余計なことを言わなければ、まだ海に留まってくださっていたでしょうか。

 いいえ、きっといずれはこうなる運命だったに違いありません。


ひめさまは、花に恋していらっしゃったのです。

【月船】


 夜空に浮かぶ月は、ひとりぼっちで寂しくないのかな。ぼくがそう言うと、お母さんはにっこりして答えた。


 ――ちっとも寂しくないのよ。だって人魚がいるんですもの。


 星はたくさん仲間がいるけれど、月はこの世にひとつしかない。だからきっと寂しいだろうなって思っていた。

 お母さんはぼくに、人魚が乗った月の船の話をしてくれた。



 海で人魚が寂しくないのは、月が明るく照らしてくれるから。暗い海の中で自分がどこにいるのかわからなくなってしまいそうなとき、月は人魚を優しく手招きする。


 ある日、ひとりの人魚が不思議に思った。月は空にひとりぼっちで寂しくないのかしら。きっと寂しがっているわ。

 人魚は真夜中、暗い空と海がとけて交わる頃に、泳いで空まで昇っていった。


 月は明るくてまぶしいくらいに輝いていたけれど、船の形の三日月には誰も乗っていなかった。たくさん泳いで疲れた人魚は、月の船に乗ってどこまでも月と一緒に行くことに決めた。それならきっと寂しくないわ。いつか私も、空で仲間に会えるかもしれないもの。



 ぼくは空を見上げた。さっきよりも明るく光っているみたいだ。じっと見ていると、人魚のひれがひらりと月からはみ出したような気がした。

【人魚の歌う脚】


 出会ったときから、彼女は話すことができなかった。

 ただいつも穏やかに微笑んで、僕の話を聞いてくれる。


 本当は、僕も彼女の話を聞きたかった。声や歌を聴いてみたかった。

 そう言うと、決まって少し困ったような顔になって僕を見つめ返す。どうすれば君の声を聞くことができるのだろう。


「一度でいい、君の歌を聞いてみたいな」


 ある日また僕がぽつりと言うと、彼女は困ったように微笑んで脚を差し出した。

 すらりとした脚は象牙のように白くなめらかで、不思議なことに歌が聞こえた。脚が歌っているのだ。

 脚に耳を寄せて美しい歌声に聞き入っていると、彼女の瞳から涙があふれた。


 彼女も、本当は自分で歌いたいんだ。話したいんだ。

 彼女の脚は、歌の形が固まってできている。だから絶えず歌っている。


「ごめんね、君の気持ちも知らないで……」

 たったひとつの歌を歌い続ける脚に、僕はそっと口づけた。

 彼女はどこまでも澄んだ涙をこぼして、それでも嬉しそうに微笑んでみせた。



 言葉で交わせなくても、僕は君を愛しているし、君もきっと僕を愛してくれていると思う。



 脚の形をした歌は、永遠に愛を歌い続けている。

【泡】


 人魚は泡から生まれ、泡に還るという。

 手で浴槽の水をかき混ぜても、泡から人魚は現れなかった。


 


 昔、人魚を確かに見たことがある。

 家の近くの海辺で、打ち上げられた人魚を見つけた。とうに潮は引いてしまっていて、自力で海に帰ることができなくなってしまったようなのだ。

 苦しそうに息をするのを見て、驚くほど自分の脳内が澄み切っていることに気がついた。助けようと思えなかった。ただ、この身動きできない哀れな人魚をいつまでも眺めていたかった。


 人魚の髪は砂浜の上でくるくると渦を巻いている。顔の横にはえらがあって、苦しそうにぱくぱくと開いたり閉じたりを繰り返していた。鎖骨から胸、腹にかけてのゆるやかな曲線は、人間にはない完成した美しさがある。

 

人魚は、じっと観察するだけの人間に手を伸ばした。頬に手が触れるかと思ったその刹那、人魚は七色の泡になって弾けて消えた。

 人魚を見殺しにしたという事実だけが砂浜に残った。それからというもの、何度も何度も泡を作ったけれども、人魚は二度と生まれることはなかった。一言でいいから謝りたかった。綺麗なものが失われるというのは、あんなにも悲しく恐ろしいことだったのだ。あの頃は、まだそれを知らなかった。


 浴槽の中に涙が落ちた。それは七色の泡になって、風呂場いっぱいに広がった。


〈人魚には永遠があるの。泡が消えても、また波間から生まれるように、無限の命があるわ。あなたが見たのは、ほんの少しの終わり〉


 歌うような、楽しそうな声が語りかけてくる。浴槽には、あの時消えた人魚――


 ごめんなさい、と声にならない声で呟くと、涙が流れたそばから泡に次々と変わっていくのだった。

【水面下】


「お前が人魚に戻るには、王子の胸をこのナイフで刺し貫かなければならない」


 水底に棲む魔法使いはそう言って、私に愛しい王子様の心臓を突き刺せとナイフを渡してきた。


 私は悩んだ。愛する王子様を殺すなんてできない。

 けれど、このままでは泡になり海の藻屑として消える運命なのだわ。


 最後の王子様の顔を見に、私は眠っている王子様のそばへ寄っていった。綺麗な寝顔、いつ見ても惚れ惚れするわ。まぶたにきちんと並んだ睫毛に、貝殻の裏のようなすべすべの肌。太陽の光でできた髪の毛。私は王子様を愛していた。


 悲しくて、何度もためらった。殺せるはずない、そう思った。でも、私は刺してしまった。ナイフを深々と、彼の胸めがけて突き立てた。


 


おかしいわ。こんなに胸が痛むのはなぜ?

 私は自分の胸から真っ赤な花びらが飛んでいくのを見た。

 これは花びらなんかじゃないわ、助けて、痛いの……




「まったくおかしな人魚だったよ。水面に映った自分を王子様だとすっかり信じ込んで恋していたのさ。自分は人間になったと思い込んで、人魚への戻り方を教えてくれなんて言うから伝説どおりに教えてやったよ」




「……さあて、いったいどうなったのかねえ。わたしは知らないよ。ときおり出てくるのさ、月の光の毒にやられておかしくなっちまう人魚がねえ」



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