第717話 閑話…クラウン
悪神が消え失せたあと――。
「はあ、はあ、はあ……」
滅ぼす、必ず、一片たりとも残さずに――、激情のままに悪神を討ち滅ぼしたシアであったが、その心が晴れることはなかった。
やがて呼吸が整ったところで、シアは鎌を塊の状態へと戻す。
再びその手に帰ることになった鎌ではあったが、一体となりかつての死神へと戻ることまでシアは望んでいなかった。
シアは黒い塊から手を離してみるも、塊はただその場に留まるばかりで何の反応も示してこない。
ただそこに在るだけだ。
もはやそこには欠片ほどの意識も残ってはいない。
ほんの少し前まで宿っていた意識は失われてしまったのである。
「……う、うぅ……」
シアは床に両膝をつき、うなだれながら涙をこぼした。
かつては死神として百万の生を傍観してきた。
だが、実際に生きていなかった自分は何もわかってはいなかった。
悲しい――、ただ悲しい。
たった一度の人生が悲しみに沈み、おそらく、もう二度と浮かび上がることはないのではないか。
「……ッ」
咄嗟に、シアは側に転がる鋭い石片を手にとり首筋に押し当てた。
悲しみと絶望により、突発的に命を絶とうとしたのである。
しかし力を込めようとしたその瞬間――
「――ッ」
ふと、セレスの顔が脳裏に浮かんだ。
兄を――、そしてここで姉まで亡くしたら、セレスがどれほど悲しむか。ただでさえ兄を失えばセレスは深く悲しむというのに、そこに姉までとなれば、どれほど心を打ちのめすのだろうか。
この苦しみをあの幼いセレスに与える?
駄目だ。
そんなことは駄目だ。
自分はセレスの姉である――、その強い意識は、シアが自死を選択するのをすんでのところで食い止めた。
するとそこからシアの意識は二人の弟のことや、他の妹のこと、両親のこと、自分の成長を喜んでくれた今は亡き実の両親のこと、そして仲間のことへと繋がっていく。
そしてこの繋がりが、虚無へ身を投じようとしたシアを縛り思いとどまらせる。
「くっ……、うぅ……、うぐぐぐ……」
死ねない。
死んではいけない。
何より、彼はそれを望まない。
「……ずるい、ずるいですよ、ひどいです、置いてかないでくださいよ……」
流れる涙は止まらない。
それでも――、時が経てば止まるのだろうか?
この悲しみも、いずれは癒えるのか――、いや、癒えてしまうのだろうか?
耐えがたい苦しみであれど、これが、これこそが、失われてしまった彼が最後に残したものであり、であるならば、この悲しみが風化してしまうこともまた耐えられない。
シアは嘆き続けたが……、やがて、シアの放った『殺気』を間近で浴びたため身動きがとれなくなっていたミーネ、アレサ、シャロが床の大穴を迂回してシアの元へと近づいて行く。
「ねえシア、何がどうなったの……? この黒いのは何……?」
ミーネが尋ねると、シアは黒い塊にそっと手を寄せて言う。
「……こ、これは、ご主人さまです……」
その言葉にミーネとアレサは唖然とし、おおよその事情を知っているシャロは悔しそうに顔をしかめた。
「そういうことじゃったか……。ここまで……、ここまでやらねば神は殺せんと、婿殿はわかっておったのか……」
おそらく、彼が思いついた最大の攻撃は自身の力を解放する〈雷我〉であったのだろう。
だが、神と神域の関係を知ったことで、〈雷我〉でも殺しきれないと考えたのではあるまいか。
自分だけでは殺しきれない、と。
だから彼はなおさらに〈雷我〉を使わなければならなかった。
死神の鎌に宿った己を消し飛ばし、シアの手に返すために。
『……』
この黒い塊が彼であるとシアが告げたのち、しばし場には沈黙が留まることになった。
シアはただ涙をこぼすばかりであり、シャロは彼に余計なことを教えてしまったのではないかと自責の念に苛まれ、アレサは事実を拒絶し受け入れぬことでかろうじて困惑するだけに留まっている。
ただ、ミーネだけは――
「んー、それで……、これからどうするの?」
重苦しい場の雰囲気など気にせず、あっけらかんとした声音でそう尋ねた。
まるで彼のことなど他人事、どうでもいいような調子にも思われる声音であったが、さすがにそんなわけはない。
しかし、であるならこのミーネの調子はどういうことか。
もしかすると、まだ彼が失われたことを理解できていないのではないか? 実はどこかに居ると、そう思っているのではないか。いや、それどころか、いくら彼は死んでしまったのだと説明しても理解することを拒絶し、終いには彼を捜しにどこかへ行ってしまうのではないか。
ミーネの不可解な様子に、シャロやアレサだけでなく、泣いていたシアですらも少しだけ冷静になった。
しかしそこでミーネはさらに言う。
「え? 誰かこれからどうすればいいとか聞いてないの?」
「あの、どうするって……、どういうことでしょうか?」
困惑しながらアレサが尋ねると、ミーネはにゅっと眉間にシワを寄せて答えた。
「だから、ほら、こうすれば生き返るからやってくれ、みたいな話? ……あれ? これで終わりってわけじゃないんでしょ? ならせめてみんなにお別れとか言うものじゃない? でも私なんにも聞いてないし、クロアやセレスにもそんな話はしてないみたいだったし」
「いやそんな生き返るって……」
「だってあの子よ? この結果がわかっていて、何もしてないわけないじゃない。誰にもお別れしてないなら、その必要がなかったってことなんだから、生き返る算段とかあったんじゃないの?」
『…………』
そんな馬鹿な、と思う。
この事態にあっていつも通りでいられるミーネの精神の強さ。
いや、果たしてそれは正気なのだろうか。
ただ一人で『彼の復活』という発想に至った思考、それは驚愕に値するものであり、例えばそれは『彼を信じていたから』などという聞こえの良い言葉では到底説明できず、また納得しきれないもの。彼なら大丈夫と信じきって疑わないのはもはや狂気の域である。
しかし――、だ。
ここで『ミーネは狂ってしまった』と思うのは簡単だろう。けれども、彼女の話は馬鹿げていながらも説得力があり、悲しみに凍りついていた三人の心に小さな希望の火を灯すことになった。
そうに違いない――、と。
「でもね、私はそんなの聞いてないのよね。まったくもう」
ミーネはちょっと怒っている様子。
少し気力が湧いた三人であったが、これでもし駄目だった場合、いよいよミーネは壊れてしまうのではないかという恐怖も感じる。
「と、当然のことですが、わたしは何も聞いていません……」
「私はなるべく猊下のお側に控えていましたが、その様なことは何も……」
ミーネ、シア、アレサに心当たりはない。
となれば、と三人はシャロに注目する。
「わ、わしか? う、うーむ……」
「シャロが一番ありそうだけど……、もしシャロもわからなかったら、みんなに聞いて回るしかないわね」
そうミーネが言った、その時である。
「なあシャロ、お前って手紙預かってなかったか?」
「あ」
シャロが持つ杖からロシャがにょきっと頭を出して言い、これを聞いたシャロは俯けていた顔を跳ね上げた。
シャロは思い出したのだ。
手紙のことを、そして渡される際に彼から言われたことを。
今すぐに読んでしまうと動揺し、作戦に支障をきたすほどの内容というのは――。
「そうか……、この結末か! 婿殿、ひどいぞ、いくらなんでも! ああっと、手紙、手紙……!」
シャロは大慌てで亜空間から件の手紙を引っぱりだし、杖を肩に立てかけさせると手紙を開き読み始める。
やっぱり指示はあったのだ、と三人は手紙を覗こうとしたが――
「ぬあぁぁぁぁ――――ッ!!」
唐突にシャロが叫びだし、力んだ拍子に手紙が真っ二つになった。
『ちょおぉぉぉぉ――――ッ!?』
大事な手紙の大惨事に三人は悲鳴を上げる。
しかしシャロはおかまい無しだ。
手紙を握りしめたまま――
「でりゃぁ――――ッ!」
渾身の空間ぶん殴り。
これにより即席精霊門が作り出され、三人が事情を尋ねる間も無くシャロはそこに頭を突っ込んでしまった。
いったい何が、と困惑する三人が見守るなか、やがてシャロは精霊門に突っ込んだ頭を引っこめる。
そしてすぐ――
「はいはーい、お待たせしましたー」
気の抜ける調子で言いながら、ぽよんと飛び出してきたもの。
それはスライム覇種――イールであった。




