第698話 閑話…戦う理由(後編)
予想されていた通り、都市の上空は瘴気が渦となっているおかげでその『目』の部分だけは日の光が届き、先を見通すことが可能になっていた。
とは言え、さすがに地上までとなると、わずかに漂う瘴気によって暗く陰り見えにくくなっている。
だが、それでも到達目標であるバベルの塔が目視できるのは僥倖だ。
これが見通しのきかない闇であれば地上への接近に気づいたとしても減速が間に合わず墜落の恐れがあったが、これならば一気に限界まで下降することができる。
デヴァスは自由落下に迫る速度で瘴気のトンネルを下っていく。
そしてデヴァスが急降下を二分ほど継続したところで異変は起きた。
遠くに見える瘴気の渦、その壁が蠢き始めたのである。
この原因はすぐにわかった。
渦の壁を突き破り、まるでデヴァスを待ちかまえていたように数えきれぬほどのスナークが一斉に渦の中心部へと飛び出してきたのだ。
「ここからが活動圏ということか……!」
スナークの中でも飛行することのできるものが、蠢き合っている高度。
だがこの速度で降下するなら、スナークもデヴァスを捕らえることは出来ない。
デヴァスは構わず下降し続けたが――
「ガアァァァァァァァ――――――ッ!!」
轟音のごとき咆吼があった。
思わず目を向ければ、そこには落下するデヴァス目掛け尋常ではない速度で飛行してくる巨大な闇。
「なん――ッ!?」
咄嗟に減速して身をよじり、落下方向を修正する。
するとデヴァスが居たであろう場所を巨大な闇は通り過ぎ、さらには竜のデヴァスですら不可能な軌道でそこから真っ直ぐに落下して行くと、急にピタリと空中で制止した。
落下するデヴァスを待ち受ける巨大な闇、その姿は――
「暗黒の――、竜、だと……!?」
ただただ真っ黒であり、姿も歪。
しかしその暗黒は確かに竜の形をしていた。
スナークへと変貌する前の姿を留めている存在。
それはバスカーやピスカがそうであったように、危険なスナークの中にあってさらに危険な存在――かつて覇種であったもの。
「古代竜の覇種――、くっ、そんなものが出てくるとは……!」
何かが邪魔をしてくるとまではシャロも予測していた。だが、ここまでデタラメに空を飛び回る存在までは予想されていない。
暗黒竜――あれは他の飛行するスナークとは完全に別格であり、ただ高速で降下していくだけでは振りきれない。飛行能力の高さという、デヴァスの唯一の優位性があれには通用しないのだ。
どうする、と考えたところで意味は無かった。
倒すことができれば一時的な休眠状態にできるが、現状、そんな『もしも』は実現しない夢物語である。
デヴァスにできることは、なんとか振り切り、地上へと到達することだけであった。
「攻撃を躱しながら、このまま行くしか……!」
デヴァスは咄嗟の回避行動が行える速度にまで減速。
暗黒竜は先でデヴァスを待ちかまえる――、いや、ただ待つばかりではなかった。
口が開かれ、そこに仄かな光りが灯る。
「――ッ」
ブレス。回避。
瞬間的にデヴァスは躱そうと直線上から離脱するも、轟と放たれたそれは回避できるような速度でも、逃れられる範囲でもなかった。
薄暗い渦の中を閃光が満たし、デヴァスに群がろうと迫っていたスナークの群れがまとめて吹き飛ばされる。
ブレスが放たれる瞬間、デヴァスはかろうじて暗黒竜に対し背を向け、自身の喉元にぶら下がる鞄――アークを守ることに成功した。
「か……、はっ」
ダメージはある。
だがそれでも五体満足、まだ充分飛べる。
飛べるのだが――、あれ以上のブレスを受けたとなればもうわからない。
おそらくあれは威嚇。
かつてのバスカヴィルやナスカですらデヴァスの敵う相手ではない。それが竜の覇種となれば、その本気の攻撃がこの程度であるわけがないのだ。
それに、今のブレスはいったい何だ?
基本、竜のブレスは炎が多く、中には違った属性のブレスを吐く竜も居るようだ。しかしあんなものは知らない。あんな、光りのごときブレスなど聞いたこともない。
あれを本気で吐かれたら――。
「どうする……」
行く手をあんなものが塞いでいるのでは、もう下降もできなかった。
それでも空中にただ留まるのは危ういと、大きく旋回するようにして考える時間を稼ぐ。
いや、稼ごうとした。
デヴァスは暗黒竜から目を切らさずにいたが、その飛行速度はあまりにも早かった。意識が追いついた時にはもうすぐそこまで暗黒竜は迫っており、今度はその突撃をもろに喰らわされる。
「がはっ」
衝撃と苦痛、弾き飛ばされたことで空中に留まることができなくなり落下する。
そんなデヴァスめがけ暗黒竜は追撃を行った。
落下するデヴァスに上空から追いつき、さらに下へと弾き飛ばしてそれに追いつく。自由落下よりも遙かに速度の乗ったところで、今度は下へと回り込んでデヴァスを上へと弾き飛ばした。
「が――ッ」
いくら竜の体とはいえ、これは効いた。
デヴァスは為す術無く、それからも渦のあちこちへと弾き飛ばされ続けることになった。
暗黒竜にはデヴァスを殺すつもりは無いらしく、どちらかと言えば千何百年ぶりに手に入った玩具で戯れているようである。
しかし、弄ばれるデヴァスはたまったものではない。
ただ降下して地上へ到達することすら叶わない状況に歯がみしつつも、度重なる暗黒竜の衝突が深刻なダメージとなりその思考すら手放してしまいそうになっている。
朦朧とする意識。
そこで、デヴァスは一瞬だけ夢を見た。
レイヴァース家の屋敷に、誰も居なくなっているという光景を見た。
それは屋敷だけのことではない。
これまでデヴァスが彷徨う中で見てきた場所すべて、誰一人として居なくなっているという、荒涼とした夢であった。
「……まだ、だ……」
竜に姿を変えられるからとて、自分が強くないことはわかっていた。
どのような事態にしろ、こうして叩きのめされ、命の火が消えることになるだろうとも予感していた。
だが、その意志が揺るがず有り続ければ、この任務は必ず成し遂げられるとデヴァスは思っていた。
「(――死ねない。死ぬわけにはいかない。死ぬのは構わないが成し遂げなければならないことがある。必ず、なんとしても、どのようなことになろうとも成し遂げなければならないことが……!)」
見送りに来た者たちを思い浮かべる。
印象深いのは眠そうに目を擦っていたセレスだ。
ここで自分が挫ければ、あの健気な娘も失われる、そんな未来が訪れる。
「(そんなことが許せるか……!?)」
己自身に問いかける。
許せるわけがない。
例えこの身が砕け散ろうと、そんなことは認められない。
この、不条理に対しての強い怒り。
どうにもならぬことも、自分がどうにかしてしまおうという意志の根源となるものであり、もしかするとこれは、彼が戦いに臨める理由なのではないかとデヴァスは唐突に理解した。
そしてその意志、その想い、絶望を前にしても今だ砕けぬその決意。
この地には共感を覚えるものが多くいた。
かつてはデヴァスと同じように、死を顧みず事を成し遂げようとした多くの勇者たちが。
だからこそ寄り添う。
その決意ゆえに器を失い、変わり果て、もはや自我さえ無くなったものたち――瘴気は、懐かしむようにデヴァスへと。
それはかつてベルガミアで起きた奇跡。
対スナーク防衛戦、バンダースナッチ・バスカヴィルとの戦いの中で命を落としたアズアーフの身に起きた出来事の再現であった。
「があぁぁぁぁ――――ッ!!」
渦の中を漂っていた瘴気ばかりか、渦を形成していた瘴気までもがデヴァスへと注ぎ込まれるように収束する。
朦朧としていたデヴァスの意識が覚醒し、自分がずいぶん落下していたことに気づく。
暗黒竜はもう遊び飽きたのか?
いや、まだだ、遊び飽きたからこそ終いにしようと、上空から一気に迫ってきている。
「それはもううんざりだ……!」
死ぬことのない状態になったとしても、デヴァスは強くなったわけではなく、依然として歴然とした力の差は覆しようのないものである。
だが、デヴァスは別に暗黒竜を倒したいわけではない。
ただアークを地上に降ろすことができればそれでいいのだ。
「うおぉぉ――――ッ!」
デヴァスは叫び、暗黒竜が激突した瞬間、抱き留めるように受け止めた。
さらにはその首に食らいつき、暗黒竜の飛行を全力で阻害する。
結果、デヴァスと暗黒竜はもみくちゃになりながら、数十秒の自由落下をへて地上へと墜落した。
一瞬、意識が飛ぶ。
もしかしたら死んだのかもしれない。
しかし今のデヴァスは死なない、死ねない。
起きあがり首をもたげると、暗黒竜が他の形を持つスナーク――バンダースナッチと争い始めていた。
仲間割れ――、いや、獲物である自分の奪い合いか、とデヴァスは他人事のように思う。
それよりも今は、あの、少しばかり遠くに見える塔に。
天へと伸びる先端に、球体状の空間の歪みが確認できる巨大な塔――バベルの塔に。
「あ、あそこに……!」
あと少し。
もうあと少し、スナークが蠢くこの地上を突破できれば任務を果たしたことになる。
バンダースナッチ同士の戦いの隙にデヴァスは飛ぶ。
もう少し、もうすぐそこに。
地上から、上空から、定まった形を持たぬ様々なスナークがデヴァスに襲い掛かってくるが、それらを振り払い飛ぶ。
「邪魔をするな! 邪魔を! 私は! 成し遂げるのだ!」
己を鼓舞するようにデヴァスは咆える。
そして――、力尽きて墜落するようにデヴァスは塔の前へと到着した。
「つ――、着いた! 着いたぞ! 着いた!」
それは喜びからの声ではなく、計画の一段階目が完了したことをアークを通して迷宮庭園にいる者たちに、彼に、伝えようとしたがための叫びであった。
そして――。
アークを目印として空間が破られる。
まずその『門』から溢れだしたのは、きらきらと光を放つ精霊たちであった。
まるで底が抜けた水瓶のように、止めどなく溢れ、塔の周辺へと散っていく精霊たち。
やがてその精霊たちの中から彼は現れた。
その姿を目にした瞬間、デヴァスの口から言葉が零れる。
「わ、私は、お役に、立てましたか……?」
震える声での問いかけに、彼は頷いて言った。
「もちろんだ」
※誤字の修正をしました。
ありがとうございます。
2022/01/31




