第669話 閑話…彼女たちの分岐点
春の訪れにより、ずいぶんと暖かい日が増えてきた。自室の窓から望める小さな湖を覆っていた氷もすっかり溶けきり、風の無い日は周囲の森を静かに映し出すようになっている。
少女はその景色を何となく眺めていたが、そこで侍女のシアが部屋を訪れ、微笑みながら言った。
「お嬢さま、お嬢さま、まだ泳ぐには早いので、飛び込んだりしてはいけませんよ?」
湖で泳ぐのは森の奥にある屋敷で暮らす少女にとって数少ない楽しみの一つであったが、去年ちょっと気がはやり、まだ冷たい湖に飛び込んで風邪をひくことになった。シアは注意すると共にからかってきたわけだが、それに対し少女はふて腐れ気味に「わかってる」と返すより他無かった。風邪をひいた少女をつきっきりで看病してくれたのはシアであるため、彼女にはそれくらいのことを言う権利があると思ったからである。そしてシアもまたそう思っているのだろう。
「それで何の用?」
少女は尋ねる。この話は早く終わらせたい。でもきっとこれからも春が来る度に言われるのではないか、そんな予感も覚えていた。少女の質問に対し、シアは少しもったいぶるような素振りを見せてくる。
「もう、何なの?」
少女がさらに尋ねると、シアは隠していたものを少女に見せてきた。それは一通の手紙で、それを見た少女はぱっと表情を明るくさせる。こうして届けられる手紙の送り主は二人しかいない。少女の父親と母親である。少女はシアが手紙を渡しに来るのを待たず、いそいそと自分から貰いに行った。
手紙を受け取った少女は明るい声を上げながらくるくると回り、そのままふらふらとベッドに寄っていってバフっと倒れ込む。その様子を見守っていたシアは「お嬢さま、はしたないですよ」とお小言を言ってくるが、優しい表情を浮かべているせいでまったく叱っているようには思われず、言われた少女も「はーい」とひとまずの返事を返すばかりだった。少女は両親からの手紙にすっかり浮かれてしまっていた。
ベッドにうつ伏せになり、足をぱたぱたさせながら少女はシアに手を伸ばすと「手紙切りをとって」とおねだりをした。これにはシアも少しあきれたようであったが「早く早く」と無邪気にせがんでくる少女を見ると可愛らしさに負けてしまい、手紙切りをとってあげた。
「ありがとう」
少女は微笑みと共に告げ、さっそく手紙を開封して読み始めた。大人しく手紙を読むならばシアも退室するところだが、この場合、少女は聞いて聞いてとやって来ることになるので、そのまま大人しく待つ。するとすぐに少女は声を上げた。
「あのね、お父さまとお母さま、もう少し暖かくなったらこっちに来てくれるみたい!」
嬉しそうに言う少女に、シアは「よかったですね」と微笑む。両親とは年に数回しか会うことができない少女であるが――……
「……?」
何かがおかしい、とシアはふと感じる。
だが、その違和感が何なのかがわからない。
△◆▽
遠出する祖父が、一緒に来ないかとミーネに提案をしてきた。
なんでも向かう途中にある森の奥に知り合いの魔導師が住んでいるらしく、ひと月ほどそこに居候させてもらい、魔法を教えてもらってはどうかと言うのだ。
これまでミーネは祖父と共に森で数日過ごすことはあったし、また別に、招いた教師に魔法を教えてもらったこともある。だが二つを同時に、それも長い期間となるとこれまでにない体験だ。
ミーネはその誘いを受け、魔導師がどんな人なのかを尋ねた。
「昔は有名な冒険者だった。引退してからは、同じく冒険者だった男性と結婚し、国王から領地を貰って貴族になったのだ」
「へー」
しかしよく聞けば、その領地というのが特に変哲もない森で、領民なんて一人も居ないというのだからミーネとしてはびっくりだった。
何度か他の貴族の領地へと連れて行ってもらったことがあるミーネだが、今度向かう領地は一番ちっちゃくて何も無い領地なのだろうと考える。それで貴族としてやっていけるのだろうかとミーネは勝手に心配するも、祖父が言うには夫婦共に冒険者として活躍したので蓄えはたくさんあるらしく、領地経営を行わなくても暮らしていけるらしい。
あと、その夫婦の間には男の子がいるらしく、友達になれるかもしれないと祖父は言う。どうだろうか、とミーネは考える。ミーネがそう考えるのも仕方のないことで、同じくらいの年代の子供となると、ミーネに付き合って遊ぶだけでも大変なことなのだ。それでも両親が有名な冒険者で、森で暮らしているとなれば期待できるのでは、とミーネは密かに期待した。
やがてミーネは祖父と共に旅立ち、長い旅路の末にその森に辿り着く。
森の奥には屋敷があり、それはミーネが想像していたボロ屋とは違う、普通の――ちょっと小振りだが――お屋敷だった。
すっかり乗ることに飽きていた幌馬車からミーネは飛びだし、森の様子をきょろきょろ眺めていたところで祖父に呼ばれた。そうだ、まだ挨拶をしていなかった、とミーネは小走りで祖父の隣へ向かい、ちょこんと礼をする。穏やかそうな女性がここの男爵、その隣にいるちょっとのほほんとした感じの男性がその旦那さん、そして――
「……?」
「――ッ」
小さな男の子が、女性の後ろにシャッと隠れる。
そして、ちょっとおっかなびっくりな様子で顔を覗かせた。
「あらかわいい」
ミーネは挨拶が途中なことも忘れ、素早く回り込んで男の子をがっちり捕まえる。突然のことに男の子は驚いたようで、ミーネに抱きつかれたまま固まってしまった。それはびっくりして何も出来なくなる小動物のようで、ますますミーネは男の子を可愛らしく思う。
「ねえ、あなたおなまえは?」
「くろあ」
「そう、クロアっていうのね。わたしはミネヴィアよ」
「み、みえびー、あ?」
「ふふ、まだうまく言えないのね。じゃあミーネ。わたしはミーネよ」
「みーね」
「そう、ミーネよ」
よくできました、とミーネが頭を撫でてやると、男の子――クロアは嬉しそうに微笑んだ。
弟がいたらこんな感じだろうか、とミーネは考え――
「おじいさま、わたしこの子ほしい!」
咄嗟にそう叫んでいた。
すると祖父は吹き出し、クロアの両親も面白がって微笑んでいる。
怒り出すような者は――居ない。
「……?」
何かがおかしいような気がして、ミーネは戸惑った。
誰かが反対するような気がしていたのだ。
しかし皆は笑顔で、クロアはきょとんとしているだけである。
「ねえおばさま、もうひとり、男の子がいたりしない?」
「うん? うちはクロアちゃん一人よ?」
そうか、そうなのか、とミーネは胸の内で呟いた。
△◆▽
お勤めに向かう旅程をより短縮させるため、里で暮らしていたアレグレッサは迷宮都市で生活するようになった。迷宮都市には精霊門が存在する。相手方が都合をつけてくれるなら、アレグレッサは門を通じすぐに患者が待つその場所へ向かうことが出来るのだ。
現状、一族の悲願たる『聖女』の役割を果たせるのはアレグレッサ一人きりであり、故にそのお勤めは多忙を極めた。また、最終的には『聖女』を数多く誕生させるという目的があるため、未完成とは言えどようやく誕生した『聖女』であるアレグレッサは、その協力のため定期的に里へと戻され検査を受けており、これもまた忙しない日々に拍車をかけるものとなっていた。
精霊門で連れられて行った先にいるのは、ほぼ例外なく重傷を負った身分の高い者、あるいはその関係者で、アレグレッサが瞬く間にその傷を癒すと口を揃えて『聖女』と崇め、その御業のごとき能力を讃えた。世に回復魔法の使い手はいるも、数はそう多く無く、使い手により癒せる傷にも差がある。セントラフロ聖教国が抱える聖女ともなれば話は別だが、彼女らは世の怪我人を治療するために存在するわけではない。だが、アレグレッサは違う。アレグレッサは世の怪我人を治療することを目的とした取り組み――、ポーションなどに頼らずとも人々が不安無く暮らしていける世界を実現するため、とある錬金術士が始めた取り組みの成果である。
アレグレッサの一族はその錬金術士と、とある特殊な民族から出奔した一人の娘によって始まった。
一族は戒めもかね、一部魔導言語にて自らをこう称する。
アーレグ・レッサーブリード。
アレグレッサという名はここから取られた一種の称号であった。
一族にとってアレグレッサは象徴であり、よって大切に、そして厳重に育てられていた。籠の鳥ではあるが、その籠の中においてアレグレッサは姫であった。しかし籠の鳥は空に焦がれるものであり、馬車から眺めるばかりであった都市を自分の足で歩いてみたいとも考えるようになる。
こっそり抜けだしてみようか――。
アレグレッサはそんなことを考えるが、すぐにいけないと誘惑を振り払うように首を振る。
この都市で知っている道は、屋敷から精霊門までの経路だけだ。
きっと迷子になってしまうし、そうなれば皆に心配をかける。
運良く親切なお姉さんが屋敷まで送り届けてくれるかもしれないが――
「……?」
ふと、アレグレッサは考える。
どうして『お姉さん』なのだろう、と。
考えてみたがよくわからず、アレグレッサは勝手に抜けだすのはやめて、そのうち町を歩いてみたいとお願いをしてみることにした。
△◆▽
シャロはふと目を覚ました。
ゆっくりと身を起こしてみるも、そこにあるのは見慣れた霊廟最下層にある部屋で、何一つ目新しいものはなく、ただただ耳が痛くなるような静寂に支配されていた。
「夢を見ていたような気がする……」
一人呟き、シャロはつい今し方まで見ていた夢の内容を思い出そうと試みた。とても幸せな気分であったという感覚だけがしっかりと残っているその夢。
しかし夢の記憶は煙のようなもので掴みようが無く、思い出そうとすればするほど遠のき、せっかくの幸せな気分、その残り香は思い出すことができない苛立ちによって無残に掻き消されていく。胸に残る温もりは、この時の止まった部屋の冷気に当てられでもしたようにどんどんと熱を失い、シャロを置き去りにして冷えていくばかり。
「思い出せん……、何でじゃ……」
温かかったからこそ、冷え切っていくことに耐えきれない。
温もりが消えるのは仕方ないにしても、せめて思い出すことができていればその夢を握りしめて孤独を忍ぶこともできるだろうに。
やがて、シャロは何も思い出せぬまま、温もりが消え去ってしまったことを知った。
胸に風穴が空いたような喪失感があり、何が悲しいのかわからぬまま身を震わせる。
失われてしまったものが何なのかすらわからない。
失意のあまり両手で顔を覆い、うめき声を漏らす。
しかしいくら嘆いたところで、失われた記憶も温もりも戻らず、そんなシャロを慰めようとする者など居るわけもない。
長く悲しんだ後、シャロは顔を覆っていた手を離す。
枯れ木のような手であった。
「はは、こんな体では涙も出んか……」
自虐的に呟き、シャロは再び横になると目を瞑る。
望みが叶うならどうか夢の続きを、それが駄目ならもう二度と自ら目覚めることが無いように。
△◆▽
ガレデアは改竄する。
その精神、その意志を持って今日へと辿り着いた者たちの記憶を改竄する。
どのような力を持とうと、それを使うための意志を欠いては意味を為さない。意志はその者の人格に強い影響を受け、人格は歩んできた人生により形作られる。ならば今の自分になるきっかけ、その一点を崩してしまった場合はどうなるか。
現実は今この瞬間にしかなく、その積み重ねがその者を作りあげているのならば、そこを改竄されることによって生まれる、今の自分との齟齬はその者の精神をそこに留まらせる。
強い意志、覚悟を持つ者ほど、その根底を崩されると弱い。
記憶を改竄するガレデアに抗える者は居なかった。
己の内に怪人を宿す、彼以外は――。




