そうして僕は彼女を忘れない
僕には彼女が居た。特別かわいいとか優しいとかそういうんじゃなかったけど付き合っていた。それなりに好きだったし、そこそこ楽しかった。高校生活でも楽しい時間の方に入るに違いない。僕が彼女のことを何と呼んでいたか、それは彼女の名誉のために黙っておくけれど、それでは話がしづらい。こういう時先人たちは考えたもので、その人のことを「Aさん」とか「K」とかそういう呼び方をしたものだ。僕もここではそれに倣って彼女のことをSと呼ばせてもらうことにする。
付き合って一年になるかならないか、そんな時に僕はSを振った。理由はよく覚えていない。Sが案外重たかったか、勉強が忙しくなったのか、多分そんなところだったと思う。雨の中、自転車を漕いで家に帰ってメールで別れを告げた。Sは別れたくない、話をしようって言っていたけれど、僕は半ば強引にメールで別れた。話をしなかった理由は何だっただろう。とにかくSに別れを告げて、しばらくしてからのことを話そう。
「ふぁあ、疲れた。そろそろ帰るか」
僕は時計を見た。壁にかかった時計の短針は八のところを指している。教室の少し離れたところに座っている友人に声をかけて、友人も僕と同様に帰宅の準備を始める。机に広げていた数学のノートと筆箱を鞄にしまっている。僕は自分の英和辞書をロッカーにしまう。僕たちは鞄を肩にかけ教室を出る。
「今日も暗くなっちゃったな。ま、もうすぐ受験だししゃあ無いけど」
僕は疲れを紛らわすように明るい声で友人に話しかける。友人もまた空元気なのか僕に妙にテンション高く返事をする。肌寒く、真っ暗な廊下を二人で歩く。遠くに見える消火栓の赤いランプが不気味さを誘っている。ちょっとした肝試しみたいで、この怖さを紛らわせるために二人とも明るく振舞っていたのかもしれない。ようやくついた靴箱で上履きを履き替える。
「教室の奴ら、まだ頑張るのかな。俺はさすがにもう無理。また明日だな」
疲れた後の友人との馬鹿話は名残惜しかったが、適当なところで切り上げて僕たちは別れた。校門をくぐった僕は一人で友人とは逆の駅の方面へ歩き出す。街灯がぼんやりと足元を照らしている。車の通りも少なくないその道は学校の廊下よりも明るい。光を求めて街灯に集まる虫たちは気持ち悪かった。だがその虫に不気味さは感じることは無かった。上の方にいる羽虫を見ないように軽く下を向いて歩き続ける。しばらく歩いていると、僕は不思議なことに気付いた。僕と同じ調子の足音が後ろから聞こえてくるのだ。ヒタヒタとその足音は僕についてくる。僕が電柱のところで立ち止まるとその足音も一歩遅れて止まる。僕が歩き出すとその足音も歩き出す。僕は急に恐ろしさを感じだした。怖い。正体の分からない者に後をつけられた経験など持ってはいない。一体誰が。振り向きたい、確認したい。この恐怖を取り除きたい。僕は暗い道を歩き続けた。
しばらく早足で歩くとぼんやりとした明かりが目に入った。街灯だ。その境目の分からないような電気の下に立ち止まる。ただの寒さとは違う、身を切るような空気が僕を包み込んでいた。その空気を温めるのに頭上の明かりはいささか弱すぎるようであったけれど、今はもうその明かりに頼るほか無かった。一つ、二つ、息を吐き僕はゆっくりと後ろを見た。
と、僕は最初、僕をつけていた人に焦点が合わなかった。なぜなら、その人は想定よりずっと近く、僕の真後ろに立っていたからだ。疲れもあり、ゆっくりとその人を認識する。僕の真後ろに立っていた人物はSだった。
「こんばんは」
Sは微笑みを見せながら僕にそう言ってきた。時間帯には即したその言葉も、現状シチュエーション的には到底似つかわしくない物になっていた。
Sが一言そう言ってから、僕たちはしばらく無言のままだった。わざわざ話しかけてきたのだから何か用事があるのだろうけれど、それを僕が聞き出すだけの根性は無い。僕の顔には作り物の笑顔が仮面よろしくへばりついていた。そしてその仮面はSも着けているようだった。
いい加減、この薄暗さに目が慣れて、遠くの時代に乗り遅れたビールのポスターまで見えるようになってきた頃。
カツン、と学校指定の革靴を鳴らしSは僕に近づいた。いかんせん元々僕の目の前というところに立っていたものだから、Sは危うく僕とぶつかる距離にまで近づいていた。何なら僕は抱き着かれるのかと思ったくらいだ。その距離まで詰めて来たSはようやく要件を喋りだした。
「まだ、私があげた物、持ってる?」
どうやらそれは質問のようだ。あまりに唐突な内容で、一瞬意味の理解に苦しんだけれど、僕の考えが一巡して答えを出そうとしたときにはSはすでに次の言葉を発していた。
「私は持ってる。全部、あなたがくれたものはなんでも。誕生日プレゼントも、一緒に買ったブレスレッドも、ふざけて渡してきたお菓子の空き箱も、全部」
Sは仮面を一切はがすことなく、言い続けていた。まるで淀みなく、何度も練習したように。そのプレゼントを渡した時のありがとう、とか、ブレスレッドを選んだ時のうれしい、とか、空き箱を渡した時の怒るよ、とかあの時の笑顔のままで僕に語り続けているようだった。
Sはそう言うと動けない僕の隣を追い抜かす。その寸前、耳元で一言。
「私、まだ諦めてないから」
その一言に僕の凍った体が溶けた。僕は振り返りSの歩いていった方向を見る。あっという間に追いつけない程遠くに行ってしまった後姿を見て、僕はゆっくりとため息を吐く。ようやく動かせるようになった両足を駅に向けて進めた。
結局その日からSはしばらく僕に話しかけてこなかった。もちろん僕もSに声をかけることも無かった。なんだかんだ受験生は忙しい。僕はSと話したことも忘れて勉強していた。
幸い、僕は第一志望の地元の国立大学に合格でき、その合格発表から一週間ほどで卒業式だった。
三年間過ごしてきた校舎はいつもより少しだけ立派に見えたし、怒りっぽい担任の先生にもその日は感謝の思いしかなかった。
そんな素晴らしい式の後。僕は一人学校の裏庭を歩いていた。薄暗くて少し湿っぽいその場所は、僕のお気に入りの場所だった。なんとなく暇なときはよくここに来ていた。最近はあまり来てなかったけど、最後に寄って行こうと思ったのだ。いつも決まってもたれ掛かり昼寝をしていた木の下に座り体を任せ、目を瞑ってみる。落ち着く。もしかすると僕は学校にいる間、教室の次に長い時間をここで一人、過ごしたかもしれない。さすがにそれは無いか。今みたいに冬は寒いからめったに来なかったし。やっぱ、流石に寒いな。もう帰ろうかな。
そんな風に考えていたとき。ざっ、ざっ、と足音が聞こえた。なんだ、今までここに誰か来たことは無かったのに。足音がずいぶん近づいてきて止まる。僕の方を見ている気配を感じ、目を開けた。僕の伸ばした足の延長線に帰る直前なのか荷物をまとめたSが立っていた。
Sを見た瞬間、僕はSに話しかけられた帰り道を思い出した。あの時と全く同じ笑顔だったから。
「もう帰ったかと思って、ちょっと冷や冷やしちゃった」
今回はSはすぐに話し出す。
「でも、よくここ来てたもんね。教室に荷物もあったし、すぐここだなって分かったよ
「あの日、さ。何て言ったか覚えてる?
「そう、諦めてないって言ったの
「私はあなたのことが好き。大好き。あなたが私を好きかは知らない。でも私が世界で一番あなたを愛していることは知ってるよ
「あなたを幸せにできる人はいっぱいいるでしょう。だけどね、世界一幸せにできる人は一人だけよ
「どうか私を拾ってくれませんか」
この期に及んでSは僕にそう言って微笑んでいた。当然僕は断るつもりだった。僕はもうSを好きだと思ってなかった。だからSを振ったのだし。Sの言葉は僕には届かなかった。湿った地面から冷たさが伝わる。僕は座ったまま口を開く。
「ごめん、大したセリフも言えないけど、僕はSのことを拾えない」
Sが一瞬うつむいて、すぐに顔をあげた。その顔には薄い笑いが浮かんでいた。地面の冷たさが増した。
「あっそ。もしかしたら、よりを戻してくれるかなって思ってたんだけどな。はああ、仕方ないな」
Sは持っている鞄に右手を突っ込んで何かを引っ張り出した。細長い何か。
「君が断らなければ、終わらなかったんだよ?」
ぐるぐると巻き付けているタオルをほどいていく。中から冷たい輝きが目を刺す。現れたのは包丁、それも特別大きい出刃包丁というやつだった。Sはこっちに歩いてくる。僕は冷たさが体を凍らせてしまったのか立ち上がることができない。ぼうっとSを見上げたまま座り込んで言うしかなかった。
「待てって、僕を殺しても意味が無いじゃないか。僕とSの間には縁が無かった。それだけの話だよ。きっと僕の他に縁がある人がいる」
Sが僕の目前で立ち止まる。僕を見下ろすその目には黄色の優しさを確認できた。ああ、Sには昔からそういう雰囲気を認めることができた。Sとデートをした時にはいつも中途半端な優しさをもらったものだった。
「ええ、確かに私があなたを殺す意味は無いわ。そんなことしなくても私はあなたを忘れないもの。だけどね、こうしないとあなたはきっと私を忘れてしまう。それはどうしたって耐えられないの」
Sは右手を上げる。僕はもう抵抗できるとは思えなかった。冷たさが全身にめぐって、指先も口も、眼球すらも動かなくなって、Sのことを見つめるしかなかった。
右手が動く。僕の思考も固まって何も思いつかなかった。怖いとも、つらいとも。まるでテレビで見る犯罪の報道みたいに。その映像は僕に何も感じさせることなく、行為を最後まで遂行させた。
Sの持つ包丁が首を貫き切り裂いた。ただし、Sの。血が噴き出し僕を温める。僕の全身を血で濡らすは十二分な量があふれ出して止まらない。ドクドクドと僕を濡らして赤く染めた。凍り付いた僕の体が徐々に溶けていき動くようになった。Sはすぐに倒れてしまって、動かなくなった。Sが動かなくなって、冷たくなって、僕の代わりに凍ったのだった。
あれからもう十年ほど経った。Sは凍り付いたままだった。僕はSの願いの通りSを忘れることは無かった。あの赤いシャワーも固くなった体も、何よりもあの鉄の味を忘れることができなかった。これが僕の高校時代のほとんど唯一の恋の、桃色の思い出話だ。
注意:この作品はフィクションです。実在する人物、団体、事件とは一切関係ありません。仮に類似性のある人物がいたとしても、その人はこの小説の登場人物とは別人です。当然、作者自身もこのような経験はございませんので、安心してください。