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赤木の森の下影に  作者: 一人雅伸
赤木の森の下影に
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 <ノーパンクタイヤ>

 <ノーパンクタイヤ>


 ある春頃の事です。授業中に教務主任のN先生が慌しく教室のドアを開け、手招きをします。廊下に出てドアを閉めると、

「大呉谷町のK君はいるかい?」

と言います。

「K君なら、先程、お姉さんの結婚式だと言って早引きして行きました。」

と答えると、

「直ぐ追いかけて、校長室に連れて来てくれ。集団サボタージュだ。授業は私が何とかするから。」

N先生には珍しく、声が上ずり興奮しているようでした。


 私もあまりに突然のことで、なんだか訳の分からないまま、慌てて自転車に乗って木尚きなお町の田んぼに向かいました。田植えからしばらく経った頃で、稲が一面に青々と伸び、五月の風にそよいでいます。


 その田んぼの中の道に、カバンを背負ったK君が一人、大呉谷町の集落に向かってトボトボと歩いていく後姿が見えました。 

「K君、自転車の後ろに乗ってくれ。」

と、明るい声で呼びかけると、K君も神妙な顔つきをしましたが、さして嫌がる様子もなく素直に自転車の後ろに乗りました。

「シッカリ掴まって居ろよ。揺れるからな。」

と言って、二人を乗せた自転車は小学校の方へ走り出したのです。


 その頃の自転車は、チューブ式の空気圧タイヤではなく、固いゴムチューブを車輪に巻いたノーパンクタイヤが多かったのです。重くて振動が激しいタイヤの上、当時の田んぼ道は殆どが砂利道で、「ゴツゴツ、ガタガタ」と激しい振動がお尻から伝わってきます。K君は後ろから両手を回し、私のお腹にしがみ付きました。


 田んぼから赤木の森に着き、そこから100メートルも北に行くと学校です。校長室に連れて行く廊下で、やっとK君に声を掛けることができました。

「校長先生に訊かれた事は素直に答えるのだよ。もし、誰かに苛められたら直ぐに先生に言えよ。先生はお前の味方だからな。」

と言ったように憶えています。


 その頃は、現在のように交通も激しくなく、不審者も居ない頃でしたが、通学距離の遠い集落の子供達が自主的に通学班を作り通学していました。自然と班長が遊びのボス、ガキ大将にもなり易かったのです。それでこんな事件が起きたのかもしれません。


 それから20年も経った頃、そのクラスの同窓会に特別招待されました。卒業学年でもないクラスの同窓会という事自体珍しく、殆ど招待などはされなかったのですが、そのクラスの教え子の希望が強かったようです。懐かしく思い、招待を受けました。卒業後逢っていない教え子が殆どで、年月が見た目も変えてしまっており、名前を言われないと分からない人が殆どです。


 一人の教え子が私の前にやって来ました。真面目そうな中にシッカリした眼光の紳士に見えました。

「先生、ご無沙汰しています。Kです。」

突然だったので唖然としていると、彼は勝手に話しを始めました。


「僕は、一人ひとり先生のお陰で、優しい、社会の役に立つ人間になろうと決意したんです。」

「あぁ、思い出したよ。ノーパンク自転車のK君だね。先生も逢いたかったよ。」

「はい、あのノーパンクはお尻が痛かったですね。」

私も思わず大きな声を出してしまいましたが、K君も嬉しそうに、弾んだ声が出ていたようです。


 話途中でしたが別の教え子が徳利を持って現れ、K君は名残惜しそうにその席を譲りました。それで彼との再会は絶たれてしまいましたが、私はもっと訊きたい事が一杯あったのです。


「先生、堅い話は後にして、まぁ一杯どうぞ。ところで、今話をしていた男、誰だと思います?」

「大呉谷のK君だろう。一人ひとり先生のような立派な人間になろうと思っています、と言っていたよ」

と言うと、彼は相好を崩しながら、

「なるほど。でも、先生の事じゃないのだよ。彼は今ね、栃木市の交番勤務の警察官で、市民に優しく親切で、正義感の強い民主警察官として何回も表彰を受けているのだよ。」

と教えてくれました。私はびっくりして言葉が出ませんでした。


 軍国主義から民主主義の国になった当時の人は、優しく親切な役人を『民主○○』と言ったのです。


 K君が私に言ったことが本当なら、あの『ノーパンク』事件のように、長い人生の内のほんの一時の出来事が子供心に強い印象を与え、人生の指針を与えることになります。逆の印象を与えれば、子供の将来を駄目にしてしまうかもしれません。


 教師という職業は、素晴らしく偉大なものであると同時に、誠に恐ろしい職業だとも言えます。一瞬一瞬の積み重ねであっても、どんな出来事や言葉が子供の人生を左右する事になるか、その場では皆目見当がつかないのですから。


 そんな事を考えたときに、

「教師の仕事をする前に、尚一層、清く、優しく、素直で、大胆に行動する力を持った人間を目指していかなければならないのは、教師自身である」

と痛切に感じるのです。


 そして、この時ほど、教師という職業の重さ、深さを感じ取ったことはありません。教師と子供の触れ合いの中に、新しい人格が形成されて行くのだと思ったとき、新たな希望と勇気が心の底から湧いて来ました。


 それから、一層、自分の教育と修練に熱が入るようになったと思います。



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