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くちなし

作者: 玖月明夜

 わたしがその花に気がついたのは、付き合っている彼と喧嘩別れした夜の帰り道のことだった。

「何の花の香り?」

 甘く、それでいて、どことなく官能的な香りをたどってゆくと、古い日本家屋の庭の一角に咲いている白い花の木があった。

「これ…なんていう花かしら」

「それは梔子と言います」

「梔子?」

 女性の声に振り返ると長い黒髪を無造作に束ねた若い女性が、傘をさして佇んでいた。

「梔子って、あれ? 御節の栗きんとんに使うあの梔子?」

「はい。あれは、この梔子の実を乾燥させたものです。ところで」

 女性はあいた手に持っていたもう一本の傘をずいっと差し出してきた。

「余計なお世話かもしれませんが、こんな夜に傘もささないでいるなんて、風邪をひいたらどうするんです?それが目的と言うのならともかく」

「別に風邪を引きたいわけじゃあないけど、なんとなく頭を冷やしたくて」

そう苦笑したわたしにその女性は、呆れたような表情を浮かべた。

「我が家の梔子を気に入ってくださったのはいいですが、それで風邪をひかれたなんて、後味が悪いと言うものです。コレの何かの縁。上がっていってください」

 そう言って、女性はやや強引にわたしを家の中へと連れ込んだ。


 それが、彼女。篠塚秋穂しのづかあきほとの出逢いだった。



 秋穂の家は、彫刻家だと言うお父さんと彼女のふたりぐらしだった、お父さんのアトリエを兼ねた大きな離れといい、いまどきお目にかかれない本格的な日本家屋といい、かなり裕福な家なのだろう。雨にぬれてびしょびしょのわたしを半ば引きずるようにして浴室にと向かう途中にみえた廊下や柱は、良く手入れがされていてつやつやしたあめ色に光っていた。

「温まるまででてこないように」

 そう言って、わたしを脱衣所に押し込むと彼女はさっさと姿を消した。残されたわたしは仕方なくぬれた服を脱いで浴室に足を踏み入れた。

「意外。普通のお風呂だ」

 意外、と言ったら失礼だろうか。浴槽は普通のバスタブで、てっきり檜風呂を想像していたわたしはあっけにとられていた。

 裸のまま突っ立ていたって仕方がない。わたしは洗面器にお湯を汲み、頭からかぶった。少し熱めのお湯が、体を滑り落ちてゆくのが気持ちがいい。


「あの…」

「ああ。サイズ、あっていてよかったわ」

 彼女は、そう言ってわたしに座るように促した。

「わたしは、この家の娘の篠塚秋穂です」

「ここ、篠塚先生のお家だったんですかあ!?」

 わたしは思わずひっくり返った声を上げていた。

「父をご存知?」

「ご存知も何も、わたし、矢島菖子やしましょうこです。駅前のべーカリー『ひまわり』の娘です」

「まあ。『ひまわり』の?」

 駅前のカフェを兼ねたベーカリー「ひまわり」は、この町の名物だ。わたしの祖父が創めたこの店は、現在兄夫婦が継いでいる。この店の常連に、この町きっての有名人である芸術家の篠塚先生がいたりする。

「何時も父がお世話になっています」

 先生は、なにかに行き詰ると我が家に逃げ込んでくる。そして、一昨年生まれたばっかりの甥っ子相手になにやら真剣に話しかけていらしている。

「何て言うかその…司くんに色々と遊んでもらっている、もとい、迷惑をかけているんじゃあ…」

「いえ、そんなことは…。司、先生がいらっしゃらないとご機嫌が悪くなるくらい、先生になついていて」

「だといいけど。うちの父って、子供相手にも変なところで変なことをぶちかます人間ヒトだから」

 そう言って、秋穂さんは溜息をついた。

「司くん、父のこといつまで好きでいてくれるのかしら」

 秋穂さんの言葉には、妙な実感がこもっているようだ。

「なんだか、妙に実感が…」

「うん。前例があるのよね」

「前例?」

 秋穂さんはわたしの言葉に、ふっと微笑んで見せた。

「父の古いお友達の息子さんがね…。小さい頃は、父になついていたんだけれど、落とし穴に落っことされて以来、父のそばに近づかなくなっていたから」

「落とし穴!?」

 いったい、何をやっているんでしょうか!?

「一体、その子が幾つの時でしょうか」

「小学校一年の時だったわね。それまで『遊んでもらっている』と思っていたんだけれど。小学校に上がるころから『遊ばれている』じゃないかって思うようになっていってね…」

 秋穂さんの視線が、明後日の方に向いている。なにやらイロイロとあったらしい。

「イロイロあったのよ、イロイロと…」

「そ、それで、その男の子は」

 わたしの問いに、秋穂さんの視線が左の薬指に向けられた。その指には、綺麗な青い宝石いしが煌いていた。

「今は、それほどでもないわ」

 そういった秋穂さんの表情は、とても綺麗だった。


「あの…」

「はい?」

「聞かないんですか?」

「聞いていいのなら」

 秋穂さんの言葉に、わたしは言葉に詰まった。

「なんで聞かないのか、聞いても?」

「いいわ」

 秋穂さんは、視線を窓の外に向けた。

「梔子のそばにいたから」

「へ」

「くちなし、って『口無し』ともかけるでしょ。実が熟してもわれる事がないから、そこから『口無し』って言われるようになったの。碁盤の脚が梔子の実の形をしているのもそう。『口出し無用』っていうことなんですって」

「口出し無用…」

「ええ。だから、わたしもあなたに何も言わないの」

 秋穂さんの言葉に、わたしは思わず彼氏とのケンカの一部始終を話す気になっていた。


「山?」

「はい」

 彼氏の名前は笹岡岳志ささおかたけしと言う。「名は体を現す」と言うことわざがあるが、この男は読んで字のごとく「山男」なのだ。子供の頃から山が好きで、時間があれば山に登っている。それは別にかまわない。健全ないい趣味だと思うし、文句なんてない。だが、それは、彼個人に限っての話だ。

「私について来いってほざきやがるんです! 富士登山だってしたことないのに、いきなりキリマンジャロですよ!? ケンカしたってむりないですよねえ!!!!」

「確かに…。いくら歩いて登れるからって、イキナリ海外、しかもアフリカのキリマンジャロなんてハードル高すぎるとしかいいようがないわね」

「あいつひとりなら、エベレストだろうがキリマンジャロだろうが登ればいいんです、あいつだけなら。登山初心者の人間捕まえて、キリマンジャロ? アイツの本気度、どころか正気度をマックスで疑いますよ」

 そう。わたしは登山初心者。最後に登ったのだって、中学の時のサマーキャンプの時の山だ。だいたい、初心者と言うのだっておこがましい。わたしはけっして流行の「山ガール」でもなければ「森ガール」でもないのだ。ぶっちゃけて言えば、わたしは根っからのインドア派。どうせアフリカに行くのなら、キリマンジャロに登るより、麓でキリンに逢うほうがましだ。だいたい、インドア人間捕まえて、「山登りについて来い」なんて、真面目に登山を楽しんでいる人たちにシツレイではないのか。

「それでケンカ…」

「はい」 

 秋穂さんの口元が微妙にひきつっている。

 くだらない、と言ってしまえばそれまでなのだが。今回ばかりは、誰が聞いたって岳志が悪いと判断するはず。登山経験がかろうじて片手になるくらいの人間捕まえて、「キリマンジャロについて来い」などと、正気を疑われても仕方ない。登山経験が少なくっても、アウトドアな人間ならそれだっていい。だけど、わたしは口が避けてもアウトドアな人間とは言えない。第一、そこそこ長い付き合いなのだ。彼女の趣味くらい承知していても罰はあたらない。むしろ。インドア人間と交際しておいて「知らなかった」では許されない。

「このまま、駄目になっちゃうのかなあ」

 わたしの愚痴に辛抱強く耳を貸していてくれた秋穂さんは、ふと、何かがひっかかったような表情で口元に手をやっている。

「秋穂さん?」

「…大前提がすっこぬけているような気がするのだけれど」

「大前提?」

「ええ。その方とお付き合いするようになって何年になります?」

「この秋で丸4年」

「菖子さんって、確かわたしとそう変わらない年齢よね?」

「28」

「わたしより3歳上かぁ。それで、その彼氏さんは?」

「30」

「お互いいい年齢としよね? 大人の恋人同士でしょう? ひょっとして、プロポーズのつもりで、色々とすっとばしてしまったってことは?」

 秋穂さんの言葉に、思わず納得してしまう。岳志は、熊みたいな見た目に反して、かなりのテンパり屋だ。イロイロ考えすぎて、自己完結してしまった挙句にあのとち狂ったセリフが出てきたのだとした 

ら…?

「菖子さん?」

「秋穂さん。話を聞いてくれてありがとう。わたし、あのアホ男に確認してみます!」

「結果、教えてくださいね」

 秋穂さんの目が興味津々と言った感じできらきらしている。

「この服、お借りします! お返しに来ますので、その時に結果を報告するから!!」

 そう言って、わたしは傘と服を借りて、篠塚家を後にした。


「言ってなかったっけ」

「聞いてないけれど」 

 わたしの呼び出しに、のっそりと現れた熊、もとい、恋人である岳志は、後頭部をがりがりとかきながら、バツが悪そうに言った。

「新婚旅行に、アフリカに行きませんか?」

「いいわ。でも、キリマンジャロには登りませんからね」

「うん。それは、お袋にも散々馬鹿にされた」

 彼のお母さんは気風のいい鉄火肌の女性だ。岳志を筆頭に4人の子供に恵まれたが、そろいもそろって大男に育ってしまい盛大に嘆かれている。しかも。趣味もそろって、女性受けしないようなもばかり。長男の岳志の趣味なんて末っ子の趣味に比べると可愛いものだ。ちなみに末っ子の久之ひさゆきくんの趣味はボディービルだったりするのである。それにくらべると、岳志の山登りなどはるかにましだ。

「うん。だから、カルナック神殿、行こう。菖子、エジプト、好きだろう?」

 岳志の言葉に、わたしはうなずいた。視界が、にじんでいる。

「嬉しい」

 そっと、岳志がわたしの左手をとった。

「指輪、買いに行こう」

「ええ」

 頬を伝う涙を、岳志の指がぬぐってくれる。わたしは、その手をそっと握り締めた。



 1年後。わたしと岳志は式をあげた。

「おめでとう、菖子さん」

「ありがとう」

 あの夜から、秋穂さんはわたしの一番の親友となった。今日の結婚式にも、出席してくれている。

「そちらが、例の?」

 彼女の隣には、見たこともないハンサムが立っている。彼が指輪の贈り主であり、先生に「遊ばれていた」子供だ。

花束ブーケ、梔子なのね」

「ええ。梔子の季節に求婚プロポーズされたから」

 わたしの名前にも使用されている白い菖蒲と悩んだのだが、やはり、この白い花が咲いている季節にわたしたちは、新しい一歩を踏み出すのだ。碁盤の脚にちなんで「口出し無用」をほのめかしてもいる。

「梔子の花言葉、知っている?」

「いいえ」

 秋穂さんは、にっこりと笑って言った。

「『喜びを運ぶ』、そしてもうひとつ」

 耳元でささやかれた花言葉に、わたしは目を見張った。

「じゃ、式場で」

「え、ええ」

 わたしは呆然としたまま、彼女と彼女の婚約者を見送った。


「菖子?」

「岳志」

 わたしは、岳志の大きな手に自分の手を重ねた。

「あ、あのね。この花の、花言葉、なんだけれど」

「うん?」

「『喜びを運ぶ』ともうひとつあるの」 

 高い位置にある岳志の顔を見上げ、わたしは秋穂さんにささやかれたもうひとつの花言葉を口にした。

「『わたしは幸せ』、って言うの」

「菖子」

 岳志の目がまんまるくなって、わたしを見下ろしている。

「好きよ、岳志。神様より先に、あなたに言うわ」

 わたしは大きく息を吸うと、彼を見上げ口にした。

「『わたしは幸せ』、よ。岳志」

「菖子」

「これからも、よろしくね」

 そう言って、わたしはつま先だって彼の頬に唇を押し当てた。









































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