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五話

 台所に立ち、普段あまり飲まない緑茶をマグカップに淹れる。緑茶にマグカップの組み合わせはどうかと思うけど、一人暮らしであるうえに紅茶を好んで飲む私はマグカップしか必要なかったので湯呑など買っていない。見た目はちょっといまいちかもしれないけど味に変わりはないはず。まぁ、味と言っても市販のティーバッグなので劇的に美味しいわけでもなく、だからといって気になるほど不味いわけでもないものだけど。熱めに淹れた緑茶から、なかなか良い匂いが漂ってくる。冷めないうちにリビングに持って行こうと、零さない様にマグカップを二つ両手に持って慎重に歩く。

 リビングには眉間にかなり深いしわを寄せながらテレビを睨みつけている人がいる。私よりふたまわりほど年が離れていそうな男は、友達でも知り合いでもない。でも、部屋に上げてしまった以上はそれなりの対応、もてなしをするべきなのではないかと、お茶を出すことにしたのだ。大きなお盆しかないので逆に零すと悪いと、失礼になるとは思いながらも直接手で持ってきたマグカップをその人の近くに置いた。


「よかったらどうぞ。粗茶ですけど。」


目つきの鋭いこの男は、本来なら恐いはずなのだけれど……。





 刀を向けられて逃げ出した私だったけれど、普段運動などめったにしないため、すぐに息が切れて走れなくなってしまった。息を整えるために立ち止まったけれどなかなか落ち着かず、そこからはただひたすら迷わないように歩いた。ようやくアパートにたどりつき、扉を開けようとカバンの中の鍵を出そうとしたら、そういう時に限っていつもしまっている所に見当たらずにもたもたしてしまった。やっとの思いで扉を開ければ、何とかなったと一息ついた。しかし、その油断した一息がいけなかった。急に肩を掴まれ、あまりの驚きに後ろを振り返った。そこには撒いたと思っていた男が苦しそうな顔で立っていた。なんで早く部屋に入らなかったのかという後悔の後、私を睨みつける視線から、ヤバい、殺されるという言葉が頭の中を占めた。逃げる方法を考えなければいけないのに頭は働いてくれなくて。男の体が少し揺れた時、切られてしまうと思いっきり目をつぶった。


しばらくしても想像していた事は起こらなくて、かわりに男の低いうめき声の様なものが聞こえた。恐る恐る薄目を開ければ、男が私の方に倒れてくるのがわかった。わかったのだけれども、急な事であるうえ、男一人の体重を私は支えられなかった。しかも扉が開いていたため、背中の方から倒れこんでしまった。幸い、頭を打つようなことにはならなかったが、お尻を思いっきり玄関の床に打ちつける結果になってしまった。結構な痛みに息が詰まり、涙がにじんだが男がのしかかってきているために身動きが取れない。男が倒れてくる時にとっさに前に出していた手で距離を取るために男の胸を押す。わずかではあったけど少し開いた空間に、さらに距離を取らなければと必死に後ずさる。ドクドクと波打つ心臓の音がうるさい。でも、そんなの気にしている余裕なんてなくて、ただ目の前の男の様子をうかがっていた。男の左手には確かに刀が握られてはいるけれど、抜刀などされずにきちんと鞘に納まっている状態だった。立ち上がることもしないで動かない男。今なら逃げれるかもしれないと完全に止まっていた体に力を入れて起き上がろうとすれば、静かだった空間に布の擦れる音がやけに大きく響いた気がした。その音に、あぁヤバいかも。なんて思えば案の定男が身じろぎしながら頭を上げて私の方を見た。

 重なった視線に思わずビクリと体が震えたけど、恐怖で凍りつくようなことはなかった。なぜなら先ほどの睨みつけるような眼ではなくなっていたから。少し細められたその瞳は、どこか虚ろなのに、芯を失っていないような強さを帯びているなんとも言えない瞳だった。目をそらせずにいれば、何かを訴えられているかのような気持になる。でもその何かがわからずに、私はただその眼を見つめていた。

 

 数秒なのか、数分なのかはわからないけど、男が深く息をつき、再び頭を下げた事によってその均衡は崩れた。目だけを見ていた視線を男の体にめぐらせれば、右手である一か所を押さえていることに今更ながら気が付いた。赤に染まっているのを見てハッとする。そう言えば、この人は怪我人だった。それほどの距離は走らなかったとはいえ、この体で私を追って来たのだからかなりの負担になっただろう。私にはこの男がどうして自分を追って来たかなんてわからないし、危険な思いもさせられた。でもあの眼を見たら、少なくとも今は私を殺そうとはしてはいないと感じた。そして知りたいと思った。私を追いかけて来た理由や、何を訴えたかったのかを。ならば私のやるべき事は絞られた。起き上がってゆっくり男に近づいていく。左側の脇に体を差し入れ、男が立てるように肩を貸す。二人が並んで通るには狭い廊下をなんとか抜け、男を部屋に誘引した。





 ふーふー息を吹きかけ少し冷ましたお茶に口を付ける。久しぶりに飲んだその味に、たまには緑茶も良いなとすかさず二口目を口に入れる。この匂いとこの味。なんか癒されるな。ちょっと緊張していたのがほんわかした気持になった。横目で男の様子をうかがえば、先ほどまで警戒しているかの様に手を付けないでいたのが、私が口にしたことで危険がないと判断したのか、ゆっくり口に運んでいた。ただ一点気になる事がある。マグカップの持ち方が違う。湯呑じゃないのだから取っ手を持つものなのにダイレクトに本体を掴んでいる。熱くはないのかなと思いつつ、口には出さないでお茶を啜った。

 




 部屋に上げた男を座らせると、私は真っ先に怪我の具合を確かめた。着物の赤く染まっている部分を見てみれば、結構な長さの切り傷があった。ギョッとして顔を近づけてみればそんなに深くなかったのか血はほぼ止まっているようだった。だからといって放置するわけにもいかないので急いで救急箱を取りに行き、その中の消毒液で消毒した。着物を脱いでもらい、寒くない様、治療に支障がない範囲で体を毛布でくるむ。傷口が広がったりしないようにきっちり固定したいのだけど、絆創膏で長さがたりるはずもなく、テーピングテープを直接はり固定した。その他には特に痛いところもなさそうなので汚れてしまっている体を清めてもらうために洗面器にお湯を張り、タオルで背中を拭いていく。前はさすがに恥ずかしくてできないので本人に任せて、私はこの男が着る事の出来そうな服を探すためにクローゼットを開けた。

 私は部屋着にダボダボの大きいジャージを愛用している。そんな私でも大きすぎて着る事を諦めたジャージがあったはずである。デザインが気に入って購入したそれは、捨てられずに取っていたはずなのだ。それならばきっとあの人も着れるだろうと、奥の方にあると記憶しているジャージを探す。黒地に赤いラインの入ったそれを取り出し、男に渡す。不思議そうな顔をした彼に、ズボンは紐がある方が前で、上はすみませんがそのまま着てくださいと一言いってから洗面器等を片付けるため、お風呂場に行く。お湯を捨て、タオルと着物を洗濯機に突っ込む。たぶん血はどう頑張っても落ちないだろうとわざわざ水につけたり、手洗いすることはしない。無駄な足掻きだろう。

 部屋に戻ってみれば、ズボンをきちんと履き、上着を羽織った状態で男は座っていた。上着の前を合わせながらモゾモゾしている様子からファスナーの上げ方を知らないのかとありえない考えが浮かぶが、和服を着ていたのを思い出し、常に和装なら慣れていないのかもと、彼に見えるようにしながらゆっくりファスナーを上げてあげた。そして一息つく為にお茶を入れる事にしたのだ。





 私が何を話しかけても彼は言葉を発してくれないので会話が成立しない。ので、無理に話しかけるのはやめた。変に気にかけるのもやめよう。私が疲れる。聞きたい事があればあちらから話しかけてくるだろうし。それより明日は彼を病院に連れて行かなければならないだろうな。嫌がられても連れて行こう。後で取り返しのきかない事態になるよりよっぽどいいはず。そう思う気持ちと裏腹に、断固として座布団の上から動かない彼の姿が頭に浮かんでくる。一筋縄じゃいかなそうだなと少し気は重くなるけど、その時のことはその時に考えよう。本当ならば今すぐにでも連れて行くべきなのだろうけれど、携帯電話がお陀仏してしまっているものだから救急車もタクシーも呼べない。ひとまず大丈夫そうだし明日、朝一で行こう。

 結構いい時間になったし、今日はもう寝る事にしよう。彼用にお客様用の布団を出さなくてはな、と立ち上がろうとした時、部屋に響く電子音が流れる。彼が何事だと身構えたのがわかった。この時間帯に鳴るインターホンにあまりいい予感はしない。出たくはないけど彼に関わることかもしれないし、どうしようか悩む。そうしてるうちに、もう一度響くインターホン。何となく私が出るまでこのインターホンは止まらない気がした。意を決して玄関に向かう。ボソボソと話し声が聞こえる。何回目かのインターホンが鳴った後、小さく返事をしてチェーンをしっかりかけた扉の鍵をあけ、ゆっくりと開く。そこにはスーツにコートを羽織った姿の男の人と女の人が少しだけ驚いたようにこちらを見ていた。

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