三話
臨時のバイトが終わり、帰宅の途につく。バイトと言っても小さなお店の棚卸しで、私にでもできるようなものだった。別にお金が必要だったとかいう訳ではなく、たいして仲が良いとも言えない、だがそれなりに話した事のある子に頼まれたからだ。同じ学科の生徒である以上、なるべく仲良く過ごしていきたい。それにあんなに必死に頼まれたら断れなかった。私が断ったところで彼女の友達は沢山いるだろうから他の誰かが引き受けてくれたのだろうけれど。
それにしても、講義が終わった後に今日バイトだからと友人に断りを入れて帰る人を見かけるけれど、いや大抵の人がそうなのかもしれないけれど本当に凄いなぁと思った。私は有難い事に両親からの仕送りがあるので贅沢は出来ないけれど、それで充分に生活していける。なので放課後はもっぱら課題を消化している。おかげで今まで一度も遅れたことはないし、じっくり取り組めている分しっかりしたものが出せていると思う。一度両親に、私もバイトをして生活費を出した方が良いか話したら、「学生の本分は勉強なんだからそれに集中しなさい。」と優しく言ってくれたのでそれに甘える事にした。そんな両親を安心させてあげるためにも早くやりたい事を見つけないとな。と、また抜け出せなくなる思考に嵌まりそうになる。考え出すと周りの事に疎かになってしまう。誰かにぶつかって怪我でもさせてしまったら大変だ。アパートに着くまでは取りあえずその事は考えないようにしよう。そう思い、周りに集中すればいつもより人が多くざわついている気がする。比較的人が少なくて静かな道のはずなのに珍しいと思えば、その理由を何となく察する事ができた。赤く瞬くランプと鼻につく臭い。火事があったんだ。朝、紗千に教えてもらったばかりの内容が頭をよぎった。そして火事に巻き込まれないように気をつけろと言ってくれた紗千の顔も思い浮かんだ。巻き込まれはしなかったけど、アパートに結構近い場所での火事に、自分のアパートが燃えていない事に本当に安心した。それにしても一日二回も身近な所で火事とは。本当に放火魔の仕業なら、案外自分の身近な所に犯人がいるのかもしれない。なら、嫌だな。まあ、目の前の火事が放火魔の仕業とは限らない。住人の火の不始末によるものかもしれない。どっちにしろ私には関係無い事だ。寒いし早く帰ろう。止まりかけていた足を動かそうとしたけれど、とあるものが目に入り思わず動きが止まってしまう。そこに居たのは数名の警察官だ。別に私が悪い事をしたわけではないのだけれど、警察というだけで何故か緊張してしまう。最早これは条件反射なのかもしれない。日々正義を掲げて職務を全うする人達の前に出ていけば、私の行動一つ一つが悪い事に繋がっていると指摘されそうで小さい時から怖かった。実際にはそんな事は無いのだけれど、親が何かと付けて悪い事をするとお巡りさんに捕まると言うものだったから小さい頃の私はちょっとした悪戯程度の事でも警察に捕まってしまうと思い込んでいた。その思い込みが今にも影響している。私の事など目に入らないとわかってはいるのだけれど、何人も居る警察官の間を通って行くのはだいぶ緊張するし、勇気がいる。ちょっと火事の現場を近くで覗いてみたいという気持ちはあるけれども、別の道を通って帰ろう。と決断する。此処以外の道はあまり通った事がないけれど、何とかなるだろう。早く帰って温まるため、ざわつく火事現場から遠ざかるように足を進めた。
◇
家の方向に勘を頼って進んでみたら、暗くて細い道に出てしまった。戻った方が良いかもしれないという考えが浮かんだけれど、行き止まりという訳ではないし、今歩いてきた道を戻るというのが何となく嫌だったからこのまま進む事にする。初めての道を観察しながら歩いているため、いつもより自然と歩調がゆっくりになった。シャッターが下りている広めのトタン張りの建物が多い。きっと工場とかなのかなと予想する。下町の工場街と言った感じがするな。昼間にくればきっと騒々しいんだろうな。等と若干ぼーっとどうでもいい事考えながら歩いていたせいか、恐れていた事が起こった。なんと行き止まりである。此処まで来てマジかー。思わず大きなため息が出てしまう。このまま引き返すのはなんか癪だと思い、本当に道がないのか最後の足掻きの如く目を凝らして見てみる。だいぶ暗闇に目が慣れたとはいえ、やはり暗い。道っぽいものはあるにはあるけど、私有地に入ってしまうようなものだったら良くないなと思い、途中まで引き返す事に決めた。ここまで気分良くきていたのに、よくわからない敗北感に見舞われる。足取りが重くならないうちに行こうと踵を返してゆっくり歩き出す。深く息を吐いて息を少し止めてみれば自分の靴音だけが鮮明に聞こえてくる。アスファルトを蹴る靴の音がなんだか心地よく思え、その靴音を聞くために耳を澄まして歩いてみる。自分の息遣いと服の擦れる音、そして靴音を聞きながら相変わらず細くて暗い道を歩く。
音の響き方が変わったと思えば、少し広い場所に物がごちゃごちゃと置いてある空間の脇道にでたようだった。昔はよくこんな感じの場所で男の子に交じって遊んでいたなと、幼少の頃の楽しい思い出に少し頬を緩ませながらそのまま響く音に耳を傾ける。そのまま少し進むと、ふと違和感を覚えた。私が出している音以外にも何か聞こえた気がした。思わず止まってしまった足に従い、耳を周りに集中する。本当に微かだけれど、少し荒い息使いの様な音が確かに聞こえる。今までなかった恐怖心が一気に湧き上がってきた。こんな時間にこんな暗い場所にいる人なんて怪しすぎる。人じゃないなら野犬とかか。どっちにしても危険だと脳が警報を鳴らした。なるべく音をたてない様に慎重に歩きだす。とにかく早く此処から立ち去りたい。音の主が何だかわからない上に、襲われる危険もある。相手の動きにも注意しないといけないと、聞き耳を立てながら進む。とっさの事に前に進んでしまったが、重大な過失に気が付いてしまった。さっきより荒い息遣いが大きく聞こえている。自分から危険に近づいているとわかった瞬間、完全に身体の動きが止まってしまった。自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなったが、それどころではない。引き返さなければいけないのに身体が動いてくれない。嫌な汗が出てくる。浅く、長く息を吐き出し気持ちを落ち着かせ一歩後退しようと足に力を入れようとした時、荒い息使いの中に、何か痛みを耐えるようなうめき声が確かに聞こえた。近くにいるのは人間なんじゃないかと思うや否やドサリと何か大きなものが倒れたような音が響いた。その音に危険かもしれない等という考えが頭から抜け落ち、急いで音の発信源を探す。ほんの数メートル先に道に横たわる何かを見つけた。近づいて確認してみるとそれは確かに人間だった。
その男性はこの寒空の下にもかかわらず、薄い浴衣一枚で横たわっていた。何で?という疑問が真っ先に出てきたが、尚も出ているうめき声にまずは大丈夫か確認しなくてはとその人のすぐそばにしゃがみ込む。
「あの……、大丈夫ですか……?」
自分でもしっかりしろよと言いたくなるようなか細い声での問いかけになってしまった。初めて遭遇した事態に、思った以上に動揺しているみたいだ。これではいけないと今度は少しその人を揺すりながらはっきりと声を掛ける。
「あの、大丈夫ですか?どこか具合でも悪いんですか?」
一度手を止めて様子をうかがうが何の反応も返ってこない。取りあえずまた声を掛けながら揺すってみる。するとゆっくりだが目が開いた。まだ意識ははっきりとはしないみたいだけど、目が覚めてくれた事にホッとした。どうしてこんな所で倒れたのか事情を聞こうと、
「何かあったんですか?」
そう尋ねると、その人は私の方にゆっくりとした動作で顔を向けた。そしてハッとしたように急に体を起こそうとした。でも、体が痛むのか少し起き上った体はそのまま地面に沈んでしまう。
「あ、お手伝いします。」
手を貸そうと体を密着させようとしたことろで、今更ながらその人が男性だという事を意識して一瞬気まずくなる。だがこれは人助けなんだと自分に言い聞かせ、なるべく痛まないように気を付けて上半身を起こす。その人の息は、意識を取り戻した事で少し落ち着いてはいたけれど少し荒く、喋る事が辛いのかまだ一言も話していない。体を支えたまま、もう一度何があったのか尋ねてみたが返答はなかった。困ったなと思いながらいったん体を離した。すると手に、体を密着させていた時にはなかった違和感があった。手が濡れている。無意識に閉じた手に、ベタッとした感触か伝わる。これはもしやと鼻に近付けてみると鉄臭いにおいがした。その事実に一気に危機感を覚え、血の気が引いていく気がした。
「あなた怪我してるんですか!本当に大丈夫ですか?」
急いで聞くが、やはりこちらの問いには答えてくれなかった。よく見ると浴衣が裂け、血が滲んでいるところがある。それに多少焦げていたり煤が付いている。一瞬さっきの火事の被害者かとも思ったけど、こんな所にいる意味がわからないとその考えを追いやる。意識はあるけど、話してくれない以上私にはどうしようもないと救急車を呼ぶことにする。
「今救急車呼びますからしっかりしてくださいね。直ぐに来てくれるはずですから!」
少し離れた場所に置いた鞄から急いで携帯電話を取り出す。携帯電話を開いて急に明るくなった事に男性がかなり驚いた様子だったが、正直構っていられなかった。ようやく繋がった電話に少しパニックになりながらも状況を説明する。
「男性が血を流しながら倒れてて、意識はあるんですけど、喋れないみたいで。とにかく救急車おねがいします。――――――場所?此処何処だろ…。」
住所がわかりそうなものはないかと目線を上げ、耳から携帯電話を離した刹那、ヒュンという音と共に白い光が目の前を駆け抜けた。それに続いて少し軽くなる手と、何かの落下音。反射的に落ちたものを確認しようと目を向ければ、そこにあったのは暗闇の中でもかすかにわかる白い物体。あれ?私の携帯だ。ん?手に持ってるのに何で……?状況を飲み込めない中、救急車という言葉だけがはっきり頭に浮かんでいて、早く呼ばなきゃいけないのにと、男性が座り込んでいる方。右に顔を向ければ、すぐ近くに鈍く光るものがあった。それを辿ってみれば、そこには先ほどまで座り込んでいた男性が鋭い眼光を放ち、こちらに何かを構えていた。混乱して働かない頭でも何を突き付けられているのか理解するまでそれほど時間は掛からなかった。これは刃物だ。しかも刀、日本刀だ。
「――――――不審者だけには本当に気を付けてね。世の中には放火魔だけじゃなくって、ひったくりとか通り魔とかだっているんだから。困ってそうだからって話し掛けたらグサっと刺されるとかあるんだから。私、ニュースで友達が刺されたとか知るの絶対嫌だからね!――――――」
今日の朝、頬を膨らませながら注意してくれた紗千の顔が不意に浮かんできた。そんな事にはならないと言ったのに、まさか本当になるとは……。もっときちんと忠告を聞いておくべきだったな。目の前の男性から目を逸らせないでいると、急に動いた反動がきたのか、男性は傷があるだろう場所を押さえながら膝を突いた。今しかない。とにかく逃げなければ。落ちている携帯と鞄を掴み、その人に背を向けて走り出す。こんな所で死にたくない。私はまだやりたいことを見つけていない。たとえやりたいことを見つけられなかったとしても私はまだ生きていたい。そんな事を思いながら、後ろを振り返ることなくただ必死にアパートを目指し暗い道を走り抜けた。