一話
朝一の講義が終わり、ガヤガヤと騒々しい講堂でゆっくりと今日の授業の内容をまとめたルーズリーフをリングバインダーにファイリングする。次の講義も此処のため、特に急ぐ必要はない。紗千の為に自分の隣の席に荷物を置いて席を一つ確保しておく。周りの人達が次の講義のために一斉に出入口の方に流れ、それと入れ違う様に人の波が押し寄せてくるさまをぼーっと見つめながら紗千の到着を待つ。
ものの数分でいっぱいになってしまった講堂を見て、朝一の講義を取っておいて良かったとつくづく思う。でなければ、席を確保するために講義の終わる10分前には講堂の入口の前に来て、寒い中立って待っていなければならないのだから。ないわーと、そんな事を考えていたらもう講義開始まで二分を切っていた。
いつもは余裕を持って教室に入って来る紗千が今日は珍しくまだ来ない。どうしたんだろうかと、連絡がきていないか携帯電話を確認するが、連絡は入っていない。そうしているうちに入口から教授が現れ、資料を抱えながら教壇に立った。まずい、もうすぐ始ってしまう。と焦る。だが、教授の「前のテーブルから資料を取るように。」という言葉に皆一斉に席を立ち、列になって資料を取りに行く。これならしばらく時間が掛りそうだと、教授ナイス!と心の中で親指を立てる。
ソワソワしながら人が捌けるのを待ち、そろそろ取りに行かなきゃと席を立とうとした時、見なれた姿がそーっと入口を開けて入ってくるのが見えた。良かった。とホッとしながらその人を見つめていると、あちらも私に気付いて軽く手を上げた。私はそれに、右手で資料の方を指差し、左手で自分を指差して答えた。わかるかと不安だったが、あっさりと意味を悟ってくれたのかそのままテーブルに行ってくれた。それを見届け私は、広げていた荷物をまとめて自分の方に寄せる。いつもより早い靴音をたてて歩くその人が私の横に腰を掛けてほどなく教授が講義開始を宣言した。
教授が前回の講義のおさらいを始める声を聞きながら隣に座った人物から資料を受け取る。周りには聞こえないように小声で、「ギリギリで危なかったよ。」と言えば、紗千は両手を胸の前で合わせ、首を傾げながら片目を瞑って「ごめん、ごめん。」と返してきた。その仕草が妙に似合っていて可愛いやつは何をしても様になるんだなと、どうでもいい事を思ってしまった。
紗千がノートを広げ終わったのを横目で確認し、教授が黒板に向かったタイミングで紗千の方を振り向く。すると紗千もすでにこちらを見ており、すぐに目が合う。そして早く話したいとでも言うようにウズウズした面持ちで「あのね。」と言葉を掛けてきたので、何かあったのか素直に知りたかった私は相打ちをして返事をした。寝坊したとかじゃないよね。と一瞬思ったが、「実はね……。」と何か長くなりそうな話し出し方に、私が聞く態勢に入ると、教授が「まずは、資料映像を見せる。」とこちらを振り向いてしまった。これではお喋りしているのが目立ってしまう。とお互い苦笑いを浮かべた。暗くなる寸前に紗千の口が「あとで。」と動いたのを認識し、映像に集中する事にした。眠くなるような映像に、欠伸を噛み殺しながら早く授業が終わってほしいと切実に思った。
◇
「んで、何があったの?」
少し早めに講義が終わり、ガヤガヤと周りが騒がしくなったので、普通の音量で隣の紗千に投げかけた。待ってましたと言わんばかりに鞄に荷物を詰めていた手を止め、
「私が駅に行くまでバスに乗ってるの知ってるよね?」
と聞いてきた。確か前に紗千はバスで駅まで行き、そこから電車で大学の最寄駅まで来ていると聞いたことがあった。すぐに肯定の返事をすると「お、覚えててくれてるね。」と小さく呟き、続きを話出してくれる。
「バスに乗ってたら急に止まっちゃってさ。中々動き出さないから、どうしたんだろうって思ったら道のすぐ脇で火事だって。道が狭い所だったから危なくて進めなくなったみたいで、迂回とかしてくれるかなって思ったけど、Uターンも出来ないからってしばらくそのまま。結局いつ動くかわかんないから、お母さんに電話して車で近くまで迎えに来てもらって、そもまま駅に送ってもらったんだ。おかげでもう少しで遅刻だったよ!」
と頬を少し膨らませながら、怒っている。その姿が本人には悪いが、癒させる。寝坊とかと思って悪かったなと思いながら、
「ありゃりゃ、それは災難だったね。」
と返せば、じと目で、
「決して寝坊とかじゃないからね。」
と言われ、焦る。心が読まれたのかと泳ぎそうになる目を必死に正常に保った。しかし、無意識に出た「あはは。」という笑いに、「寝坊だと思ったんだ。」と確信を突かれ、速効「ごめん。」と謝った。「もう。」とまた膨れてしまった頬に、どうしようかとあたふたしたが、すぐにそれは直り普通に戻ってくれた。
「やっぱり最近火事多いよね。小さいのから大きいのまで、一か月で何回目?って感じじゃない?ニュースでも言ってたけど、これは絶対連続放火魔だよね。間違いない!」
何やら力説してくる紗千にちょっとビビりつつ、
「そんなに頻繁に火事になってるんだ。」
と呟けば、信じられないという風な顔をされた。
「うそでしょ、京香?どこのニュースでも取り上げられてるのに知らないなんて。忙しすぎてテレビ見る余裕もないの?」
「いや、そう言うわけじゃないけどさ。最近あんまりテレビ見てなかったから。紗千詳しく知ってるなら教えてよ。」
そう言えば、任せてと言わんばかりに笑顔で答えてくれる。
「今日の朝の時点まで私がニュースで見たのは、火事の件数がやけに多いことと、出火原因がいまいちはっきり解らない件数も多数あるってこと。ワイドショーでは連続放火魔の可能性が高いんじゃないかって言ってたよ。監視カメラとかに不審な人物が映ってないし、計画的に放火してるんじゃないかって。」
「ふーん、件数が多いならそれだけ証拠発見の手がかりも見つけやすいだろうし、そのうち犯人見つかるんじゃない。」
「日本の警察は優秀ですからね~。」
「ね~。」
二人で「がんばれ警察の人。」なんて言いながら途中で止まっていた手を動かし、荷物を鞄に仕舞い込む。次の教室は同じ階だから移動が楽だなと考えていたらふと思い出したように紗千が、
「そう言えば京香、今日の夜臨時のバイト入ってるんだよね?」
と聞いてきたので、一回しか話してないのによく覚えてたなと感心しつつ首を縦に振る。
「なら、夜一人じゃんか。火事に巻き込まれないように気をつけなよ!火傷しないでよ!」
「いやいや、火傷する様な巻き込まれ方ってどういう情況なわけよ!?私まで焼かれるってこと?ないよ、それは流石に!アパートでも焼けない限りさ。」
「でもー。」
ふざけて言ってきたのかと思えばいたって真面目に言ったようだった。眉を下げている紗千に、何だか嬉しくなって、「心配してくれてありがとう。」と言えば「当たり前じゃん、友達なんだから。」と返ってきて思わず笑みがこぼれる。「何笑ってんの?」と言われたけど「何でもないよ。」と自然と笑みが消えるまでそのままにしておいた。そろそろ移動した方が良いなと考えていると、
「でも、不審者だけには本当に気を付けてね。世の中には放火魔だけじゃなくって、ひったくりとか通り魔とかだっているんだから。困ってそうだからって話し掛けたらグサっと刺されるとかあるんだから。私、ニュースで友達が刺されたとか知るの絶対嫌だからね!」
「流石にヤバそうな人には、困ってそうでも話しかけないよ。そういう人は雰囲気でわかるよ、たぶん。」
「いや、京香は結構お人好しだから、そんなん考えないで話し掛けちゃうね。絶対。」
「そうかなー?」
自分ではお人好しなどではないと思っているが、紗千がそう言うのならそうなのかもしれない。
「わかった。紗千がそこまで言うならいつもは全く気をつけないけど、今日は多少気を付けて帰るよ。」
「多少って、なんでよ!超気を付けて帰ってよ!」
また、紗千は頬を膨らませ、私は笑ってしまった。私がそんな危険に巻き込まれるような事になるわけない。今まで一度だって危険な目になど合った事なんてないんだから。
ふと腕時計を見ると講義開始時間が迫っていた。ヤバい、ゆっくり話し過ぎた。紗千もそれに気付き、慌てて席を立つ。
「やば。早くしないと出席カードが貰えなくなるよ。あの教授、出席カード一番最初に配るからな。京香急ごう。」
早足で講堂を出て行こうとする紗千の後を慌てて追いかける。講義に出たのに出席にならないなんて冗談ではない。次の講義は出席カードさえクリアしてしまえば、後は教授の眠くなる平坦な声をひたすら聞き、ノートを取るだけだ。今日は寝ちゃいそうだな。とちょっと下がった気分のまま朝からずっと過ごした講堂を後にした。