春のなごりを
勅使接待役の浅野内匠頭長矩は江戸城内を生気のない顔で歩き回っていた。
彼はここ数年気分の優れぬ日が多い。朝の目覚めは悪く、昼近くまで寝所から出ない。やっと広間に出で、気丈な主君を演じてはいるが終日虚無感に襲われている。正室との夜のお勤めも途絶えて久しい。彼は一種の心の病に罹っていたのかもしれない。
そんな気分が続く中で、彼は元禄十四年(一七〇一年)の勅使下向に際する接待役という大役を幕府より命ぜられた。彼にとっては迷惑この上ないことなのだが、これを断れば幕府よりどのような仕置きを受けるか分からない。しぶしぶ彼は引き受けざるを得なかった。
接待役は吉良上野介義央に代表される高家から接待に関する礼式や作法を教授してもらう。やる気のない浅野内匠頭にとっては細かい礼儀などどうでも良いことであった。そのため注意をする高家の連中に腹立たしさを覚えたこともあった。
勅使下向は幕府にとって毎年行われる重大な行事の一つであるのだが、彼にとっては「面倒なこと」でしかなかった。その「面倒なことも」半分が終わり、今日三月十四日は勅旨が白書院で将軍からの答礼を受ける日である。
答礼の準備のために江戸城内を忙しく歩いていた浅野内匠頭は留守居役の梶川与惣兵衛と出会い、こんなことを告げられる。
「勅使が白書院に入られる時間が変わりました」
それを聞いた浅野内匠頭は愕然とし、同時に激怒する。
(なぜこの間際になってそのような重要なことを言うのか。しかも高家の者が直接言うのならともかく、僅か数百石の留守居役風情に!)
この時期、高家に対する幕府の待遇は厚いものがあった。石高は一万石以下ではあるが、幕府からの扱いは数十万石の大名並であった。これは高家が礼式や作法を教えるほかに京都の公家や朝廷相手の外交官のような職務も負っているためである。高貴な人を相手にするにはこちらも格式や地位の高い者をよこさないと向こうに侮られる。高家への厚遇は自然の流れであったと言ってよい。
これに対して当時の大名達は面白くはなかったはずだ。なぜなら、自分より石高の低いものが自分より先に将軍に挨拶をし、自分より高い位を与えられるのだから。
「たがが数千石の分際で」
と、影で言う大名も少なからずいたであろう。浅野内匠頭はその中の一人であった。そんな腹立たしい思いのする高家の者どもと面倒なお役目をする――。彼の不満と鬱屈は日増しに高まっていった。
そんな中での梶川からの間際の時間変更の知らせである。せっかく準備したものをこれから変更しなくてはならない。そんな重要なことをこんな身分の低い者に言わせるなんて――。
彼は高家の者が自分に嫌がらせをしているのだ、と感じた。彼の高家に対する不満はついに爆発した。
しかし吉良を初めとする高家の者たちが実際に浅野内匠頭に嫌がらせをしたわけではない。間際の時間変更は高家の者たちにも同じだったのだ。その対応に追われてつい彼への連絡を怠ってしまったのが真相であり。不幸な事故であった。
しかしそのような事実を浅野内匠頭は知る由も無い。彼は怒りに目を血走らせて城内を歩く。高家の者に不満をぶつけるためである。
松の廊下にたどり着いたとき浅野内匠頭はやっと高家の者の一人を見つけた。それが吉良上野介であった。吉良は誰かと談笑をしていた。その相手の正体か分かったとき彼の怒りは更に高まった。
吉良の相手は浅野内匠頭に時間変更を告げた梶川与惣兵衛だったのだ。談笑する二人を見て浅野内匠頭は先ほどの自分への嫌がらせは吉良上野介が仕組んだことだと悟った。
(おのれ吉良上野介、それがしの慌てぶりを梶川から聞いて笑っているのか。この屈辱を今晴らさずにおいてよいものか。勅使下向の最中であるが嫌々ながら引き受けたお役目だ、自分の行いで台無しになってもどうでもよいことだ)
そう思い、彼は刀に手をかけた――。
それから半刻ほど後――浅野内匠頭は江戸城内の柳の間にて多門伝八郎ら数名の目付の取調べを受けている。刃傷に及んだ理由を尋ねる多門伝八郎に対して浅野内匠頭の答えは
「積年の恨みを晴らさんがため」
この一点だった。この同じ頃吉良上野介は江戸城内檜の間にて役人の
「襲われた理由に覚えがあるか」
という問いかけに対して
「まったく覚えが無い」
と答えている。本当に理由が思い当たらないのだ。
しかし加害者である浅野内匠頭はいつまでも「吉良に対する積年の恨み」と答え続ける。目付の一人が
「乱心されたのではないか」
と尋ねると彼は顔を赤くし、その目付に襲いかからん勢いで
「乱心ではござらぬ。積年の恨みを晴らすためであって決して乱心ではござらぬ」
と激しく迫り、多門伝八郎に抑えられてやっと大人しくなる有様であった。
浅野内匠頭が「積年の恨み」にこだわる理由は先に述べた「高家への不満」の他にもう一つあった。それは自分の領国である播州赤穂の家臣たちへの言い訳であった。
気分が優れない浅野内匠頭の生活は一部の家臣――特に上層部――を不審がらせていた。大勢の家臣達と会う城内の行事などでは平静を装っているため、たまにしか会わない中層以下の家臣は気づいていないが、常に顔を会わせる家老たちは彼の異常さを気づいていた。
(我らが殿は心に病でも抱えておるのではないか)
という声が彼らの屋敷でささやかれていた。浅野内匠頭もその気配に気づいていた。
「殿、一国の領主たるもの朝寝などとみだらな生活をなさってはいけませぬ」
毎日のように家老の大野九郎兵衛が真面目な顔で諫言する。その言葉を聞き流しながら浅野内匠頭は
(この男も陰で何を言っていることやら……)
と不信感をつのらせていた。その大野九郎兵衛以上に彼が嫌っている男がいた。城代家老の大石内蔵助良雄である。
この大石内蔵助という男、普段あまり発言と言うものを特にせず、評定の席でも居眠りをするという困り者である。しかし彼が寝ていても評定は滞りなく進む。家柄だけで城代家老になれたこの男を、その存在感の無さから「昼行灯」と陰口を叩く者も多い。昼に明かりをつけても太陽の光があるから必要ない、大石内蔵助はまさにそのような男だ――という意味である。
そんな昼行灯も自分を「心の病を持つ者」と見ているだろう、と思うことが浅野内匠頭にとってはたまらなく苦痛であった。愚か者の大石内蔵助にさえ自分が異常だと見られているのである。
江戸にいるときでも赤穂城内で家老同士が自分の悪口を言っている様子を何度も想像し、そのたびに激怒した。
時には自分を隠居させ、小賢しい弟の浅野大学に家督を継がせる相談をしているのでは、と考えることもあった。そんなことを話し合う家老たちの輪の中心にあの昼行灯がいるのである。
気分が優れぬ生活、勅使接待役と高家への腹立ち、家老たちへの不信感――松の廊下での刃傷はこの三つの不満要素が一気に爆発したものであった。
刃傷に及んでから時間がたつにつれ浅野内匠頭の高家への恨みも家老たちへの思いも薄れていった。江戸城内で騒ぎを起こした自分の死は確実である。そしてあれだけ「積年の恨み」を訴え続けたので、家老たちも「心の病が原因」とは思わないであろう。勅使接待のお役目も、播州赤穂の家臣領民のことも、自分の人生も全てはどうでもいいものになった。彼に再びあの虚無感がおとずれた。
浅野内匠頭はその日のうちに陸奥一関藩主、田村右京太夫の屋敷で切腹することが決まった。
大名の即日切腹という処分は前例が無い、と周囲の者が騒いだが、彼には関心の無いことであった。
田村右京太夫の屋敷の一室にて彼は切腹までの時間を寝転がって過ごした。何もすることも考えることも無い、ただ体に疲れを感じているので寝ようと思っただけである。
遠くのほうから多門伝八郎の怒りに満ちた声が聞こえても彼は興味を示さなかった。これは多門伝八郎が浅野内匠頭の切腹の場所が屋敷内ではなく庭先であることを知って
「仮にも一国一城の主である者をこのような場所で切腹させるのか、これではただの罪人扱いではないか」
と、同役に場所の変更を求める声であったが、全てがどうでもよくなっている浅野内匠頭にとっては余計なお世話であった。
切腹の時間となり、浅野内匠頭は多門伝八郎に案内されて切腹の場所へと向かった。渡り廊下で多門伝八郎がふと立ち止まり
「桜が綺麗に咲いておりますな」
と呟く。別にどうでもいいことなのだが浅野内匠頭は仕方がなく多門伝八郎に付き合って桜を見ることにした。
木の根元まで視線を移して彼は驚いた。なんと家臣の片岡源五右衛門がそこに平伏していたのである。多門伝八郎がひそかに仕組んだことであろう。
(多門伝八郎め……、余計なことを……)
浅野内匠頭は内心舌打ちする思いであったが、彼を慕う家臣の前ではそれを表にすることもできず、仕方がなく
「片岡」
と、声をかけた。片岡源五右衛門は飛び上がるようにして顔を上げた。
「殿……!」
片岡源五右衛門の目には涙が溢れている。どうやら彼は自分から最後の言葉をもらおう、と思っているらしい。まったく迷惑なことだと浅野内匠頭は思った。しかし何かを言わなくてはならない。片岡源五右衛門の前では気丈な主君を演じ続けていたからだ。
さて片岡源五右衛門になんて言ってやろうか、彼は考えたが全く何も出てこない。播州赤穂の家臣のこと、領民のことを考えてやっとうっすらと
(彼らにはすまないことをしてしまったのだな)
という気持ちが出てきた。浅野内匠頭はその気持ちを自分の体から追い出すように口に出した。
「……すまぬ……」
「殿……、殿ーっ!」
片岡源五右衛門はそう叫ぶと再び平伏し、必死に体を震わせ嗚咽をもらした。浅野内匠頭は逃げるようにしてその場を去った。だがその姿を見ていない片岡源五右衛門の目には浅野内匠頭は「無念な最後と遂げる主君」に映ったことであろう。
この「片岡源五右衛門の目」が無ければ後の「四十七士の討ち入り」は無かったか、もっと別なものになっていたかもしれない。
元禄十四年三月十四日、浅野内匠頭切腹。享年三十五。彼の辞世の句は以下の通り。
風さそふ
花よりもなほ
我はまた
春のなごりを
いかにとやせん
この辞世の句は後に他の者が作ったものだという説がある。確かに全てにどうでもよくなった男が春に何かを感じるかといえば感じないであろう。
しかし、全てにどうでもよくなった男が最後の時になって春や風についてふと思うことがあった――という想像も捨てがたい。