また、靴を履きにくる
夏休みはまだまだ残っていた。これからどうしようか、どこに行こうか。どこで、一緒に空を見上げようか。そればかりを考えていた。これからもずっと、そうしていけたら。
でも、それはあまりにあっけなくやって来た。
「空に戻る事になったんだ」
彼はそう言った。そう言った彼は横顔しか見えず、どんな表情か分からなかった。少しだけ、次の言葉が見つからなくて間が空いた。
「そう、空に帰るのね」私のその言葉に、彼は一言「うん」と返した。でも、王子さまは一人でないといけないはずでしょ。私の言葉が風に吹かれて彼の髪を揺らした。
イツネが亡くなったと言った。空の王になるべく沢山勉学に励み、秀才で優しい、ヒトネの兄のイツネが。
元々体の弱かったイツネは、むしろよく生きた方だった。けれどその体はもう限界だった。責任の重さもあったのだろう。イツネは眠るようにして十七年の生涯を静かに閉じた。
ヒトネはイツネになるのだと言った。ヒトネという存在はいなくなるのだと。空の王になるために、彼は空へイツネとして戻る事になった。
「いつ、戻るの」
「明日の朝に、船が迎えにきてくれるんだって」
「明日の朝なんて、随分急な話しなのね」
「うん」
本当に、急だ。きっと私は何も出来ないと思った。今こうして話しを聞いていても、どうするべきかが浮かばない。ただただ、相槌と少しの質問とため息にも似た返事をするしか出来ない。寂しいのか悲しいのか、それとも空に焦がれてやまなかった彼の帰還を、喜んでいるのかさえ、分からない。
「もう、靴をはかなくてすむのね」また風が通り抜けた。彼が返事をしたのか、風の音が強くて分からなかった。
次の日の朝、私は驚く程すっきりした目覚めで起きていた。目も意識もはっきりしていた。そして私はヒトネの元に行った方がいいのか。少しだけ考えた。考えて、考えている事が煩わしく思えてすぐにその場に立ち上がり服を着替えた。窓から朝日が眩しく射し込んで、心のどこかが、小さく震えた。
ゆっくりと野道をヒトネの家まで歩いて行った。もう行っただろうか、もう空へ帰っただろうか。私がこうして歩いている間にもう。それはそれで、いいのかとも思えた。ヒトネの家の玄関までやってきた。チャイムを押してみた。もう一度押してみた。もう一度。ノックをした。磨ガラスがバシバシと細かく揺れる音が響いた。もっと叩いた。うるさい音が響く。ずっとずっと、激しく大きく。うるさい音は、私の鼓動だった。
「ヒトネ!」
私は叫んでもう一度大きく戸を叩いた。いない、いないのだ。胸の奥からふつふつと沸き上がる得体の知れないモヤが次第に大きくなっていくのが分かった。恐れだった。
私は踵を返すと、思い切り走り出した。人生で一番の全力疾走だと思う。その足で私はあの山をかけ登った。小さなヒトネが泣きながらかけ登ったこの山を、二人で歩きながら登ったこの山を。焦がれてやまない唯一を求めて、登った。この山を。
一体そこに着くまでにどれだけの時間走ったのか分からなかった。けれど私はいつの間にか頂上にたどり着いていた。そしてこちらを見ているヒトネを、見た。彼が何かを言おうと口が動いた。けど私の言葉がそれを遮った。
「ヒトネ!」
「ヒトネはもういないよ」
彼は私の声に負けない大きな声で返した。息切れした喉が苦しいと言って、次の言葉が上手く出てこなかった。私はその代わりに、ゆっくりと彼の傍まで歩いて行った。
「僕はイツネだよ。靴はもう履かないし、空を見上げることもないんだ」彼の大きな声が次々と私に向けられて飛んでくる。でも、聞こえない。何かを言い続ける彼の前まで来ると、私は顏を上げて彼を見上げた。何か、言いに来んだ。走ってまで彼に言わなくちゃいけない事があったんだ。でも、何を言いたいのか分からない。けれど、そうだ。私がしてあげられる事。してあげたいことを。
「マドレーヌまた焼くね」
やっと出てきた言葉はそれだった。きっと以前焼いた物も粉っぽかったに違いない。私は不器用だから、そうに違いない。
「今度はもっとちゃんとしたものを食べてもらうから、また焼くよ」
「イツネにかい」彼が呟いた。見上げた彼の遥か空から、何かが降りてくるのが見えた。
「食べてくれる人に」空から降りてきた何かが、ゆっくりと彼の後ろに着いた。扉らしきものが開いて、ただじっと待っていた。間があいて、空間だけが浮き出た存在として感じる。風も吹いて来ない。彼は顏を上げた。私もつられて顏をさらに上に向けた。空が見えた。視界には空だけが映り、そして声が聞こえた。「食べたい」と、彼の声が。
「そう思えて仕方ないよ。でも、一体誰がそう思っているんだろう」
「そう、思っている本人かな」
私がそう言って顏をもとに戻すと、彼も私を見つめていた。
「そうか、僕自身だ」
微かに震えたその声は、私の耳に心地よく響いた。「知ってる?ここに、この世界にはヒトネという素敵な男の子がいるのよ」私が言う。
「素敵かどうかは分からないけれど、知ってるよ」彼は後ろのそれに乗り込んだ。「きっとまた、マドレーヌを食べに来ると思うな。ヒトネは」
「それじゃあ、沢山作らないと」
「好きだよ」静かに彼は言う。靴も地面も、見上げる空も、粉っぽいマドレーヌも。
「そこに葵がいてくれるなら、好きだった」
何を思うか、何を感じたか、何を言いたいか、頭では考えられなかった。彼の乗ったそれに駆け寄って、思い切り手を伸ばした。彼はその手を取って一瞬の内に私のその体を引き寄せた。彼は私の額にとても優しく唇を触れさせた。手が離れて私の体が後ろに下がった。
「私もきっと、会いに行くから」
届いたかも分からない。彼の乗ったそれの扉は閉まり、ゆっくりと宙に舞い上がった。どんどんと遠ざかり、空に消えていくそれを見つめながら、私はずっと彼が最後に見せてくれた穏やかな笑顔だけを思い出していた。
彼の消えていった空は、とても青くて。とても暖かった。
ゆっくりと山を降りて、ゆっくりと野道を歩いて家まで帰った。まだ朝日が天辺まで登りきっていない涼しい空気で深呼吸をした。家の前まで着くと、玄関におばあちゃんが立っていた。おばあちゃんは私を見つけるとおぼつかない足取りで私の所まで走ってきて、どこに行っていたのか、心配したとか、一言言ってから出かけなさいと等と次々に言い出し、私は言い返すタイミングが無かった。それが何だか可笑しくて、嬉しくて。無性に胸が熱くなった。気がついたら私は泣いていた。ぼろぼろと大粒の涙を流して、まるで小さな子供のようにずっと泣き続けていた。そんな私を、おばあちゃんは強く強く、抱きしめてくれた。
泣きながら思っていた。初めてこの沖縄に来たときと同じように、でもあの時よりも確かに、私はここで生きていくのだと、強く実感していた。
秋がきて、冬が来る。また春がきてあの夏が来る。そしてまた、秋が来る。何度繰り返したかもう数えるのはやめた。雨が降って曇り空になる。それでも、その雲の向こうはいつでも晴れた青空なのだ。それを思うと、どんな時も私は生きてゆけると思う。
曇り空が割れて、日が射した。
ほら、見上げれはそこにいつでもいてくれるから。
私は、生きてゆけるのだ。
ここまで根気よく読んでくださった皆様!本当にありがとうございます!゜(゜´Д`゜)゜ 不定期で長く間が空いたりもしましたが、何とか終わらせることができました(´;ω;`)
もしまた機会がございましたら、これからもお付き合い宜しくお願いします♫