ずっとここに
気がついたらもう山頂を目前にしていた。中腹のベンチで一息ついた後、私達は殆ど言葉を交わす事なく一気に山を登った。
彼は私と出会って、こうして一緒に行動して、何を思っているのだろう。それが分からなかった。やはり、今でも空に帰りたいと思っているのだろうか。
そうこうしているうちに、鬱蒼と茂っていた木々の数が減り、視界が一気に晴れた。山頂についたようだった。正直あっという間だった。私は後ろを振り返り、後に続いて登りきった彼を見た。彼は私に気づくと微笑み、そしてその場から空を見上げた。
「やっぱり遠いものだね」
「エベレストにでも登ればよかったかな」
「それでもやっぱり遠いと思うよ」彼は笑う。
山頂には屋根のついたベンチと自販機が置いてあった。彼はそこで二人分のジュースを買って、その一つを私にくれた。二人でまたベンチに腰掛けてゆっくりとジュースを飲んだ。
「私、行ってみたいとは思っていたの」唐突に口にした私の言葉に、彼は口に付けていた缶を離し、私の顏に振り返った。昔から、もう一度でいいからあの空の世界に行ってみたいと思っていたけれど、でもそこに永住したいとは思ったことはなかった。それは私の人生を彩る魔法のスパイスのようで、決してそのスパイスの調合方法や真相を知りたいとは思わなかった。ただそこに、どこかにあってくれるのかもしれない。そう思えるだけでよかった。「だからもし、連れていってはあげるけれど、二度と地上には戻れないと言われたら、私は行かないんだと思う」
そこまで一気に喋った。今度は私が彼に顏を向けた。「僕も」彼は優しく応えた。
「でも、嫌いでもないんだ」彼は手の中で空になった缶を転がした。
「地上に行く事になった前日、イツネと約束をしたんだ」
イツネは体が弱く、いつも部屋にこもりきりの生活をしていた。けれど思い切り動き回れない分イツネはよく勉強をしていた。それはもう比べ物にならない程に頭が良かった。そんなイツネが一つだけヒトネに頼み事をした。体が弱く、地上に一緒に行けない事を悔やんだイツネは、常々興味のあった地上の世界の事を、帰ってきたら沢山教えて欲しいとヒトネに頼んだのだ。ヒトネにとってそれはとてつもない喜びだった。何をやっても適わない存在として傍にいたイツネから頼み事をされたのだ。幸せだった。だから地上に降りて嫌な靴下も靴も我慢してこの世界を走り回った。イツネが喜ぶ話しを少しでも多く見つけなければ。ただその一心だった。
「でも、戻れなかったのよね」
「うん。でも。きっと心の隅のどこかでずっと思っていたんだ」もしかしたら、いつか。いつかまた空から船が降りてきて、僕を迎えに来てくれるんじゃないかって。
私は少し、思った事を聞いてみた。
「それは、今でも?」 彼は微笑む。
「何か不思議な物を見たり聞いたりすると、覚えて置かなくてはって、思うんだ」
今でも。
私はジュースを飲みきると、立ち上がってゴミ箱に缶を捨てた。カランと乾いた音を立てて底に落ちた。
「何か、面白いものはあったの」
「あったよ、空には無いものが沢山」だから、嫌いにはなれないんだ。と彼は言う。
彼も立ち上がり缶をゴミ箱に入れた。風が吹いて、山の木々がさわさわと擦れ合う音が私たちの空間を被った。もしチトを見つけたら、首輪を外しておいてあげてくれるかい。と彼は言った。頷いて、空をまた見上げた。
もし彼が帰ったら、まず。何を一番に話すのだろう。その中に、私はいるだろうか。
夏休みも中盤に差し掛かった頃、私はヒトネの家の場所を知った。家の中までは入らなかったけれど、それは普通の木造平屋だった。仮りにも王子様だというのに、私より質素な生活環境だと思った。彼はいつでもおいでと言ってくれたけれど、一体どういう理由があれば訪ねていいのか分からずしばらく悩んでいた。けどこの度、私はもう一度マドレーヌを作って彼に食べてもらおうと、ようやく迷う足を彼の家の前にまで運んだ。そこで私は見知らぬ一人の老人と出会った。
「ヒトネ君にご用ですか」老人は私を見つけて、優しい表情でそう言った。
「今いませんか?」
「せっかく来ていただいたのに申し訳ないのですが、今ヒトネ君は少し出かけているみたいなんです」老人は心から申し訳なさそうにそう言うと、すぐに戻って来ると思うので中で待ちますか、と言ってくれたが、私は断ってすぐにその場を離れた。恐らくあの人がいつかヒトネの言っていた世話役の老人なんだろうと思った。とても優しそうな人で、私はどこか安心していた。ヒトネがこの世界に来て、ずっと一人で泣いていたんじゃないだろうか、ずっと一人きりで空を見ていたのではないだろうかと思っていた。けれど、あんなに素敵な人が今までずっと傍にいて、きっと一緒に空を見てきてくれていたのだろうと思うと、何だかとてつもなく胸が暖かいものでいっぱいになった気がした。
ヒトネの家から自宅に戻る途中、バッタリとヒトネと出会った。ヒトネは嬉しそうに私に手を振った。私も何だか嬉しくて、持っていたマドレーヌを忘れて思い切り手を振った。
このマドレーヌを食べて笑顔になる彼の顏を見たかった。そして、是非。さっきの優しそうな人と一緒に、食べて欲しくなった。
ねえ、この夏が終わっても。もし嫌でなかったら、これからも一緒にどこかへ行ってくれない。秋がきて、冬がきて、春。それを繰り返していつか学生でなくなったとしても。ずっと…。
そう、願ってやまないのよ。でもそれは、やっぱり無理だったのね。