外の世界
夏休み前日、私は彼の世界の事を沢山聞きたかったけど、我慢した。夏休み、私は彼を遊びに行くのに誘った。そして彼はそれを受けてくれた。時間は沢山あるのだ。焦る事はない。終業式が終わって、私は彼と一緒に帰った。しばらく曇っていた空は綺麗に晴れ渡り、うっすらと鼻の頭に汗をかいた。
「夏休み、どこに行こうか」そう言った彼は、これから夏休みを楽しもうとする普通の高校生のようだった。一体どこが王子さまだと言うのだろう。夏休みにはまだ入っていないけど、私は彼に少しだけ聞いてみる事にした。
「どうして、私がヒトネ君の故郷を見た事あるって、思ったの」私のその質問に彼はちらっとこちらに視線を向け、またすぐに前に戻した。
「葵さんの空を見上げるその目に、よく映っていたから」そう言って彼は笑った。私は驚いて、嘘。と呟いた。彼はすぐに「ウソ」と言ってまた笑った。完全に騙された私は少し頬を膨らませた。
「でも少し本当」と彼は言った。「葵さんの空を見上げるその瞳は、何かを探しているように見えたから」彼にそう言われて、少しだけ納得した。確かに私は、いつも顏を上げて空を見ているようで、もっとその先を見ようとしていた気がする。その先は、きっとあの世界。
「それにしても、本当によく私がいつも空を見ているなんて気がついたね」少し照れて声に抑揚がついた。彼は微笑む。
「よく、見ていたから」彼のその一言に、私は次に何も言葉が出てこなかった。誤魔化すように軽く笑ってみた。不自然だと自分でも分かる。けど、精一杯だった。
夏休みに入って、家に居ても仕方が無いと近所をただ目的も無く歩いていた。その間、いつヒトネを誘って遊びに行こうか、どこに行こうかなんて事を考えていた。だから余計に驚いた。彼が目の前をもの凄い速さで駆け抜けて行ったからだ。けれど目的地の定まらないのか、彼の足はもつれて今にもこけてしまいそうだった。
「ヒトネ君」私の声に気がつかないのか、彼はまだ一人ぐるぐると走り回っている。私がお腹から出した大きな声で「ヒトネ!」と叫ぶと、彼はピタリと止まってゆっくりとこちらと見た。
「どうしたの、何があったの」
「……チトが」彼の焦点の定まらない瞳はかろうじて私に向けられていた。声が少し震えているようだった。「チトがいなくなったんだ」言い切って、彼は辺りをキョロキョロと見渡し、また走りだそうとした。私は急いで彼を止めた。
「チトって誰、いなくなったのなら私も探すから、教えて」動揺している彼と正反対に、私はハキハキと一つ一つしっかりと口に出して言った。彼は私の目を見て、そして小さく「うん」と呟いた。
チトはネコの事だった。黒くて緑色の首輪をしたネコだと言う。
「ネコならそのうち帰ってくるものじゃないの」と言うと、彼は力無く首を横に振った。
「チトは外の世界を知らないんだ、体が弱くて、生まれてからずっと家にいて、外には一度も出た事なんてなかった」チトは家以外の世界を知らない、外なんかに出たら独りきりになってしまう。と言った。
その場にしゃがみ込み、うなだれる彼を見下ろして、私は思っていた。きっと、そのチトと言うネコはもう二度と帰ってくる事はないのだろう。
後日、前回と同じ場所で彼と出会った。チトは帰ってきたかと聞いたら、彼は少し残念そうに首を横に振った。
「もう帰って来ない気なんだ。外の世界が、気に入ったんだ」
「ヒトネは、嫌い?」
そう聞くと、彼は空を見上げた。「好きになりたい」と言った。彼の言う外の世界はきっと地上の事なんだろうと思った。
「ねえ、山に登らない」不意に、すぐそばの山に行ってみたいと思った。いつも家から見える山だったが、沖縄に来てから一度も登った事が無かった。
「あの山なら、一度登った事があるよ」
「この世界の私がまだ登った事ないのに、何故ヒトネが登ってるのよ」と笑った。彼も笑う。「地上に降りたその日に、登ったんだ」と彼は言った。
傾斜の緩い登山道を、私達はひたすら登った。蝉の鳴き声が四方八方から降り注いでくる。しばらく無言で歩いていたが、途中彼が一人で話し出した。
彼には双子の兄弟がいると言った。兄の名前はイツネと言って、頭も良く出来た人物だったらしい。けれど、空の世界の王は神聖な存在で、唯一無二の存在として崇められる存在だった。なのに、そこに双子の王子が生まれてしまった。
「もしかして、それでヒトネは空の世界からこっちに?」と私が聞くと、後ろを行く彼は足場を確かめるように下を見つめたまま、そう。と答えた。
「でもそんな事知らなかったんだ。十歳になって、お祝いにただ地上の世界に遊びに来ただけだと思っていた」
初めてはかされた靴下と靴が、なんだか気持ち悪くて嫌だったけど、ここにいる間だけならって我慢した。けれど僕を連れてきた小さな船はそのまま帰っていった。僕と世話役の老人だけを残して。僕は慌てて走った。気持ちの悪い靴を脱ぎ捨てて一心不乱に空へと帰ってゆく船を追って。
「その時、空に近いこの山に登ったんだ」
「それで、船は」
「すぐに見えなくなった」
足には今まで味わった事の無い痛みが走り、擦り傷と切り傷で真っ赤になっていた。その後を追ってきた世話役の老人に、無理矢理靴をはかされて、ここで生きていくんだと言い聞かされた。
山の中腹まできた所で、ベンチを見つけて二人で座った。町の景色が少しだけ顏を覗かせていた。
「帰りたい?」私がそう尋ねると、彼は何も答えなかった。代わりに、チトもこの山を登ったかな。と呟いた。