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特別

 

 5時限目が始まろうとした時、教室で彼が私にノートを差し出してきた。

 「ありがとう、助かったよ」

 「そっか、よかった」毎回思うけれど、私が彼と言葉を交わすと、出てくる言葉はどれも淡白なものばかりになった。菜々美達と話す時のように、声に抑揚をつけてみたり冗談のような口調で喋ってみたり。何故だかどれも彼の前では無意味に感じられた。

 「あのさ、吉名さん―」彼が何かを言おうとしたけれど、私はすぐに席について彼に「次は日本史だね」と軽く微笑んだ。彼も微笑み返した。

 放課後になり、掃除の時間になった。掃除が終わったらすぐに帰ろう。きっと速足で行けばバスの時間も間に合うはずだと何度も自分に言い聞かせた。ごみ箱を手に、焼却炉まで足早に向かった。焼却炉にゴミを投げ込み鉄の蓋を締めようとした時、遠くからそれに待ったをかける声が聞こえて振り返った。遠くから走ってくるのは彼、羽庭ヒトネだった。

 「家庭科室のごみも溜まっていたから、僕が」彼は少し息を切らしながら笑顔を作った。その笑顔に私はぎこちなく笑顔を作った。同じようにごみを焼却炉に入れ、今度こそ蓋を締めた。ごうごうと炉の中でさっき放り込んだ紙くずや埃が燃えていく音がする。少しの間、二人でその音をただじっと聞いていた。次に彼が口を開いた時、私は咄嗟にバスが出ると言って踵を返していた。そして、向いた先に立ってこちらを見ていた人物に目を丸くした。

 「ぶるっちじゃん。何々、同じクラスの人デスカー」菜々美の黄色い声が耳に響いた。彼は微笑んで菜々美に挨拶をした。お昼に話したから分かっているはずなのに、菜々美はわざと知らないふりをしている。これは私に紹介させようとしているのだとすぐに分かった。

 「私ぶるっちの友人のー。あ、ぶるっちっていうのは吉名さんのあだ名なんですけど、名前が葵っていうからブルーのぶるっち。笑えますよね」

 菜々美は絶えず彼に話しかけ続けている。笑えると分かっていて菜々美は私に今もこのあだ名で呼び続けているのだ。分かってはいたけれど、本人の前で堂々と言えたものだと、私は何も返さずただ黙って菜々美と彼とのやりとりを、と言っても菜々美が一方的に話しているだけなんだけど、それを見ていた。

 「てかぶるっちさ、さっきバスがどうとか言ってなかった。帰らなくて大丈夫」菜々美はきょとんとした表情を私に向けて言った。私は、そうだった。と言って、そっけなく二人のどちらにでも無く、じゃあと言ってその場から去ろうとした。

 「吉名さん」耳を擽る、彼の声がした。

 「また、時間あったら一昨日みたいに話そう」それだけ。と彼は言った。走り去ろうとする私の背に向けて彼が言ったのだ。私はゆっくり振り返った。彼の横に、明らかに不機嫌で不満たっぷりな顔をした菜々美がいた。けど、それがどうしたと言うのだろうか。今、目に入るのは彼の少し焦った表情だけだった。ずっと、言おうとして言えなかったその一言を。菜々美の会話を振り切ってまで言ってくれたのだ。

 「うん」

 私は今日、一番の笑顔だったんじゃないかと思う。そしてその肯定的な返事は。絶対的な私自身の言葉だった。「うん、また、明日」私は彼に、彼にだけそう言って、軽快な足取りでバス亭まで駆けて行った。

 菜々美の事なんてもう考えられなかった。明日、彼にまた会える事だけしか、もう頭になかった。


 もちろん、考えなかったわけじゃ無かった。次の日、休憩時間に二人は私の所へは来なくなっていた。でも辛いとはさほど感じなかった。けれど、それを私以上に気にしている人がいた。彼は休憩時間に一人でいる私を見て、何かを悟ったようだった。

 「僕は、吉名さんにとても酷い事をしてしまったんじゃないだろうか」彼は本当に困った顔をして私にそう言ってきた。その表情が本当に困った人の顔そのもので、私は思わず吹き出してしまった。彼がこんなにも人間らしい表情をするのが、何だかとても可笑しく思えたからだ。

 それでも、何とか彼を安心させようと私は素直に話した。

 「私ね、無理して誰かと会話するよりも。黙っていても、空を見て過ごしている方が好きなんだ」自分でもよくすらすらと言葉が出てくるものだと思った。きっとそれは心から素直に思っている事を口にしているからなんだと思う。すると彼は安堵の表情を見せて、また微笑んだ。

 お昼になって、私はお弁当を持って初めて屋上に上がってみた。そこには既に何人もの生徒がいて、それぞれにお気に入りの場所を作ってお昼を食べていた。私はフェンスで角になっている所にゆっくり腰をおろして、持っていたお弁当を広げてみた。いつもより卵焼きが鮮やかに見えた。太陽が近いからだろうか。箸を手に持ち、合掌の手を作り小さくいただきます。と言ってお弁当を食べた。

 「ここにいるんだと思った」

  そう言って羽庭ヒトネは両手にビニール袋をぶら下げ、屋上の入口扉から私を一直線に見た。屋上にいる何人かが彼と私とを交互に見て笑っていた。私は恥ずかしいより、驚きの方が勝ってパチクリと瞬きをした。彼は周りの声も気にせずビニール袋を揺らしながら私の傍まで来て、すとんっと横に座り込んだ。

 「売店で人気のチョコメロンパンが残り一個だったんだ。いつもは諦めるんだけど、今日はちょっと頑張ってみようって気になって。ほら、僕勝ったんだ」

 彼は一気に話すと、誇らしげに少し潰れたチョコメロンパンを私の目の前に差し出した。彼のその表情があまりにも無邪気で、私は何もかもが可笑しく思えて、自然と声を出して笑った。すると彼も、声を出して笑った。


 ビニール袋の中に一体いくつのパンが入っていたのか、気がついた時にはパンの空き袋が沢山転がっていた。見た目に反して彼は意外と大食いなのだと知った。知れた事が、また少し嬉しかった。

 私もお弁当を食べ終わり、巾着袋の中にお弁当箱を片付けていると。しばらく空を見上げていた彼が息を漏らすように口を開いた。

 「本当に、青いな」

 「ん?」何も考えず、普通に返事をしてしまってから気がついた。私を呼んだ訳じゃない。彼は空を見て、青い。と言っただけだ。

  彼は不思議そうに私の顔を見て思い出したように、ああ、と言って微笑んだ。

 「吉名さん、あおいって名前だったよね」

  私は恥ずかしさで顔をそらしたまま、うん。と答えた。葵と呼ばれる事に疑問も持たず普通に返事をしてしまった自分が恥ずかしくてたまらなかった。

 「あおいって、綺麗な名前だよね」彼はそう言った。素直に驚き、そして少しだけ顔が熱くなるのを感じだ。今までにいい名前だとか、可愛い名前などと言われた事はあったけれど、「綺麗な名前」と言われたのは初めてだった。綺麗と言われるのは、とても特別な気がして、私を指し示す特別な言葉なのだと言われたようで、まるで自分自身が特別な存在にでもなったような気がした。

 「ヒトネって、珍しい名前だよね」私は浮かれる心を悟られまいと、話題を彼の事に変えた。「うん、昔はよくからかわれた」そう言って彼は微笑む。

 「じゃあ、その名前は嫌い?」

 「いや、結構好きなんだ。珍しいからこそ、僕だけを表している特別な言葉だって気がして」変かな。と言って彼は私に振り返った。よく珍しい名前を付けられて不満に思っている子を見ると、自分だけの特別な名前なんだってもっと誇りに思って堂々とすればいい。と思う事があった。それでも、つけられた本人にしか分からない葛藤があたりするのだろうと思って口にした事は無かったけど。そんな考えをしている本人が本当いた事が、私は嬉しかった。

 「ううん、私ヒトネって名前好き。ヒトネは、ヒトネの特別な名前だと思う」

 嬉しさのあまり、私は体を乗り出して顔を彼に近づけていた。彼が照れて顔を引いたのを見て、私も気がつき咄嗟に身を引いた。それに私は本人を目の前にして何度も名前を呼び捨てにしていた。

 予鈴が鳴って、私が急いでその場を立った時、彼がゆっくり立ち上がりながら大きく伸びをした。

 「結構好きだったんだけど、葵さんがそう言ってくれると、もっと特別になった気がする」彼がそう言うので、私は持っていたお弁当箱を軽く宙に投げた。

 「私も、綺麗な名前なんて素敵な事言われたの、ヒトネが初めてだ」言って、お弁当箱をキャッチした。本当に、いい天気だ。


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