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仰ぐ

 小さい頃に、一度だけ飛行機に乗ったことがあった。

 

 父親を早くに亡くし、女手一つで私の事を育ててくれていた母が事故で他界して、私は沖縄にいる祖母の所に行くことになった時だ。

まだ小学五年生だった私は母の妹の叔母さんに連れられて飛行機に乗った。その日は雨で、搭乗口に着くまでの道のりが黒く重かった。

 この時私は、目の前の鉄の機体に押し込められて、きっと何も無い地の果てへ連れて行かれるのだと思った。

飛行機に乗って、離陸した際に頭がずんと重くなり、このまま私という存在自体が潰れて無くなるんじゃないかと思った。むしろ、そうなればいいと思っていた。そうなれば、もう何も考えなくていい、何も感じなくていいと思ったから。


 けれど、私の体は潰れることは無かった。体はそのまま存在して、ただ気圧からくる頭痛と気だるさだけが体に残っていた。私はその重い頭を持ち上げて小さな窓を見た。

 とても驚いたのを覚えている。窓の外に広がっていたのは一面の青空だったからだ。話で聞いたことはあったが、本当に雲の上はいつでも晴れているんだと、その時初めて知った。そして私はそこでもう一つ、不思議な光景を目にした。遠くに浮かぶ雲の隙間に、まるでコマのような形をした飛行船を見たからだ。飛行船という表現があっているのかはわからないが、上手い言い回しが見つからないので、今でもそれを私はコマの形をした飛行船と呼んでいる。

 コマというのはもちろん、あの回して遊ぶコマのことだ。下向きにしぼむような台形の形で、少し丸みを帯びていたと思う。けど、それを見たのは一瞬のことだった。それはまるで、私に見られたのに気がついて急いで姿を消したようだった。

 今でもあれは、頭痛のせいで見た幻覚だったのかもしれないと思う時もある。でも、多分現実だったんだと思う。いや、思いたいのかもしれない。

 その後すぐに沖縄につき、空港で待っていた一度も会ったことの無い祖母に痛くなる程抱きしめられて、私はここで生きていくんだと、実感した。


 セミの声が激しく降り注ぐ田舎の小道に座り、私はビニール袋に入った沢山のマドレーヌを取り出して、その一つを口に入れた。マドレーヌは粉っぽくて口の中の水分を奪っていった。決しておいしいとはいえない。

 一口齧ったマドレーヌを口から離し、空を仰いだ。首筋に一筋の汗が流れてゆくのが分かる。そろそろ夏休みに入る。高校生になって初めての夏休みだ。だからと言って何か予定があるわけではない。とりあえず、宿題を早めに済ましてしまおうと思っているくらいだ。

 粉っぽいマドレーヌを再び一口齧り、ゆっくりと顎を動かした。ダマになった小麦粉が割れて少し咽た。鞄からペットボトルを出してお茶でその粉を全て流し込んだ。

 空を見ていると、もう一度空に行きたいと思う。どこに行く訳でもなく、ただ空の上に行くためだけに飛行機に乗って。そのまま再び沖縄に戻ってくればいい。そうしたらもう一度、あの飛行船を見ることが出来るだろうか。

 そんな事を思いながら、残りのマドレーヌを一気に口に頬張って、お茶で流し込んだ。

 「そんなにつらそうにマドレーヌを食べる人を初めて見たよ」

  私のすぐ後ろから聞こえてきた声に振り返ると、見覚えのある男の子が立っていた。同じクラスの男の子だった。けれど今までまともに会話をしたことの無い彼の名前を、すぐには思い出せなかった。そんな私を悟ったのか、彼は「吉名さんの斜め後ろの席にいる、ハニワです」と優しい声で言った。

 羽庭ヒトネ。思い出して私が、ああと呟くと彼はゆっくり私の横に座った。

 「そのマドレーヌ、そんなに美味しくないの」と彼は私の膝の上に沢山置かれたマドレーヌを指差して言った。調理実習で分量を適当にして失敗させたから、その処理を押し付けられたと言うと、彼は体で笑い私の膝の上からマドレーヌを一つ手に取って思い切り齧りついた。

 「多分粉吹くよ」と忠告した私の言葉が悪かったのか、それとも粉のせいなのか。彼は噴出して咳き込んだ。私はペットボトルのお茶を渡そうかと思ったが、今さっきまで私が飲んでいたそれを渡していいものか迷い、彼が落ち着いたのを見て手に持ったお茶をそっと鞄に戻した。

 「確かに粉っぽいかもしれないけど、食べれないこともないよね」

 そう言って彼が笑ったから、私も笑い返した。

 羽庭ヒトネは、いまいち分かりにくい存在だと思っていた。クラスの男子のようにバカ騒ぎをしている所を見た事がない。かと言って鼻にかかるような孤立した存在でもない。皆と会話をし、少し笑って、授業を受ける。そこにいる存在。

 分かりにくい存在である彼を、私は自然と避けていた。自分で言うのも何だと思うが、私は変にプライドが高く、誰かから小バカにされたり嘲られる事を極端に嫌っていた。だから私はいつも自分からお調子者の人間を演じていた。そんな私を笑われてもバカにされても、笑われているのでない、笑わせているのだと思うようにしていた。

 けれど、彼はそんな単純な存在ではないと心のどこかで思っていたのか、彼に対してはお調子者を演じることは出来なかった。きっと何をしても見透かされてしまいそうで、無意味に思えたんだと思う。

 だから今こうして話していても、どうにも上手く言葉が出てこなくて少し困った。何を言っても彼には見透かされているような緊張感があったからだ。

 「吉見さんはよく空を見上げているよね」

 「え?」と自分でも間抜けだと思うような声が出た。彼の口からそんな言葉が出てくるとは全く予想だにしなかった。そんな間抜け顔をした私に、彼は人差し指を軽く空に向けて再び私に微笑んだ。

 「うん、そうだね。見てるかもね」

  とてもぎこちない返事をしたと思った。けど彼は気に留めず、またすぐに続けた。

 「空には何かある?」

 「何かあればいいなって、思っているかも」

 「ここは嫌?」

 「ここって、地上?」

 「うん」

 「嫌じゃないよ」でも。と私は続けた。「たまには上を見上げてみて、そこに何かあるんじゃないかって思うと、ここでもやっていけるような気になるから」

  全てを言った後で、急に恥ずかしくなった。一体何をベラベラと、今までまともに会話もしたことの無い人に話しているんだろうと、顔が熱くなった。でも彼は笑わなかった。彼は顔を空に向けて、そうか、と呟いた。

 「思っていれば、ここでもやっていけるのか」そうか。とまた最後に小さく呟いた。そう言った彼の横顔は、爽やかに見えて、少しだけ、悲しそうにも見えた。


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