そばにいてもいいですか。
この物語はフィクションです。
前作があります。ご注意ください。
単品でも読める物語にはなっていると思いますが、前作【夢を見てもいいですか。】【笑ってもいいですか。】も読んでいただくと、内容がよくわかるのではないかと思われます。
なんとでも言え。
どうとでも捉えるがいい。
なにを言われどう思われようとも、その出逢いはあまりにも衝撃的であったのだと、女王ユゥリアは断言する。
明朗快活なユシュベル王国夫妻の第一子として産まれたユゥリアは、幼い頃から王となるべく教育を受けていた。もちろん弟や妹はいたので、同じように教育を受けていたのだが、弟は植物学という学術へ、妹は音楽という芸術へ、それぞれ早くに方向を定めて動いてしまっていたので、なんの取柄もなかったユゥリアは残されてしまったのである。持ち合わせていたものといったら、自分についた教師の問いに、瞬間的に答えられる頭脳だけだった。それを両親に言わせると、ユゥリアは産まれたその瞬間からすでに王になるべくした運命にあるのだとか。
しかしながらユゥリアは、もちろん面白くなかった。なにかを楽しいと思えたことがないのだ。弟や妹のように、打ち込めるなにかが欲しかった。だがいくら探しても、それは見つけられなかった。
そんなある日だ。
ユゥリアは、見た。
大荒れの嵐の中、ユシュベル王国に仕えていた大魔導師の葬儀が行われた夜のことである。
誰もが黒衣に身を包み、大魔導師の死を悼んでいた。大魔導師は、たまたま立ち寄った街で、盗賊に襲われた住民を庇って亡くなったのだという。大魔導師はまだ若かった。四十に届こうかという年齢だった。それでも大魔導師という称号を持ち、王国の魔導師団の次期師団長に期待されていた人だった。
関係者は、皆が悲しんでいた。悔やんでいた。ユゥリアの両親も、大魔導師の死をいたく悲しんでいた。ユゥリア自身も、その大魔導師には教師をしてもらったことがあっただけに、悲しくて寂しかった。それに、その大魔導師には、なににも打ち込めないという悩みを聞いてもらったり、相談したり、ときには雑談で笑い合ったりもしていただけに、やりきれない気持ちがいっぱいだった。
「どうして逝ってしまったのよ……イーヴェ」
ユゥリアは、棺の中で、今にも起きそうな顔で眠る大魔導師を見つめた。涙があとからあとから流れてくる。拭ってもこぼれてくる涙を、ユゥリアはいつ頃からか拭わなくなった。
黒衣の者たちが大嵐の中しくしくと悲しみ、棺の蓋が閉じられ、埋葬のためにと運ばれていく。
魔導師の埋葬は魔導師が行うと決められていたので、荼毘に伏すのは宮廷魔導師団の者たちの役割だ。運ばれていく棺を、あとから魔導師がぞろぞろと追う。先頭を歩くのは、大魔導師に期待していた魔導師団長だ。ユゥリアや両親、大魔導師を慕っていた者たちも、そのあとに続く。
大魔導師の棺が、荼毘に伏すために整えられた円形状の広場の、その中央に鎮座した。
支柱が四方に建てられ、覆うように屋根があるだけの広場は、この場を守護する魔導師たちの力で大嵐の天候の影響をまったく受けつけない。けれども、轟く雷鳴は明瞭だった。
「大魔導師イーヴェ・ガディアンを、天へお返しする」
魔導師団長が、そう述べて相図する。
棺を師団に所属する魔導師たちが囲んだ、そのときだ。
一際大きな雷鳴が轟き、一気に肌寒くなる。
そうして。
雨音が、止んだ。
代わりに、こつ、こつ、こつ、と靴音が響く。
ユゥリアは振り向いて、突然の来訪者を見た。
「おまえは……っ」
魔導師団長が、驚いた様子で、来訪者を見やった。
ユゥリアも、驚いた。
「堅氷の魔導師……?」
魔導師というものは、得てして暗色が好まれる傾向があるユシュベル王国で、突然現われた来訪者の魔導師は、真っ白だった。いや、老人のように色を失った真っ白な髪を、持っていた。
噂で聞いたことのある、堅氷の魔導師だとすぐにわかった。
魔導師のなかでも異色、或いは異形、或いはバケモノ、そう比喩される魔導師が、堅氷の魔導師。
彼は宮廷魔導師のひとりだ。だが、その実像を知る者は実は少ない。理由は簡単だ。宮廷魔導師のくせに、城にいることが珍しく、常に行方が掴めない放浪癖があるせいだ。
ユゥリアはこのとき、初めて堅氷の魔導師に逢った。噂で聞いた白い髪から、きっと老人なのだろうと安直に考えていたが、しかし彼はとても若かった。いや、幼かった。ユゥリアより、実に五つは歳下に見える。堅氷の魔導師が大魔導師の師だというのは勘違いだと、そのとき漸く気づいた。それほどまでに若い魔導師だった。
そしてなにより、堅氷と謳われるほどに冷え冷えとした、だが美しい魔導師だった。
「……下がれ、ロルガルーン」
堅氷の魔導師が、低い声で、魔導師団長に言った。冷たい森色の瞳が、睨むように大魔導師の棺に向けられる。
「下がるのはおまえのほうじゃ。イーヴェはわれわれで天にお返しする」
「イーヴェを殺すのはおれだ。そう約束した。おまえらに殺させやしない」
堅氷の魔導師は、詠唱も練成陣もなく、ただ腕を横に振っただけで、突風を巻き起こした。その風は棺を取り囲んでいた魔導師団の者たちを直撃し、魔導師団長を含めた者たちを遠ざける。
「やめぬか!」
「おれは下がれと言った」
堅氷の魔導師は再び腕を横に振る。突風は魔導師団の者たちを棺からさらに遠ざけ、またユゥリアたちにもその余波がくる。控えていた近衛騎士たちにも、もちろんその余波は渡り、騒然となった。
「王陛下の御前であるぞ、堅氷の! イーヴェだけでなく、王陛下までも愚弄する気か!」
魔導師団長の怒声が広場に反響する。少しは気にしたのか、堅氷の魔導師がちらりとユゥリアたちを見た。
その、瞬間。
ユゥリアは、深い森色の瞳に魅入られた。
なんて悲しい瞳をしているのか。
なんて寂しげな瞳をしているのか。
なんて、切ない瞳をしているのだろう。
胸が詰まるほどの、それは苦しい想い。
感じられたのは一瞬だったが、堅氷の魔導師の想いを、ユゥリアは確かに感じた。
だから。
「下がらぬか、堅氷の!」
魔導師団長が怒鳴り、堅氷の魔導師が腕を振り上げたそのとたんに、ユゥリアは飛び出していた。棺の前で立ち止まり、堅氷の魔導師の風から魔導師団の者たちを護るように、両腕を広げる。堅氷の魔導師が放った風は、ユゥリアに直撃しようとした。
しかし。
風は、ユゥリアの頬をふわりと掠めただけで終わった。
ユゥリアは目も閉じずじっと、深い森色の瞳を見据える。
誰もが、ユゥリアの突然な行動に驚愕し、固唾を呑んで緊張していた。
そんな中で。
「……邪魔だ。退け」
堅氷の魔導師は、冷たい声音でユゥリアを脅してくる。けれどもユゥリアには、その声音が戸惑っているようにしか聞こえない。道に迷い、途方に暮れた子どものような声にしか、聞こえない。
その無表情も。
もはや泣いているようにしか、見えない。
なんて不器用な子だろう。
なんて、一途な子だろう。
こんなに切なくなる想いは、初めてだ。
どこから湧いてくるのかわからないこの感情、抱きしめてやりたいというこの衝動。
羨ましいと思う、その羨望。
「わたくしが愛してあげる」
ユゥリアは口を開く。
「わたくしが、あなたを愛してあげる」
「……なんのことだ」
「だから認めなさい、堅氷の魔導師」
「おれはイーヴェを殺しにきただけだ。そこを退け」
語尾が、震えていた。
ユゥリアは広げていた両腕を下ろすと、一歩、また一歩と堅氷の魔導師に近づく。すると堅氷の魔導師は、怯えるように半歩後退した。
「そこを……退け」
「イーヴェは死んだのよ」
堅氷の魔導師は、ユゥリアの直接的な言葉に、ぎくりと身体を強張らせた。
「街の住人を庇って、護って、イーヴェは死んだの。あなたが殺したくても、もうどうにもならないのよ。いくら大魔導師のイーヴェでも、生き返ることはないわ」
「……おれは、イーヴェを」
「もう殺せない。死者は生き返らないのだから」
ただでさえ真っ白な肌が、強張ったせいで青白くなり、そして深い森色の瞳を不安げに揺らす。
ユゥリアは手を伸ばし、その頬に触れた。
とても、冷たかった。
「泣いていいのよ、堅氷の魔導師……いいえ、カヤ」
ユゥリアは見つめる。深い森色の瞳に見下ろされても、目を逸らさない。
「イーヴェは、カヤの師……あなたにとっては、唯一の家族だった」
「……イーヴェ、は」
「悲しいわね、カヤ。寂しいわね、カヤ。わたくしも、悲しくて寂しいのよ」
両手で頬を包み、瞳を揺らし続ける堅氷の魔導師を、ユゥリアは見つめ続ける。涙腺が弱くなっているので徐々に視界は霞んできたが、それでも堅氷の魔導師から目を離さなかった。
「わたくしが愛してあげる……だから、もう、泣いていいのよ」
素直に泣けばいいのに、それもできないほど不器用な魔導師だ。ユゥリアが涙をこぼすと、きゅっと目を細めて、少し俯く。かくんと崩折れて、一緒に膝をついたユゥリアの肩に、もたれかかってきた。
言葉はもうない。
大魔導師を殺すのだという、その意思も消えていた。
ただ一言。
「イーヴェ……」
悲しくて、寂しくて、どうしたらいいのかわからないという、弱々しい声で、堅氷の魔導師は師であった大魔導師の名を呼ぶ。
少ししてユゥリアの肩から顔を上げた堅氷の魔導師は、そろりと腕を上げ、大魔導師が眠る棺に手を伸ばした。
「天に安らぎを、地に恵みを……われらが至上の世界に」
詠唱は、堅氷の魔導師が掲げた手のひらから、棺に向かう。それは白い炎となり、棺を包んだ。
誰もが、息を呑んで、その光景を見つめる。これまで見たことのない、美しい白火だった。
こうして。
大魔導師イーヴェ・ガディアンの葬儀は、弟子であった堅氷の魔導師の浄火を以って、終わりを告げた。
ユゥリアは、そのとき一粒だけの涙を、頬に感じた。
堅氷の魔導師が欲しいと思ったのは、この日からのことである。
打ち込めるなにかを欲していたユゥリアにとって、それは反動のように押し寄せてきた。それほどまでに、衝撃的な出逢いとなっていたのだ。
* *
ユゥリアは走る。想い人を捜して、城を走り回る。けれども想い人は走らない。ユゥリアを捜していないからだ。
「カヤ!」
姿を見つけて呼ぶと、重そうな書物を持ったカヤは振り返る。相変わらず無表情だが、深い森色の瞳は穏やかだ。
大魔導師の葬儀のときはとても幼く感じたカヤは、やはり年齢はユゥリアより三つほど歳下だった。しかし成長期であったようで、あっというまに背は伸びた。僅か半年で、ユゥリアが見上げなければならないほどに目線が高くなっている。顔つきも、幼さが抜けてきていた。
「聞いて、カヤ!」
想い人の魔導師カヤに駆け寄りながらユゥリアは話しかけたが、振り返っただけですぐに正面を向き直ったカヤは、すたすたと歩いて行ってしまう。
「カヤ、待ちなさい!」
そう制止をかけても、カヤの足が止まることはない。
「カヤ・ガディアン!」
腹が立って思いきり名を叫んでも、やはりカヤが振り向くことはない。仕方ないので足を速め、前に回り込んだ。
「カヤ、話があるのよ!」
道を塞げば、必然的にカヤの足も止まる。冷え冷えとした双眸が、ユゥリアを見下ろした。しかし怖くはない。不器用なこの魔導師は、表情を作る筋肉の使い方を知らないのだ。睨んでいるように見えるのは、実は視力がほとんど役立たずだという身体的機能の問題によるものだった。
「……邪魔だ」
ユゥリアをしばし見つめたカヤが発したのは、その一言。
「邪魔をしているのよ」
言ってやると、ぴくりとカヤの眉間が動く。
「……おれになんの用だ」
「話があるの。あなたに聞いて欲しいのよ。だからつき合いなさい」
「おれには仕事が」
「書類整理なんていう罰でしょう。数か月も行方を暗ましていたのだから同然ね」
「……忙しいんだ」
「その罰をたった今、享受したことにしてあげる。わたくしにつき合いなさい」
来なさい、と強気に言えば、書類整理などという退屈な罰には厭き厭きしていたらしいカヤは、素直にユゥリアの後ろをついて来た。
カヤが、実はとても自分の思惟に忠実であることを、いったいどれだけの人が知っていることだろう。
いや、多くの人が知っているかもしれない。数か月おきに行方を暗ませ、また数か月すると帰ってくる放浪者だ。
しかしユゥリアは、この青年になりきれていない魔導師が、多くの人たちを気遣ってそうしているのだと、気づいていた。彼の自由気質は、半分は自身で生んだ癖ではないのだ。
異色、異形、バケモノ。
そう比喩されるこの堅氷の魔導師が持つ力は、ユシュベル王国随一の強大なものだ。
一か所に、それも王宮に留まり続けることなど、できようものがない。強過ぎる力はときに利用され、要らぬ争いを巻き起こす。
堅氷の魔導師カヤ・ガディアンは、それをよく理解していた。
「……どこまで連れていく気だ」
「どこまでも」
ふっと息をついて、ユゥリアは立ち止まる。
カヤを見つけた場所は魔導師団の研究施設がある場所だったが、そこを上に歩くと王宮に繋がり、下に歩くと城下へと降りられる造りになっている。ユゥリアは後者の道を進んでいた。
道と言っても、研究ばかの魔導師がいるせいで変わった植物が乱雑に育っているために、まともな道はない。ただ、ユゥリアが進んでいる方向は、もう少し先に行くと城下を見渡せるとても素敵な場所だ。
さてなにから話そう。
話したいことはたくさんあって、なにから話せばいいのかわからない。
「ユゥリア?」
その呼び声に、はっとユゥリアはカヤに振り向く。
「やっと憶えてくれたわね」
カヤに呼んでもらえたのは、初めてだ。名を教えて、憶えているはずなのに、呼んでくれたことがなかったのだ。
嬉しくて、そして切なくて、ユゥリアは微笑む。
「もう少し先よ。ついて来て」
そう言うと、ユゥリアはカヤの手を取って引っ張る。なにかを言われる前にずんずんと歩いて、お気に入りの場所へと到達した。
「今日はとても天気がいいわ。城下がよく見渡せる」
見渡す限り広がる、自分の国。眼下の城下は、今日も賑わっているようだ。
「ねえ、カヤ……」
ユゥリアは、隣のカヤに視線を投げる。深い森色の瞳を細めたカヤは、ただ静かに城下を見渡していた。
その立ち姿に、胸が締めつけられる。
手を強く握っていないと、ふらりとどこかに行ってしまいそうだ。
「カヤ……」
強く呼んで、手を引っ張る。
「……なんだ」
ユゥリアに気づいたカヤは、小さく首を傾げた。
話そうと思っていたことが、咽喉まできているのに、詰まってしまう。
「わたくし……この国が好きなの」
「ああ」
「カヤは? カヤも、この国が好き? ユシュベルを、大切に思ってくれている?」
問いは、カヤの視線を城下に戻した。
「……たぶん」
カヤの返答は短く、またそれ以上のことがない。
だが、今はなんとなく、それでも充分だ。
話そうと思っていたことはたくさんあるのに、それだけで、ユゥリアは満足してしまう。もっとなにか、なんでもいい、たくさん会話をしたいとも思う中、それ以上のことを望むのが怖いとも言える。
これでもユゥリアとて、どうすればカヤに関心を持ってもらえるのか、研究しているのだ。どうすれば好きになってもらえるのか、どうすれば嫌われないか、いろいろと考えているのだ。
本当は、まだ繋いだままの手のひらが、いつ離されてしまうのかも気にしている。手を離されてしまうのはいやだと、思う。
けれども。
カヤは、けっこう鈍感だ。
ユゥリアが実はずっとどきどきと緊張しているのに、なんでもないかのようにさらりと、なにごともないかのような無表情のまま。いくら表情筋の使い方を知らなくても、なにかしらの変化はあるはずなのに、それは少し、いやかなり、残念な反応でもある。
はあ、とユゥリアは小さく息をつく。
残念な反応しかなくても、それでもまだ、もっと、カヤに興味を持ってもらいたいと思う自分がいた。つまり諦められない。
これが好きという感情なのだろうと、ユゥリアはひっそり笑う。
「ユゥリア」
「……あ、なぁに?」
「迎えだ」
「え?」
カヤが後方を見ていた。ユゥリアもそちらを向くと、呼ぶ声が聞こえてくる。近衛騎士をまいてカヤを捜していたので、早々に見つかってしまったらしい。だが、彼らが来るまでにはまだ時間がある。
自然に離されかけた手を慌てて繋ぎ直すと、ユゥリアは深い森色の瞳を見上げた。
「カヤ。もしわたくしが、どこか遠くへ連れて行ってと言ったら、連れて行ってくれるかしら」
「? きみは王女だ。望むなら、どこへでも行けるだろう」
「違うわ。あなたがいいの。あなたが連れて行って」
カヤの表情は動かない。けれども、その分なのか、瞳は随分と素直だ。困惑しているのか、僅かばかり揺れている。
その反応を得られただけでも、今日は幸せだ。
「ユゥリア王女殿下ぁ―っ」
ちょうど、近衛騎士が自分を呼ぶ声が近くなった。この場所を捜し当てられるのはいやなので、ユゥリアは自らの足で、その場を離れることにする。もちろん、カヤと手を繋いだままだ。
「行きましょうか、カヤ」
手を引っ張ると、抵抗なくカヤは引っ張られてくれる。
また明日、カヤを捕まえて話をしよう。魔導師団の任務が入るまでは城にいてくれるカヤだ。任務さえ入らなければ、行方を暗ますこともない。
また明日がある。ほんの僅かでも、逢える時間がある。
少しずつでいい。興味や関心を持ってもらおうと、ユゥリアはカヤの薄い反応に負けることなく微笑みを浮かべた。
* *
それから数か月が経って。
「おまえはあの魔導師を好いておるのか?」
唐突な問いは、父王から寄越された。
「あの魔導師? どの魔導師かしら。わたくしがお慕いしているのは、カヤ・ガディアンよ」
ユゥリアは臆面もなく、父王に告げる。
「魔導師だろうが、あれは」
「ただの魔導師ではなくてよ、お父さま」
「まあ……イーヴェの遺し子ではあるが」
「違うわ。カヤはわたくしの想い人、わたくしが愛してあげる人よ」
「……おまえ、だんだんアウリに似てきたな」
「お母さまの子でもあるもの、当然よ」
「そ、そうか……」
顔をいくらか引き攣らせた父王は、今日はひとりだ。どうやら母の機嫌を損ねたようで、だからこうしてユゥリアのところにいるわけだが、ユゥリアにははた迷惑なことだ。
「父に向かってはっきりと言うのは、どうかと思うのだがな」
「あら、直接的に訊いてきたのはお父さまでしょう。だからわたくしもきちんとお答えしたのよ」
さっさと母のところへ帰ってくれないだろうか、とユゥリアの態度はつんけんしたものになるが、父王がそれに怯むことはまず滅多にない。唇を歪めて、面白くなさそうに、不貞腐れたような子どもになるだけだ。
「……あまり情を寄せるな」
「それはどういう意味かしら」
「おまえは王女だ。いずれは、われの跡を継ぐことになる」
「それとカヤのことと、なんの関係があるのかしら」
「苦労するぞ」
「もうしているわ」
「……もっと、苦労することになる」
父王が、急に真面目な顔をした。
「あれの力は、イーヴェを遥かに凌ぐ。いや、史上もっとも強大かもしれぬ。いつあちら側へ行くかわからぬ小僧だ」
父王の真剣な言葉に、しかしユゥリアは睨みをきかせた。
「行かせないわ。カヤは、わたくしの想い人。わたくしはどうしてもカヤが欲しいのよ。いいえ、カヤ以外は要らないわ」
「……よっぽどだな、ユゥリア」
「なんとでも」
半ば呆れたような顔をした父王から、ぷいっとユゥリアは視線を外す。
「そんなおまえに、いくつか縁談がきているのだがな」
「お断りよ」
「だろうな。だが、どうせ振り向かぬなら、好きにしてもよかろう」
「……はい?」
言葉を解釈できなくて父王を振り向いたら、悪戯っ子のような可愛らしくもない顔をした父王がいた。
「あの魔導師におまえを取られまいとする者たちがいる。われは、好きにせよと言った」
なんて父だ、と思った。
「わたくしで遊ばないでくださいます?」
「どうせおまえは靡かぬ。あの魔導師とて、おまえに靡くとも思えぬがな」
「……カヤが靡かなくても、わたくしはカヤ以外要らないのよ」
「おまえのその心意気、われは眺めることにしよう。アウリもそう言っておったことだしな」
母も共謀していているのか、と思うと、なんてひどいことをしてくれる両親だ、と思う。息子ともうひとりの娘に逃げられたことが、よっぽど悔しいらしい。
「……それなら、わたくしも好きにさせてもらうわ」
「ほう?」
「後悔しないでくださいましね、お父さま」
ふふん、とユゥリアは笑う。
言質というのは、取った者勝ちなのだ。最大限、利用させてもらうことにする。
「では、ごめん遊ばせ。早々にお母さまと仲直りすることね、お父さま」
「む……っ」
最後に父王の思いきり引き攣った顔を笑って、ユゥリアは廊下に出てしまうとすたすたと歩く。いつもついて回る近衛騎士が邪魔でならないが、好きにしていいということなので、今日も近衛騎士をまくべく隙を窺い、そうして駆け出した。
「姫さまっ?」
走るために足許は楽にしてある。近衛騎士が驚いて、またか、とでも言いたそうな顔をちらりと見てから、あとはとにかくカヤの姿を捜した。
しかし、今日は意外なことに、カヤはとても近くにいた。
「カヤ!」
「ぅあ、姫さま!」
びた、と急に止まったユゥリアに対し、後ろで近衛騎士が対応できず転がる。それを無視して、ユゥリアは廊下の窓から身を乗り出した。
カヤは、ユゥリアの幼馴染で友人の貴族と、立ち話をしている。カヤが魔導師以外の人と話をしているのも、そもそも誰かと会話をしているのも珍しい。
「カヤっ!」
ユゥリアは大きな声でカヤを呼んだ。いつものように無視されるだろうかとは思ったが、連日カヤを追いかけているせいか、このところは一回か二回呼べば振り向いてくれるようになっていたので、このときのカヤはユゥリアに気づいてくれた。
「……ユゥリア?」
ユゥリアの目からはカヤの姿がはっきり見えるが、カヤは視力が弱いせいでこの距離ではユゥリアの姿をはっきりと視認できない。首を傾げている姿が可愛い、と思いながら、カヤの隣にいる貴族の少年も呼んだ。
「シャンテ、カヤにわたくしの位置を教えなさい!」
「なにする気ですか、姫さま」
「いいから教えなさい!」
言い終えるとすぐ、ユゥリアは窓の縁に足を乗せる。友人、シャンテはその意図に気づいたらしい。転んでいた騎士も、漸く起き上がってから、その意図に気づいた。
「姫さま、おやめください!」
シャンテと近衛騎士の声が重なったその瞬間、ユゥリアはひらりと窓から、じつに三階の高さから身を投げた。シャンテがカヤに急いでなにか伝えたような姿が、ちらりと見える。
落下の衝撃は、なかった。
代わりに温かな腕の感触がした。
「ユゥリア」
頭上から聞こえる声に、ユゥリアは満足する。
「受け止めてくれてありがとう、カヤ」
落下の直後に感じたのは柔らかな風、それはカヤの力だ。カヤの力が落下の衝撃を吸収し、カヤの腕の中へと導いてくれたのである。もちろんカヤ自身、ユゥリアが落下する地点に駆け寄ってきてくれていた。
「姫さま、ご無事ですか!」
たった今身を投げた窓から、近衛騎士が叫ぶ。答えたのはシャンテだ。
「ご安心を、無事です。カヤさまが受け止めてくださいましたから」
「今そちらに行きます!」
さすがにユゥリアと同じ真似はできなかったようで、近衛騎士は飛び降りてこなかった。
今のうちだ、とユゥリアはほくそ笑み、カヤの手を取る。
「シャンテ、あとは頼んだわね」
「わたしの心臓を壊しかけた代償は高くつきますよ」
幼馴染は苦笑して、ユゥリアを見逃してくれる。
地に足をつけると、とたんにユゥリアはカヤを引っ張って走った。
どれくらい走ったのか、息切れを起こす前に歩調を緩め、王宮内の庭へと辿り着く。
ユゥリアに引っ張られていたカヤを振り向くと、なんとも言いようのない顔をしていた。
「どうかしたの、カヤ?」
「……怪我は?」
どうやら心配してくれているらしい。ふふ、と微笑んで、ユゥリアはカヤの頬を撫でた。
いつかのときのように、いや、大魔導師の葬儀のときのように、カヤの頬は冷たかった。それでなんとなく、急に笑えなくなった。
「怪我は? ユゥリア?」
「だいじょうぶよ。カヤがいるもの」
頬に触れていた手を、少しだけ下にずらして首筋に触れる。どくどくと、心臓の鼓動が強く、そして速く、脈打っていた。
珍しく驚かせてしまったようだ。
「びっくりしたの?」
「……おれは人形ではない」
はあ、とカヤは安堵したような吐息をこぼした。
「カヤ、わたくしは翼種族よ。高い場所から降りることに、恐怖はないの。知っていて?」
「……、忘れていた」
「みんな、忘れるのよね。あまり飛ぼうとしないから、仕方のないことだわ」
もっとも、ユゥリアは窓から飛び降りるとき、カヤに受け止めてもらおうと頭から思っていたので、自分の翼を考えなかった。
王族や貴族の半数は翼種族で、空を自由に飛ぶ翼があるのだが、その翼は王宮では狭過ぎて使うことがない。翼種族の貴族が半数になってしまったのも、そういった事情から翼が退化したせいだと言われている。いや、翼種族は、退化によって数を減らしているのだろう。だからカヤのような力を持つ魔導師が、平民からも産まれることがある。つまり先祖返りだ。カヤはその中でも、強大な力を持っていた。
「驚かせてごめんなさい。でも、わたくしは信じているの。言ったでしょう? わたくしはあなたがいいのよ」
「……怪我がないならいい」
素気なく視線を逸らしたカヤは、ユゥリアから少し離れる。
首筋に触れていた手は離れたが、繋いでいた手は離れない。ユゥリアの好きにさせてくれていた。それがとても、嬉しい。連日追いかけ続けた甲斐があった、というものだ。
少しずつだが、日々カヤは、薄かった反応に変化をつけている。
まずは繋いだ手のひらだ。ユゥリアが離さない限り、今のように好きにさせてくれる。そして表情も、僅かだが、出てきていた。
「ねえ、カヤ」
そっと呼ぶが、返事はない。代わりに、ちらりと視線を寄越してくれる。
「シャンテと、なにを話していたの?」
「……城の結界について」
「結界?」
「街にも広げられないかと相談された。そろそろ雨期が近いから」
「できるの?」
まさか、と思わず目が丸くなる。
城は魔導師団が張った結界に護られている。それは天候の差が激しいユシュベル王国の特徴から護るもので、ひどい災害を受けないようにするためだ。いざというときに城に時間を取られては、もっとひどい被害を受けた土地へ魔導師を送ることができないので、そういう措置が取られているのだ。
「基礎はイーヴェが研究して築いた。おれはそこに力を付与させればいい。そう説明した」
「つまり……できるということ?」
「理論上は、できなくはない」
素直に、すごいことだ、と思う。
土地の守護を得て異能を持つ王族でも、さすがに全土を護りきるのは難しい。魔導師団がなければ、異能も役に立たないことが多い。魔導師団あってこその王族の異能は、しかしカヤの手にかかると必要のない力になるようだ。
さすがはカヤ、である。
「それなら、カヤは行ってしまうの?」
「雨期に入る前に、礎に力を付与させる。様子を見なければならない」
では、まだここにいるということだ。少なくとも、雨期の間くらいはいてくれるだろう。
その前に、とユゥリアは心に決める。
「……父に、好きにしていいと言われたわ」
「? なんのことだ」
唐突な話題の変化に、カヤは首を傾げる。その姿は、やはり可愛い。意外にも似合っている仕草だから、可愛いのだ。
「わたくし、好きにすることにしたの。父は口出ししないはずよ」
「……なんのことだ」
「決めたの。わたくしは、いやだから」
あなた以外、要らないから。
その想いは、カヤに通じない。もちろんいきなり口にしたのだから、意味もわからないだろう。
それでいい。
連日カヤを追いかけ続けてわかったのは、カヤが変化を見せていることだけではない。ほかにも、ユゥリアは見つけていた。いくつも、いくつも、カヤのちょっとした仕草を見逃さずにいたから、見つけることができたものだ。
カヤの反応が薄いのは、そういう世界にいたから。
カヤがいつも無表情なのは、そういう世界に置かれたから。
不器用な魔導師は、とても臆病な魔導師なのだ。
だから、ユゥリアは決意した。
* *
カヤが、大魔導師の遺した強大な結界に力を付与させたことで、王都は雨期の災害から完全に護られた。貴族から平民、貧民街の端まで平等に、公平に護られた。よって、魔導師団はそれぞれ、災害地へと早々に派遣された。これから起こるであろう災害に備えて、魔導師団長とその補佐のみを王都に残し、全魔導師は動き出したのだ。
魔導師団のひとりであるカヤもまた、地方へと赴いた。おそらく素直に帰ってこないだろう。数か月、行方を暗ませるはずだ。それは暗黙の了解となっていて、誰もカヤのことを気にかけない。必要になったら捜して呼び戻せばいいだけのことだ。そもそも、カヤは行方を暗ませはしても、国を出ることがない。必ず国のどこかにいる。わかっているから、誰もカヤを気にしないのだ。
しかし。
「姫さま、お具合が?」
「少し……今日は休んでいるわ」
「医師を呼びましょう。風邪かもしれませんわ」
「……そうね。お願いするわ」
ユゥリアの体調不良は、侍女を通して連れて来られた医師によって、明らかにされる。
診断は、懐妊、である。
知らせは、須らく父王へと伝えられた。
「ユゥリア、おまえ……もしや」
ユゥリアは父王に笑む。
艶然と、晴れやかに。
「好きにしていいと言ったのは、お父さまよ」
「だが、それは……」
「言ったでしょう? わたくしは、カヤ以外要らないの」
「あの魔導師との子か!」
してやられた、という顔をした父王は、深々とため息をつくと項垂れた。
どうやら後悔しているらしい。ユゥリアがそこまでやるとは、考えもしなかったのだろう。
だが、もう遅い。
ユゥリアを捕えて離さないのは、カヤなのだ。その自覚がなくとも。
「おまえな……あれはまだ成人しておらぬぞ」
「わたくしは成人しているわ。どちらかが成人していれば、婚姻は成り立つはずよ」
「は? 結婚する気か?」
「そのつもりでカヤを襲ったのだもの」
「……、襲った?」
ふふふふ、とユゥリアは笑みを深めた。同時に、父王の顔も引き攣る。このところは父王のそんな顔しか見ていない。
「おまえ、それでも王女か」
「欲しいものは力ずくでも手に入れる、まさに王女ね」
言い返すと、父王はふらりと倒れかかり、侍従がさっと用意した椅子にとすとんと座った。
少し放心していたが、しばらくすると天を仰いで目許を手のひらで覆い、肩を震わせる。
「ふは…っ…はは、さすがは、われの子だ…っ…はははっ」
愉快そうに父王は笑っていた。
そう言えば父王は、母を口説き落として王妃に迎えている。それから考えれば、ユゥリアの行動は父王のそれに似ていると言えるだろう。
「アウリ、聞いたか。ユゥリアはわれとアウリの子だ。混ざるとひどいな」
父王は後ろを振り向き、開かれた扉に向かってそう言った。
「ひどいとは失礼ね。けれど、まあ、確かにひどいかもしれないわ」
苦笑しながら、母が入室する。近くまで寄ってくれた母は、ユゥリアの手を取ると目を細めた。
「いいのね?」
母からの言葉は、それだけだった。
ユゥリアは微笑んで、頷く。
「カヤがいいのよ、お母さま。カヤ以外、要らないの……」
「……そう。仕方ないわね」
母は優しく、頭を撫でてくれる。母のような母になりたいと思った時期があったけれども、今はそうなれそうもないと思った。
この身に宿った命を、ユゥリアは利用する。
カヤを、捕まえ続けるために。
* *
今思えば、とカヤは振り返る。
「ひどいな」
言うと、ユゥリアがきょとんとした。
「なにがひどいのかしら?」
「いや、きみが」
「あら、いつものことじゃない」
否定されなかったことが、なんだか複雑だ。
「おれは、赤子のときのアリヤを腕に抱いていない。サキヤもそうだ」
「今からでも遅くはないわよ?」
さらりと言ってくれるものだ。
「それより、この子の名前は決まったかしら?」
ユゥリアの腕には、産まれたばかりの赤子が抱かれている。アリヤ、サキヤ、タトゥヤ、ナディヤに続く、五人めのわが子だ。
「……よく産むな、きみは」
「もっと産むわよ、あなたの家族だもの。それに、子ども、好きでしょ?」
否定できない。
わが子は可愛い。
「……ハージェヤ」
「ん?」
「その子の名」
「……、ハージェヤ。そう、《輝きの石》ね。可愛らしいわ」
ユゥリアは椅子を立つと、カヤの腕に五人めのわが子、娘のハージェヤを抱かせた。
「首が据わってないの。こう腕を添えて……そう、肩の力を抜くの。不必要に緊張しないで」
眠っているわが子は、抱き方が下手くそなカヤの腕に移動しても、目を醒まさない。なんとなく、ユゥリアの性格をそのまま受け継いでいそうな気がした。
「よかったわね、ハージェヤ。父さまがずっとそばにいてくれるなんて、珍しいのよ」
「……ユゥリア」
「なぁに?」
カヤは片腕でわが子を支えると、もう片方の腕をユゥリアに伸ばす。その頬に触れて、ぬくもりを手のひらに感じる。
「これからも、そばにいていいか」
「なに当たり前なこと言うの」
「違う。もう、どこにも行かない」
「え……?」
「きみから離れたくない」
わが子を間に挟んで、カヤは、ユゥリアを引き寄せる。額と額をこつんと合わせ、すり寄った。
「おれは、きみのものだから……きみは、おれのものだから」
「カヤ……」
「そばにいたい、ユゥリア」
こんなに素直な気持ちを吐き出したのは、初めてかもしれない。いや、ユゥリアが自分のものだと思っていいかと口にしたとき以来だ。
どうもこのところ、長男のアリヤにいろいろと言われるせいか、思考が揺さぶられている。それは気のせいではなく、また願望の抑止ができなくなっているせいだろう。
「わたくしも、カヤのそばにいたいわ。ずっと、永遠に」
するりとユゥリアの腕が首を回って、抱きついてくる。
カヤは、わが子のぬくもりとユゥリアのぬくもりに安堵して、寄りかかって瞼を閉じた。
「きみに出逢えてよかった」
女王ユゥリアと魔導師カヤの出逢いをお届けしました。
誤字脱字、そのほかなにかありましたら、こっそりひっそり教えてください。
拙作を読んでくださり、ありがとうございました。