ニセモノ令嬢の本物の恋
いつか、本物になりたいと思っていた。誰かの真似をする偽物などではなく、ちゃんと胸を張って自分の作品だと言えるような絵を描きたいと思っていた。私が望んだことは、ただそれだけだったのに。
「ヴィヴィアン、今まであんなに絵を描きたいってごねていたじゃない。令嬢らしくないから止めなさいと散々言っても泣き喚いていたでしょう。それなのに絵を描いても良いと許可を出してあげたら、今度は描きたくないなんて。あなたはどうして我儘ばかり言うの?」
「お母さま、私は自分の絵が描きたいんです。ニセモノなど描きたくありません」
「あのひとと同じような絵を描くことくらい簡単でしょう?」
「簡単ではありませんし、そもそも、簡単かどうかという問題ですらないのです!」
「今さら描くのを止めても無駄よ。一枚描こうが、百枚描こうが、ニセモノを描いたという事実は変わらないでしょ」
母の言葉に小さく首を振る。母は聞き分けのない子どもをなだめるように、肩をすくめてみせた。顔にはうっすらと微笑みすら浮かんでいる。今この瞬間の母を見たところで、娘に贋作の制作を強要しているだなんて誰も気づかないだろう。
「それならば、私の代わりに画廊に行ってちょうだい。今日は午後からお得意さまがいらっしゃるのよ。ここ最近の絵は、すべてその方がお買い上げくださっているの」
「……私は何をすれば」
「お客さまから欲しいものを聞きだすのも、あなたの仕事よ。それとも、今から絵を描く作業に戻る? お得意さま以外でも、あのひとの絵が欲しいかたは掃いて捨てるほどいるの。好きなだけ描いてくれても構わないのよ」
「お客さまの元に向かいます」
「すぐに支度なさい。はあ、それにしてもどうしてニセモノのあなたがここに残ったのかしら」
静かなはずの母の声に肩が震える。母はまぶたを閉じ、私のことなどもう忘れてしまったかのよう。それなのに、死んだ魚のようなどろりと濁った瞳で睨みつけられている気がしてならなかった。
***
私は下級貴族の家に生まれた。かつてはそれなりだった実家は年々財政が苦しくなる一方で、今では令嬢と名乗ることさえおこがましいくらいだ。持参金の準備などできるはずもなく、嫁き遅れに片足を突っ込んだまま、細々と暮らしている。平民で画家だった父と、生粋の貴族である母、そして双子の兄。「普通」とは言い難い我が家だったが、それでも私は自分の家族のことが好きだった。
若かりし頃の父は、大層魅力的な男性だったらしい。見目麗しく、奇抜な絵を描く新進気鋭の若手画家として評判だったのだとか。とあるサロンで紹介され、一目で恋に落ちた母は祖父母の反対をものともせず父と結婚してしまった。祖父母が最後まで反対をしなかったのは、母の一途な恋に心を打たれたからではないだろう。たぶん、彼らはわかっていたのだ。これ以上自分たちが強硬に反対すれば、母が駆け落ちしてでも父との愛を貫くだろうということが。
巷で話題とはいえ、いまだ駆け出しの画家と結婚したところで金銭的に立ちゆかなくなることは目に見えていた。愛があればお金なんていらないという台詞は、物語や演劇などではよく耳にするけれど、現実はそう甘くない。だからこそ、祖父母は娘のわがままを受け入れたのだ。目の届かない場所で苦労し野垂れ死にしてしまうくらいなら、手元でおままごとのような家庭を築いてもらう方がマシ。そう判断したのだろう。
父には絵を描く才能はあったけれど、お金儲けにはとことん向いていなかった。どんなに頼まれても、気が向かない仕事を引き受けることはなかったし、引き受けた仕事であっても途中で嫌になれば簡単に放り投げることも少なくなかった。肖像画を描くことも好まず、実入りの良い仕事にありつくことは難しかったようだ。そのくせ気まぐれに描き上げた絵を、見ず知らずのひとに譲ってしまったりもしていたようだから話にならない。
家に縛り付けられることも嫌っていて、ふらりと旅に出かけてしまう。父の行き先は母でさえ知らない。父は常に描きたいものを探していて、描くべきものが見つかったならそれ以外のことは忘れて、ただ目の前の対象だけに没頭するようなひとだ。それほどの情熱があったからこそ、父の絵は人々を魅了したのかもしれない。絵心はなくとも、絵を見る目はひと並み以上に優れていた母は、飽きもせずに父の絵を眺めていた。
一年の半分以上は音信不通。手紙が来ることはまれで、どこで何をしているかもわからない。それでも母は父との結婚を後悔していなかった。それほどまでに父に惚れこんでいたのだ。
***
子どもは親の背を見て育つと言う。私たち――私と双子の兄――が、絵に興味を持つことはごく自然なことだった。とはいえ、私も兄も父のようには描くことはできなかったのだけれど。
父の色彩感覚は兄に、手先の器用さは私に引き継がれたらしい。双子だから何でも「はんぶんこ」にすることに慣れていた私は納得していたけれど、何度か彼らに尋ねてみたことがある。
「どうして、お父さまとお兄さまは不思議な色で絵が描けるの? 私はちっともふたりみたいには描けないよ」
「ヴィヴィアン、僕たちと同じように描く必要はないんだよ。僕は、僕に見える世界をそのまま描いているだけなのだから」
「そうそう。ヴィヴィアンは周りを気にし過ぎなんだって」
毎回納得できずに唇をとがらせた私をあやしてくれた父の顔は、とても柔らかく優しいものだった。自由人で常識的とはとても言えなかったけれど、父は確かに私たちのことを愛してくれていたと思う。だからこそあの日、私たちは共通の友人の誘いに乗って、ちょっとした悪戯を仕掛けたのだ。
それなりに上手な絵を描くが、あくまでそれなりの私。父によく似た色彩感覚を持つが、絵はからきしの兄。それならば兄の色指定のもと、私が絵を描いたら一体どうなるのか。目端の利く茶目っ気たっぷりの友人の提案は、私たちにとってあまりに魅力的すぎた。冬至祭の贈り物にしようと、兄とこっそり絵を合作してみれば、父も母も目を丸くして驚いていた。
「僕、もしかしたら夢の中でこの絵を描いたのかも? なんて冗談を言いたくなるくらい素敵な絵だね」
「まあふたりとも、さすがお父さまとお母さまの子ね。なんて素晴しいのでしょう」
父にそっくりの色合いで、父が絶対に描かない肖像画を描いたのだ。私たち家族であって私たち家族でないような、少し不思議な絵。私らしさは欠片も存在しない絵だったけれど、両親が喜んでくれたというその一点だけで十分満足できるものだった。けれど私は、この行動を後に後悔することになる。
父がある日突然行方不明になった。初めはまたいつものことかと私も兄も気に留めなかったように思う。けれども、三月が経ち、半年が過ぎ、一年を超えても連絡がとれない状態となると、何かが起きたのだと考えずにはいられなくなった。
「父上を探しに行ってくるよ。大丈夫、路銀が足りなくなったら魔導具を作って稼ぐから!」
魔導具師になっていた兄は、手に職を持っている強みで融通が利く。他国での働き口にも困らない。父を探しに行くと兄が家を出て数年。兄からの手紙を受け取った母から、「父は死んだ」と告げられた。一体何が起きたのか母は語らず、兄もまた帰ってこない。けれど確かなことがひとつだけある。あの手紙を読んでから、母はおかしくなってしまったのだ。
私に「父は死んだ」と言っておきながら、葬式も挙げず、周囲に父の死を隠し通している。父の部屋を塞ぎ、私が持っていた画材などもすべて取り上げられた。突然、貴族の令嬢には相応しくない趣味だと絵を描くことを禁じられたのだ。
それと同時に、どんなに金を積まれても売らないと言い張っていた父の絵をあっさりと手放し始めた。そして売るべき父の絵がなくなりかけると、今度は私に贋作を描くように強要してきたのだ。どんなに拒んだところで、母は自分の要求を絶対に通してくる。
何より私自身の心の弱さが問題だった。ニセモノであっても絵を描くことができる。その誘惑に負け、絵筆を手に取ってしまった私が一番愚かなのだ。
***
渋々向かった画廊で紹介されたのは、最近羽振りの良さで有名な商人の男だった。ルークと名乗った彼は、色付き眼鏡が良く似合う銀髪の美丈夫だ。私などよりもずっと上等なものを身に着けている。自分とは違う世界に生きるひとに対して、私はこれから存在しない父の絵を売る話をしなければいけないのか。ため息を吐きたくなってうつむいた私のことを緊張していると勘違いしたのか、彼は柔らかく微笑んでみせた。
「本日はどのようなものをお求めでしょう」
「まだ全然イメージが固まっていないのだけれど。ただ、ここに来ればきっと素敵な出会いがあるだろうという予感だけはあってね。そしてその予感は正しかったみたいだ」
「……そう、ですか」
そっと手を握られる。相手の瞳に情欲の色は見えないが、一応やんわりと距離を置く。世間で評判の商人と言えど、男から格下相手の女への要求は結局誰であっても変わらないものなのか。思わず苦笑してしまった。
画廊を娼館か何かと勘違いしている男相手に話すのは、残念ながら初めてではない。パトロンを求める画家は大勢いるから、ちょっと粉をかければ簡単に身体を許すとでも思われているのかもしれない。私はパトロンを探しているわけではないけれど、ここで花を売ってお金を作ることができれば、母に贋作を描けと脅されずに済むのだろうか。馬鹿なことを考えているのはわかっている。けれど、それでももしもと想像してしまう程度には、疲れているのかもしれなかった。
「父の絵が、お客さまのお眼鏡にかなうかどうか」
「君は絵を描かないのかい?」
ああ、このために手に触れられたのかと納得した。確かに油絵の具を日常的に触っていれば、どんなに汚れを落としても爪の間に絵の具が残ることも多いのだろう。我が家には、兄が開発した魔導具があるおかげで、手が油絵の具まみれになることも、溶剤で荒れることもないのだけれど。手を離し、ひらひらと両のてのひらを振りながら語る。ここで真実を話す必要はない。
「私と兄には、絵の才能がありませんでしたから」
「才能がないと、絵を描いてはいけないのかな?」
心底不思議そうに尋ねられて、思わず固まってしまった。その純粋な眼差しが、心に刺さる。商会を立ち上げて、順調に出世してきただろうお客さま。挫折を知らないひとにはわからないのだろうな。そう言い返したくなり、ふとどこかで同じようなやり取りをしたような気がして、首を傾げた。
――わたしは、世界各国をまたにかけた商人になるよ。だから、大きくなったらわたしの隣で絵を描いてくれないか――
ずいぶんと昔、真っ赤な夕焼けの下で誰かとそんな話をしたような。ついでに何か美味しいものを食べたような。接客中だというのにぼんやりと考え込んでいたら、不意にぐうと気の抜ける音がした。
「もしかして空腹かな?」
「え? いえ、あの、えっと、はい……」
必死に否定しようとしたものの、その直後にさらに大きな音が鳴ってしまい、頬が熱くなった。確かに昼食が近い時間帯ではある。だが母と家にいる時には空腹なんて感じたことがないのに。慌てる私が面白かったのか、彼はゆっくりと目を細めた。
「せっかくだから、食事をしながら話をしよう。大丈夫、昼日中から変なことは考えていないし、支払いはわたしが持つ」
先ほどまでよくある不埒な男性客と思っていた相手と、どうして食事をすることになってしまうのか。さっぱり理解できない。そもそも父の贋作を売りたくなければ、このお客さまとは早々に離れるべきだ。それでも、なぜか彼と食事をすることが当然のような気がして、私は小さくうなずいた。
***
今日が初対面のはずのお客さまは、とても気さくなひとだった。
「この店のコケモモのパイは絶品でね」
「そうなんですね」
知っているとは言わずに、相槌を打つに留めた。この店は個人的に付き合いがあるのだ。それにしてもどうして彼はこの店を選んだのだろう。確かに美味しいお店だけれど、目の前の艶やかな男が通うには少しばかり庶民的過ぎるような気がした。
そんな私の疑問などどこ吹く風で、彼はまるで私の好みを把握しているかのようにてきぱきとメニューを決めてくれる。やはりモテる男性と言うのは、ぱっと見の印象から女性の食事の好みまで推測できるのかもしれない。さすがやり手の商人はすごい。
うんうんとうなずきながら食事に舌鼓をうつ。こんなに美味しい料理を食べたのはいつぶりだろうか。温かいスープが身体に染みわたる。こうやって胃の中に物をおさめてみれば、思った以上に自分が空腹だったことに驚いた。目を瞬きながら、それでも手を休めることをしない私に対して、お客さまはぱちんとウインクを飛ばしてくる。
「しんどい時こそ、美味しいものを食べなくてはね」
「それはあなたの信条?」
「大切なひとに教わったことだよ」
「あなたに大切と言われるなんて、きっと素敵なひとなんでしょうね」
「ああ、とっても素敵なひとだよ。そこに掛かっている油絵みたいに目が離せなくなるひとでね」
「へ?」
「わたしの趣味は宝探しでね、この店に来た時にあの絵に一目惚れしたんだ。店主さんに譲ってほしいと頼んだのに、絶対にダメだと言われてどれだけ悔しかったことか。君にはわかるかい?」
それはかつて私がこの店の主人にプレゼントした油絵だった。ずいぶん昔の作品だというのに、店主は律儀にこの絵を飾り続けてくれている。『もしかしたら、あの有名画家の下積み時代の絵として高値がつくかもしれんからな』と豪快に笑い飛ばした上で。
贋作を描き続けている私が、画家として大成することはありえない。それでもそんな冗談を飛ばしてくれることが妙に嬉しかった。あの絵は私が描いたのだと告げたなら、お客さまはどんな反応を示すだろう。名の知れた父の絵ではなく、私の絵が欲しいと言ってくれることはありうるのだろうか。
「君は」
お客さまが何を言おうとしたのか、最後まで聞くことは叶わなかった。店の扉が乱暴に開かれ、乾いた音が響き渡った結果、周囲が騒然となったからだ。母に頬を打たれたのだと気が付いたのは、それから数秒後のことだった。
「ヴィヴィアン!」
鬼の形相の母に、手を思い切り引っ張られる。母は私をまだ小さい子どもだと思っているのか、家から一定時間以上離れることを許してくれない。もちろん化粧も流行りの衣装も私には縁遠いものだ。いずれにせよ、楽しい時間はここまでだろう。目を丸くするお客さまに向かって、一礼する。
今の母は誰の話も聞いてくれない。話しかけたところで、周りが嫌な思いをするばかり。今の私にできることは、これ以上母を興奮させないように家に帰ることだけだろう。
「お客さまに手を出すなんて、なんてふしだらなのかしら」
「お母さま、落ち着いてください。これには理由があって」
「あなたの話なんて聞きたくないわ。ああもう嫌よ。どうしてニセモノがわたくしの隣にいて、あのひとやあの子はここに残ってくれなかったの?」
ずきずきと胸が痛む。やはり黙ってうなずいていればよかった。身体を小さく丸めながら謝罪を口にしようとしたが、私の唇にそっと柔らかな指先があてられる。思わず言葉を飲み込むと、お客さまがゆっくりと首を横に振った。
「ヴィヴィアン、君の人生は君だけのものだ。御母堂の人生が御母堂のものであるように。君の世界の広げ方は、君次第。同じ世界を同じように見ることは、家族にだってできないんだよ」
それは初めて聞くようで、どこか懐かしい言葉だった。お客さまが色付き眼鏡を外すと、真っ赤に輝く瞳が現れた。なぜか頭がくらくらする。
「注文をお願いする。題材は、約束した通り例の場所についてだ」
「あら、契約はしっかりとってきていたのね。無駄に色気づいただけではなくって、安心したわ」
「大丈夫だ。君の思う通りに書けばいい。絵の下に描いた君の願いは、全部叶うよ。ああこれは、顔料として使ってくれ」
お客さまが言う「約束」「例の場所」という言葉に、胸がざわついた。それに絵の下の願いをどうしてあなたが知っているのか。ただの美丈夫だと思っていた相手の顔が、急にまぶしくて直視できなくなった。
「……ルーク?」
「お客さまに敬称もつけられないなんて、教育のやり直しが必要なようね」
家にたどりつくなり、父の使っていた部屋に閉じ込められた。こもった画材の匂いを嫌うひともいるだろうが、私にとっては馴染み深い香りだ。ずっと昔に描きかけていたキャンバスを探し出し、座り込む。
もうすっかり乾いてしまった油絵の具の上に指を這わせながら、久しぶりに湧き出した描きたいという気持ちに心が満たされていくのを感じていた。
***
「ご依頼の品でございます」
完成した作品を前に、母と依頼主であるルークは満足そうにうなずいていた。
「これは本当に素晴らしい」
「ええ、お客さまに喜んでいただけて、主人も喜ぶことでしょう」
母の言葉にお客さまは、可笑しそうに笑い出した。むっとした顔の母には目もくれず、とうとうと語り始める。
「この絵はあなたの御主人が描いたものではありませんよね」
「何をおっしゃっているのか、さっぱり理解できないわ」
ああやっぱり知っていたのだと納得する。一方、母はひどく不機嫌そうだ。ルークは、母のことなど気にした素振りもなく鞄から不思議な箱を取り出した。
「こちらの魔道具は、ヴィヴィアン嬢の双子の御令兄さまから預かったものです。彼は他国でも特殊な魔導具を作る魔導具師として有名でしてね。これを使えば、油絵の表面を薬剤で落とさずとも、描かれた絵の下に他の絵が描かれているものがわかるのです」
「あの子も馬鹿な魔導具を開発しているのね。まったく無意味な物ばかり作って」
「あなたにとっては無意味なものかもしれませんが。わたしにとっては、何よりもありがたいものでした」
兄は魔導具の設計が得意だった。好きこそものの上手なれ。一般的なものだけではなく、使い方があまり想像できない一風変わったものも好んで作っていたはずだ。大衆受けするものではないが、欲しいひとには究極の逸品としてもてはやされているらしい。まあ、この魔導具を兄が作ったのは、私の昔からの癖を知っていたからに他ならないのだろうが。
「わたしがいろいろと説明するよりも、実際に見ていただいたほうが早いでしょう」
彼が出来上がった絵画に、魔導具の光をあてる。すると魔導具には、塗りつぶしたはずの絵の下に隠されていた私の願いが映し出されていた。具体的には父そっくりの雰囲気で仕上げた風景画の下に、絶対に父が描きそうにないふくふくとした子どもの絵が浮かび上がってきたのだ。それは、私と兄ではない。かつて約束を交わした私とルークの幼い頃の姿だ。父の風景画の色合いとはまったく異なる光に満ちた子どもの絵。それは不思議なほど自然に調和して見えた。
そう、私は子どもの頃に彼と過ごしていた時期がある。彼はたまたまこの地方を訪れていた商人の息子だった。今のように自信たっぷりではなく、才能がないから商人になんてなれないとべそべそ泣く彼に、「世界には綺麗なものがたくさんある。宝探しにいってごらん。好きこそものの上手なれとも言うし」と偉そうな口を利いたのが私だ。私はと言えば、母に怯えてふたりきりの狭い世界で息を潜めて生きていたというのに、彼は昔の約束通り輝く宝を手に入れたようだった。だから私も、もう母に怯える日々は卒業しようと思う。人間、死ぬ気でやってやれないことはない。
「ヴィヴィアン、これはどういうことなの!」
「依頼された絵を描く前にキャンバスを滑らかにしただけです」
母は意味がわからないと言いたげに金切り声を上げた。あるいは意外なことだったが、母は父の絵の描き方を完全には見ていなかったのかもしれない。
「新品のキャンバスにそのまま絵を描き始めると、絵の具の色がうまくのらないことがあります。描き手の好みだとは思いますが、父はキャンバスをまず真っ白な絵の具で丁寧に塗るところから作業を始めていました。熟練の左官のように、壁を綺麗に塗り固めるかのごとく寸分の狂いもなく真っ白にキャンバスを塗りつぶすのです」
それは真っ白な雪原のような、正しく静かな世界。出来上がった絵画の奔放さとは裏腹さ。やがて寸分の狂いもなく、父の見た色が適切な場所にぴたりと当てはめられてゆく。私には描くことのできない世界だ。
「私は、父の絵を真似てたくさんの絵を描いてきましたが、キャンバスを真っ白に塗りつぶして描き始めたことはありません。そんな勿体ないことできるはずがありません。ニセモノを描き続ける毎日の中で、唯一の私の楽しみでした」
私なりの絵が完成したところで、結局は塗りつぶされて、売り物用の贋作を描くことになる。だからこれは決して見つかることのない私のささやかな反抗でしかなかった。絵の具が劣化するか、あるいは気まぐれな未来の人間が表面の絵の具を落とそうとするまで誰にも発見されないはずだったのだ。でもこの魔導具があれば、私の悪事は完全に明らかになるだろう。
「あなたの御令息とは、他国で偶然知り合いましてね。彼はあなたの動向を把握していたようですよ。わたしに、ヴィヴィアンを守ってほしいとこの魔導具を託してくれました」
「妹が贋作を描いていると公表して、何が家族を守ることになるというの。理解できないわ」
その通りだと私も思った。むしろ私はそれでもいいと思ったから、ルークの誘いに乗ったのだ。理由はわからなくても、彼は私が贋作を描き、贋作の下に私自身の絵を好きなように描いていることもまた知っているようだった。贋作を描いているのがバレたなら、一巻の終わり。けれどそれは私がただのヴィヴィアンに戻ることを意味する。本物の画家にはなれないけれど、少なくとも父のニセモノでいなくても済む。
そこでルークは、小さく首を振った。
「わたしは言ったはずです。これは、ヴィヴィアン嬢の悪戯シリーズだと。敬愛する父親の模写をしつつ、その下には自分の絵を仕込んでおく。魔導具を持っている客だけが、模写の下に眠る素晴らしい絵を楽しむことができるのです。好事家のための宝探しゲームですよ。まあ今のところ、ヴィヴィアンの悪戯シリーズはすべてわたしが買い取っているので、わたしのためだけの特別開催なのですが」
「それは、警邏を呼ぶつもりはないということかしら」
「僕は、新進気鋭の女流画家の話を聞いて久しぶりに子ども時代を過ごした国に来ただけなのに。どこに犯罪の要素があると?」
ぎゅっと強く抱きしめられて、私は顔が赤くなる。
「私、捕まらないの?」
「残念ながら、君に首ったけの僕に捕まっている。かつての約束通り、一生かけて幸せにするから諦めてくれ」
ずっと昔、貴族だった私に「いつか立派な商人になるから、それまで待っていて」と私に懇願してきた少年は約束を守ってくれた。私自身待ちわびて、やがて諦めて記憶の彼方に置いてきた約束を、彼は守ってくれていた。
「どうして! どうしてヴィヴィアンだけが幸せになれるの! わたくしはこんなに頑張ってきたのに! あのひとも、あの子もヴィヴィアンだけを見るなんて!」
そこで母がつんざくような悲鳴を上げた。
***
なぜあれほどまでに母が私を管理しようとしたのか。不意に腑に落ちた。
世の中には、子どもに自分の夢を託す親がいるという。だがその一方で、自分が得られなかった未来を、子どもが手にすることを絶対に許さない親もまたいるのだという。母と私の間に愛情がなかったとは思わない。けれど母にとって私は家族でありながら、敵にも似た存在だった。今さらだが、家族の中で私に向けられる視線だけが少しだけ温度の違ったのも納得がいった。
母は、父を愛していた。父の描く絵を愛していた。では、その父が絵を描かなくなったなら、母は父を愛することを止めるのだろうか。そして、父とよく似た息子は絵を描かず、自分によく似た娘は愛する夫の絵に似たものを描く力があったとしたら……。
それは正直に言ってただの八つ当たりだ。完全なるとばっちりだ。それでも、母にとってはそれこそが世界の真実なのだろう。私たちは同じ世界に生きているけれど、完全に同じ世界を見ることはできないのだ。父が見る世界を私は決して見ることができないのと同じように。
「お母さま、お兄さまからの手紙を読ませていただきました」
「何を勝手なことを」
「あの手紙は、お母さま宛ではありませんでした。私宛でもあったのです。読む権利があります。お母さま、お父さまは生きているのですね」
「……絵を描くことを止めたのだもの。死んでいるのと変わらないわ」
母が吐き捨てた。その横顔はぞっとするほど痩せこけていて、どうしてこのひとがあれほどまでに恐ろしかったのか、今となっては理解することができなかった。
「ひとまず、お母さまはお父さまの元へ行ってみてはいかがですか。お兄さまからも、お父さまの元へ来るように言われているのでしょう?」
「わたくしも絵も捨てて逃げたのに? 今さら何を話せと?」
「そう思うなら、行かなくても良いでしょう。お父さまの元へ行くのも行かないのもすべてお母さまの自由です。ですが私は、やらないで後悔するよりもやって後悔するほうが好きなので」
私は私で、お母さまはお母さまで、信じた道を進んで行けばいい。お互いに見える世界が違いすぎるから一緒に生きていくことはできないけれど、別々の世界でそれぞれの幸せを探して生きていくことはできるはずなのだから。
***
あれから私は、夫となったルークの仕事に同行している。旅の続く商人の暮らしは、絵の題材に事欠かない刺激的な毎日だ。兄は魔導具師としてひっぱりだこになっているようだ。両親のことはわからない。刃傷沙汰にだけならないでいてくれたらそれでいい。男と女のことは、家族と言えどもきっと理屈では説明できないものだと思うから。
「ヴィヴィアン、今度はどこへ行きたい?」
「あなたの行く場所だったなら、どこへでも。でも、今度は暖かいところへ行きたいわ」
私は今日も絵を描いている。ヴィヴィアンとして、私の好きなものを好きなだけ詰め込んで。どんな評価をもらっても、これが私。約束の場所――あなたの隣――で前を向いている私こそが、自分の人生の主役なのだから。
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